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2019-08-23 17:32:00

アスペルガー坊主‼️

わたしは本当に「アスペルガー」だと思っている。

仲の良い友人に、「中神さんは社会不適合者」だからとマジいわれたことがある。

 

わたしのようなものは「へん」なのだろう。

 

「幼児期から、親戚のひとたちから、オマエは変わり者だ」といわれてもいた。

 

学校で「英語を教える」からはじめは独学で「中国語を学び」その後マジの中国人から「中国語を学ぶなど」社会に異を唱えてきたのは「事実」である。

 

「勉強ができて成績の良いものを良しとして、成績の悪いものを廃する教育にも異を唱えて」

「高校時代に何人かの先生に意見した」が、とりあってもらえずだった。

 

じゃあって「3年の時には、あえて白紙解答を出して0点を良しとした」時期もあり、おもしろい先生の時は「100点取ったる」といって、挑戦して勝ったり。。

 

このことは、今年高校の先生にたまたま出会って、飲んだ時に言われて思い出したことだけど。。

 

とにかくわたしは「へん」なのかも知れない。。

 

アタマにあることの「出し方がふつうのひととは違う」ともいわれたことがある。

 

アスペルガー坊主は、「所詮、社会から受け入れられない」のか、「マジな仏教の観点からモノを言うから」社会不適合なのか?

 

よくわからなくなっている(≧∀≦)❣️

「社会的には確定アホ」である‼️

2019-08-23 17:31:00

観光と観闇‼️

学校で「授業を親が見にくるとき」は、先生もいいかっこしようとする。

 

そのいい姿しか見ない、これを「観光」という。

普段の先生や生徒の裏側を見ることがあれば「観闇」になるだろう!

 

旅行も「いいところばかり見る」観光ではなく、

その国の裏側を見て、世界各国が補い合い助け合う「観闇」が必要な時代といえるだろう‼️

2019-08-23 17:28:00

世界人口の。。‼️

世界人口77億人のなかで、日本が約1億として、その中の10%が真宗門徒として1000万人。

 

その中の「まともな念仏者」が1000人だとしたら、真宗僧侶門徒の0.0001%になる。

 

これは世界人口のおよそ0.0000001299%である。

(計算は間違いないと思うけど)

この数字を「貴重な数字」と見るか「真宗は世界的に認められているという僧侶の勘違い」と見るか。。

名号がひとりばたらきをしていても、この程度か?

 

日本に訪れる旅行者は、平成30年で3119万人という。

だとすると世界人口の0.0040506494%である。

 

最近いろんなところで「インバウンド」だの、海外旅行者が増えて「日本は人気」だというけれど、

この程度である。

 

世界は、日本にそれほど興味もなく、真宗なんか日本人ですらこの程度なのである。

 

ここ数日、そこでいくら「真宗がすべて」と叫んでみても仕方がないと思っている。。

 

イヤイヤ「数より質」と「一人が信心を取ること」といってみても、「一人」になったら「自分が所属する寺」すら守れないことになる。

 

そういう意味で「わたしのようなものではない」ほんとうに社会的に適応できる「キチンとした布教使」が重要になってくるのだと思う昨今である。

 

ある門徒や僧侶ではないひとが、先月の法話会に参ってくださって、

その方が言った「中神さんの話は、いい意味でグサッと刺さってくる」。。

25日にまた来られる布教使さんは「ジワっと染み込んでくる」と。。

 

わたしに関しては「いい意味で」という部分は不要だと思うが。。

いい布教使さんに会所を引き継いでいこうと思っている❣️

2019-08-23 12:51:00

退き際‼️

そろそろ坊主の辞めどきかもしれない。。

親友から、わたしが坊主を辞めて、キリスト教かなんかにはいって、そこから仏教を語って欲しいという「マジな意見」もある。

これからは坊主の終活整理をしていく段階かと思ってもいる。

2019-08-23 02:02:00

化身土文類の必要性❣️

以前、沖縄別院で聞いて印象的だったのは「とにかく文化が違うから、どうしても阿弥陀如来を安置してくれない」。。

ということだった!

 

台湾では、とにかくあれもこれも、道教や儒教や仏教など「混在してる」し、

中国は「原則宗教は禁止」だし、東南アジアは、ヒンドゥー教が多くて、なんでもあり。

 

人間にとって、「真宗」である必要があるのか?

逆に「真宗」以外ではいけないのか?

 

正しさは「ひとや民族などなど」によって違う。

 

真宗においても「空華だろうが、石泉であろうが、お東だろうが」その違いを論じなければならないのか?

 

いまわたしは「わたしの善知識」といってもいい人からの意見を真摯に聞いていて、「論の押し売り」をしているのではないかと思うようになっている。

 

教行証文類を読もうがどうであろうが、もはやわたしも「バイブル」を読むようになって、「真実、真理」の定義も時代や地域によって変わり、そこにも真実があると理解している。

 

今日は東京の「いわゆる文化人」に法話をした。

 

内容的には、「人間が人間の論で意思決定をしないこと」が世界標準に重要だということで、その中で「景教について」や神道と「古代ユダヤ教」との関係。。

 

これらの持つ意味を、「人間以上の存在の意思決定」に定義して話をした。

 

そして「悪魔崇拝」といわれる「ルシファー 」についても、「人間の悪魔性を見られている」という意味があり、決して「悪魔崇拝ではない」などということを話したが、

 

その後の茶話会でも、「そういう見地」を支持されたけど、よくいう「その人が救われていればなんでもいい」という、「意味不明」な「救い」において、

「救われた状態」について、「仏教でいう救いはさとることです」なんて言って「救い」を「さとりで定義」する必要があるのか?

と感じた!

 

たとえば「騙されていても」それでその人が救われていればそれでもいいんじゃないか?

というような意見もあったが、「騙されていた」と気づいても、そういう人は「自分が騙された」ということはない。

 

化身土文類にある「仮」も「偽」でも、それを「邪」として排除することは、ある意味「世界を敵にすること」になるだろう。。

 

ただ定義や理由も知らず「神や仏を同じステージ」で論じるのはおかしいとは話した。。けれど。。これさえ必要なことなのか?

 

アメリカに行って「キリスト教は《邪や偽》だ」と言えるか?

「沖縄別院」でさえ、「ムリクリ阿弥陀如来を安置した」として、それで「安心」するのは坊さんであり、その家のひとではないだろう。。

 

あくまでも「一般論」であるが、「化身土文類」は、このような「グローバル社会」に必要なのか。。

 

「はじめての親鸞」を書くときに、「中央公論社」の社長が「化身土文類」は「現代人に意味はないから詳しく書かない方がいい」と言われた。

 

当時もいまも「最終意思決定」を占い師に任せている経営者もけっこういる‼️

 

たしかに「グローバル社会」で、宗教に関わらず、いろんなことをそれぞれが「信じていたりという時代」に返って「ドグマ(独善)」といわれる可能性はある。

 

現代に「顕彰隠密」というような「ややこしい教義立て」が意味をもつのか?

「難信の法」が難信なら「不信でもいい」かも知れない。

 

少し前に「友人」が、「韓国人のお葬式」をして、どういえば「真宗に気持ちが向くか」と相談してきたが、

「ムリなものはムリ」である。

 

「要門」で「大会衆」を作ることに意味があるのか?

布教の現場でも一部を除き「論より情」が喜ばれる。。

 

そもそもすでに、難しい論を持ち込まなくても「阿弥陀如来」に座りをもっているひとに論が必要なのか?

 

どうも「化身土文類」を書いていて、「善知識」に教えられ、今日の東京での「文化人」といわれている人のように「論を喜ぶ」けれど「座り(自己の思考)は変化しない」のなら、

「教行証文類」を講義することが意味を持つのか?

 

「なぜ生きるか?」という問いや「ものごとを意味のあるなし」で判断すべきかどうか?

 

以前「ホームドクター」にこういうことを話したら、

「わたしの父は、80才のいま、ただ黙々と生きているけれど、その父の後ろ姿に、とにかく理屈抜きで生きること」。。

「それで充分じゃないかと思った」といわれたことがある。。

 

ひとは「意味を求める」けれど、「維摩経」の「維摩の一黙、雷の如し」というように、

こういうことを考えること自体が無意味なのかと思う。

 

「絶言」の「さとりに意味はない」といえる。。

だから「目の前のすべきこと」に気持ちを向けられる「心」に導くことができたらそれでいいのかもしれない。

 

ひとは「企画より善意の誠意に動かされる」ということばもある。

 

以前わたしは「さとりは納得である」と論じていた時期があった!

「天国でまた会いましょう」と言って「互いに納得」できれば良いとも思う。。

 

いまから20年ぐらい前には「靖国で会おう」といって「死んでいった戦友を思って」真宗の「靖国批判」に納得できないという門徒さんがいた。。

 

その気持ちや思いを「親鸞の教義」だ「社会問題だ」といって、「批判してみても仕方がない」とも思う。。

 

このように「真実」を確定するのは難しい。

だから「シュレディンガーの不確定性」はもっとも真実に近いのかも知れない!

 

けれど、このような思いを巡らせる中で、改めて「はじめての親鸞」の結論でよかったと思う‼️

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