インフォメーション(日々更新中)

2019-08-21 02:55:00

三業帰命でも自力でもない‼️

わたしが論じているのは、「自力」でも「三業帰命」でもなんでもない。

 

「自然」の「他力(縁起力)」による「五念門五果門」のことであり、「教行証文類」の本質である。

 

単に蓮如さんを「論じない」だけである。

2019-08-21 02:27:00

本堂の内陣は「浄土」なのか?

真宗における本堂の内陣(通常僧侶が座る方)は、浄土をあらわしているという。。

 

しかし、アビダルマ仏教の「宇宙観」である、須弥山は阿弥陀如来のしたに「須弥壇」としてあり、

阿弥陀如来自身が宮殿(くうでん)にいる。

 

これは、親鸞さんがいう「疑城胎宮」の「宮殿(くでん)」と同じになる。

しかも真ん中の礼盤のうえに「人天蓋」があり、「天をあらわして」いる。

 

また、僧侶が入堂するときには「通常、阿弥陀如来の後ろ」から出てくる。

そして「黒衣」の時や「色衣」の時がある。

 

また、「成仏したはず」の「親鸞さんや蓮如さんをはじめとした歴代門主」は「厨子」に安置される。

これは基本的に「ドアが閉まり」鍵がかけられる。

いわば「収納している状況」である。

 

このような内陣を「いつからだれが浄土定義」したのか。。

 

これは「阿弥陀如来を宇宙のトップ」として、「その本質は光明」だから「後背」が光明なのであろう。

そして仏像はあくまでも方便だから「宮殿」にいる。

 

そこでまた、僧侶が阿弥陀如来の後ろから出てくる以上「還相回向」をあらわすのか、阿弥陀如来を讃嘆している「聖衆や人天」なのか。。

 

いずれにせよ、内陣は「阿弥陀如来(無碍光如来)」を讃嘆する「五念門行」を行じている姿をあらわしていて、「仏を観察している姿」でもある。

 

そこで「僧侶は事実その場面で五念門を行じて」、そして外陣は「五念門を行じるありかた」をモデルとして観る。

 

また一緒に「行じる」なかで、「五果門」の「大会衆門」になり、「薗林遊戯地門」として「自信教人信」「他利利他」の場となる。

 

であれば、本堂全体が「浄土論や浄土論註」の「五念門五果門」の場になる。

 

これならば、「人天蓋があろうが、須弥山のうえが宮殿であろうが、厨子に納まっていよう」が、問題ではなく、

 

本堂すべてが「念仏の道場」といえる。

 

お西では「お勤めや法要」を「五正行」によって解釈し、信心を得ることを「安心門」といい、そのうえで「お勤めや法要をする」ことを「起行門」という解釈をする。

これは「蓮如さん解釈」である。

 

しかし、親鸞さんは「五念門五果門」によっているから、ここに記述したように解釈するほうが「親鸞さん」に合致すると思うのだが。。‼️

2019-08-20 02:39:00

8月25日の学習会❣️(13時30分からに)

8月25日の学習会を、13時30分に変更いたします。

昼食後、慌ただしくないように、余裕を持たせて開催いたします。

なお、終了は16時です❣️

なお、会場(別院)は13時には開場しております‼️

2019-08-19 03:22:00

浄土はなぜ国なのか?

浄土を国という!

浄国、極楽国土、浄邦などという。

また、「諸仏国土」といい、いろんな仏がいて、それぞれの国をもつ。

これはなにを意味しているのか?

 

地球における国は、いつだれがそういう境界線を作ったのだろうか?

地球における国は、民族の違いや政治による境界線なのだろう。

とはいえ、なぜ国なのか?

そして争うのか?

 

アメリカのように合衆国として、イギリスの連邦のように、それぞれの地域による自治を尊重しているように見える国のあり方もある。

 

また、ワンワールドという考え方があるけれど、それは、一部の支配層が「仕掛けて」支配するための思想なのだろうか?

 

地球国🌏として、地球がひとつの国になることは、究極の理想であるとすると、結果的に「支配層」が勝手なことをするようになるのが人間の愚かさなのかもしれない。

 

ある「世界的なグループ」では、「惑星法」という法を有して、宇宙人との関係性において、地球とそれ以外の惑星との関係を「規制して」いて、「人間種」を守るとしている。

 

この「グループ」は、べつにカルトでもオカルトでもなく、資本主義社会の知識層のひとたちが一部で作っているグループであり、「おかしなひとたち」ではない。

 

じつは、こういう発想も「ワンワールド」と変わらない、日本人が知らないだけの「資本主義世界の標準」といえるのだろう。

 

もとい、「浄土」が「国」である必要性については、「そこは素晴らしいところ」で、「それ以外は愚かな世界」ということではないと前提定義しなければ、「独善的な国」という「自我国」になってしまうといえる。

 

地球における国という概念とは違うのは、間違いないのだろうが、ウラを返せば「地球における国」も本来は、「仏国」と同じ概念であるべきなのかもしれない。

 

では、浄土や仏国という次元における「国」という概念があらわしているのはどういう事柄なのか、以下興味深い「論文」があったので、その一部を引用して、アドレスをコピーしておきます。(論文作成者さまへ敬意を持って)

 

「私がいう世界は、そこにある客観的な事実です。たとえば私を中心とすれば、そこに父があり母があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界がガラッと変わる。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。あり方の関係が変わるだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変わる。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。

 私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の國の住民である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の國の住民である。

 私の國が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の國が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。

 その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それは、その人が、周囲の人の胸にどう映っているかというところに現われている。」( 仏教開眼四十八願)

 この一人一人を王とし、その人を取りまく「関係世界」を「國」と名付けます。

http://www.gujo-tv.ne.jp/~tyouzenji/butukokudo.htm

 

以上引用ですが、この論から考察するに、「国は次元」と同じ概念なのかもしれません。

 

そこに生きているひとの中で「パワーバランスの強い存在」に影響を受けて、変化が起こるということは、「そのパワーバランスの上で強い存在」が浅いものの考えかたをしていれば「その国の人はそうなる」、深ければ深くなる。

 

そういう意味で「さとりという次元を共有する者たち(サンガ=和合)」がいるところは、すべて「仏国」という次元になるといえます。

だから「仏国」は「境界線を意味しているのではない」といえます。

 

 

そういう点で「地球における国」も「よりよき価値観」という次元を共有するものが生まれる政治をするべきなのだといえるでしょう!

 

これが地球においても、「民族性」や「お国柄」ということにもつながります。

なにを「価値」とするかは「国によって違い」それは、DNAの違いでもあるでしょう。

 

そもそも「生きている次元」が違うのです。

究極の理想であるかもしれないけれど、そのなかで「より良き価値を目指すこと」が重要なのだといえます。

 

そういう意味で「ワンワールド」は難しいのかもしれません。

また、だから「仏国」や「キリスト教」の「天国」という概念が「高次元の価値観」を人間にもたらす概念でもあり、あえて表現上「国」である必要があると言えるのだと結論づけられるのでしょう‼️

2019-08-18 04:55:00

そもそも南無阿弥陀仏はインドのものではない‼️

早速ですが。。

 

経典上「南無阿弥陀仏」という連語が出てくる経典は、

「観無量寿経」のみで、これは、法然さんが、中国の善導さんが「観無量寿経の解釈書」(観経疏)を書いていて、日本の数多く輸入された仏教書から発見したものです。

 

ですから「浄土宗」は「観無量寿経」が中心になるので、浄土宗の僧侶は観経をよく読誦します。

 

しかし、親鸞さんは「無量寿経」を中心にしていて、「観経」は基本「方便の経」と位置づけています。

 

基本というのは「最終的には方便の中に真実がある」という「隠彰」という解釈になります。

 

そもそも「浄土宗」や「浄土真宗」には、「浄土三部経」といって「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つが重要経典とされています。

 

しかし、「無量寿経」には「阿弥陀仏」という文言すら出てきません。

「阿弥陀経」には「阿弥陀仏」という文言のみ出てきます。

 

そしてじつは「観無量寿経」は、もともとインドのものではなく「中国で作られたお経」というのが定説になってきています。

それは、「サンスクリット語」などの原本が残っていない。「翻訳本がひとつしかない。(無量寿経などは5つあります)」などのいくつかの根拠があって、専門的にはほぼ確定「中国撰述」とされています。

 

とすると、親鸞さんが、師匠が大事にした「善導さん」と「観経」よりも「無量寿経」を真実としたということには意味があると考える必要があります。

 

「無量寿経」に関しては、インドの天親さん(ヴァスバンドゥ)が書いている「浄土論」やそれを解説した、中国の曇鸞(どんらん)さんの「浄土論註」を親鸞さんは重視したからと言えます。

 

この二つの書物は「仏教学」を原則にして「浄土教」を解釈しており、称える名前を「南無阿弥陀仏」ではなく、

「帰命尽十方無碍光如来」にしているのです。

 

そして、親鸞さんは「教行証文類」に行を「五念門」、行の果を「五果門」としています。

 

しかし「本願寺八代目で中興の祖」といわれている「蓮如さん」は「善導さんの五正行」を重視していますが、親鸞さんの教行証文類には「五正行」は「真実行」について一ヶ所しか記述がありません。(しかも行文類ではなく信文類にあります)

 

このように大きく二人の先人は違うことを説いているのに、この二人の言ってることを同じだと定義するには無理があります。

 

しかし西本願寺は「ムリクリ同じ」だと定義するためか、「真宗の行」は「南無阿弥陀仏そのもの(法体)」だといって、

「阿弥陀仏が勝手に行じて、その行の功徳を南無阿弥陀仏の六文字に込めて与えられている」と解釈するため、

「わたしの行なう行はない」といってしまうのです。

 

「行は南無阿弥陀仏そのもの」だと説くのです。

 

しかし「教行証文類」を読んで、どう読んでもこの内容では筋が通らないのです。

あくまでも「行」については「浄土論」の「帰命尽十方無碍光如来」の五念門中の讃嘆門行になっています。

 

ですから「親鸞直筆」には意外と「帰命尽十方無碍光如来」が多く、「南無阿弥陀仏」は比較的少ないのですが、

蓮如さんがたくさん書いたので、蓮如さん直筆は「南無阿弥陀仏」メインなので、お西では、「南無阿弥陀仏」を重視します。

 

しかし戻って考察すると「観経」を親鸞さんは「方便経」としていて、そこにしか「南無阿弥陀仏」はないうえ、

親鸞さんが重視した「無量寿経」には、「阿弥陀仏」の文言すらありません。

 

こういう点を鑑みても、親鸞さんは「帰命尽十方無碍光如来」を重視していて、師匠の法然さんにならって「南無阿弥陀仏」をも重視しているかのようです。

 

ですから「西念寺別院」のメインは「帰命尽十方無碍光如来」にしています。

 

これは「教行証文類」を読めば、誰にでもわかることですが、「教行証文類」を読むのに「既存の思い込み」や「そもそも読んでいない」「部分的にしか学んでいない」僧侶が多いために、理解されていないのが現状です。

 

このことは「わたし」にどうこういう前に、ご自身で「既成概念」抜きで読んで見られればわかることです‼️

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