インフォメーション(日々更新中)

2019-12-29 04:20:00

スピリチュアルのほんとうの意味‼️

引用

ーーーーー

 

「spiritual」という単語は英語の日常会話で、ごく普通に使われます。

たとえば、以下はNHKの語学番組「トラッド・ジャパン」で採り上げられた会話です。

 

「伊勢神宮に行ったことがありますか。」(Have you ever been to Ise-Jingu?)

 

「ええ、とても厳粛な気持ちになりました。」(Yes, I have. I found it be very spiritual experience.)

伊勢神宮を訪れたときの気持ち(雰囲気)が英語では「spritual」と表現され、日本語では「厳粛な」と訳されていました。日本人の私たちには「spiritual」が表現する雰囲気が、この例で良く理解できるのではないでしょうか。

 

では、どうして日本ではカタカナ語の“スピリチュアル”には、

かなり異なる意味が与えられてしまっているのでしょうか。

 

ひとつには、「spiritualism」(スピリチュアリズム)という言葉との混同が考えられます。

これは19世紀中頃にフランス人のアラン・カルデック(本名イポリット・レオン・ドゥニザール・リヴァイユ、1804~1869年)が広めた降霊術のことを指します。

「spiritual」という英語の典型的な美しい意味には、この降霊術のことは含まれていません。

 

そして、もうひとつ、「psychic」(サイキック)という言葉との混同があります。

この語の語源はギリシャ語の「サイキ」であり、元々は魂のことを意味していました。

辞書によれば、「psychic」には、「精神の」、「心的な」、「心霊の」などの訳語があてられるので、

「spiritual」(スピリチュアル)と混同しやすい語です。

 

この「psychic」(サイキック)という言葉が典型的に使われるのは、

現在では、いわゆる超心理学の分野です。

つまり、クリヤボイエンス(千里眼と透視)、プレモニッション(予知)、テレパシー(思考伝達)、

サイコキネシス(念動)などの超常能力に関連する事柄を指しています。

 

このような能力が人間にほんとうにあるかどうかを、ここで議論しようとは思いませんが、

「spiritual」(スピリチュアル)という英語がその意味に含んでいる「人の心のもっとも深奥にある、善良さ美しさと素朴さ」というニュアンスと、「psychic」(サイキック)という言葉の意味は、

かなり離れたものであることはご理解いただけることと思います。

ーーーーー(引用)

2019-12-28 05:53:00

論と情のバランス《智慧と慈悲》❗️

【論と情のバランス】

 

仏教の「智慧」をもつと、「こころは[論]に落ち着く」のです。

「無常無我(非我 )空」といった内容です。

 

ここに徹するための良き方便(善巧方便)は、ひとつには「阿弥陀如来や法蔵菩薩モデルを生きること」といえますが、ここに「情の側面」として「慈悲」が出てきます。

 

これが「無常無我(非我 )空」ではあるけれど、「相手を理解して、相手の状態に相応しい態度を持って、相応しい言葉や示唆を与える」キリスト教では「愛」といえるような「精神的感応道交の関係」といえます。

 

ここに「無我(非我 )と無我(非我 )の一如を元にした、論が情から伝わる」という関係性が生まれます。

 

そこには「なんの駆け引きも損得もない状態が生まれる」のです。

 

「子どもを亡くした親に、何をいえばいいのか?」という駆け引きのような思いは必要もなく、そういう人にでも「分かりますよといった気持ちで穏やかに接する」だけでいいのでしょう。

 

以前「神奈川県」で、「電車の踏み切りで立ち往生しているお年寄りを助けて、助けた40才ぐらいの女性が電車にはねられて亡くなったという事故」がありました。

 

わたしはそのお宅に「なんの意図もなく、友人の発案でお悔やみに伺った」ことがあります。

 

そのお宅は「異なる宗派」でしたが、「友人の気持ちに誘われて」伺いました。

いきなり伺って見ず知らずではあるけれど、「僧侶として伺いました」といったところ、抵抗感もなく、おうちにあげてくださいました。

 

その時は「ご両親のお話を、穏やかにありのままの気持ちでお聞きしていました。」

 

ひとつだけ、ご両親から「娘は成仏していますか?」と聞かれたので、

ふつうに「もちろんです」というと安堵されていたのを、いまこれを書きながら思い出しました。

 

そこで「わたしは、悲しみを和らげてあげようとか、なにか言ってあげようという思いは全くなかった」のです。

 

自然体のやりとりでした。

 

「智慧と慈悲という、論と情のバランス」が自然と取れるようになる。

これが現代の定義による「至高のスピリチュアル」なのだと思うのです‼️

(事故は2013年10月のことでした。)

 

村田奈津恵さん(40)

https://matome.naver.jp/odai/2138068664668978601

2019-12-28 05:22:00

感情のギフトその2❗️

【感情のギフトその2】

 

動物の中で「表情筋」をもって「笑う」のは「人間」だけです。

 

赤ちゃんと親のコミュニケーションも「赤ちゃん」が「泣くこと、笑うところから始まり」ます。

 

だからいくら「赤ちゃん」が泣こうとも笑おうとも「反応しない、育児放棄な親(ネグレクト)」で育った「赤ちゃん」は「泣くことも、笑うこと」もしない子になります。

 

結果「親子の関係は、感情からスタートする」ということは重要なことでしょう。

 

人間において、「笑うこと」は重要な「コミュニケーション」のスタートなのです。

 

では、釈迦は「笑ったのか?」、「微笑む」ということはあったと「経典」にはありますが「爆笑した」ということはないでしょう。

 

キリストが「爆笑した」とも聞きません。

 

つまり、悟ったものでも「微笑」という「笑顔」のような表現は大切なのです。

 

これこそが「さとりに住する落ち着いた笑顔」で、「論と情のバランスが取れた、ひとを安心に導く「表情」なのでしょう。

 

「人間(親子)のコミュニケーションが情からスタートする」というのは、

重要なギフトなのかも知れません❣️

2019-12-27 21:11:00

論と情が「本当のさとりを生む」のでした‼️

感情とともに「無常無我になる」❣️

感情(情動)が「自我執着になる」のではなかった‼️

 

【論と感情とも】に「豊かになることが」《生への執着》や《自我執》を生まなくていい状態(世の中)を作るのだと思います。

 

「論はわかっている」けど、なかなか「実行できない」というのは「情の持って行き方が分からない」ということなのだとわかりました。

 

「理解し合うための《純粋感情》に持っていけることがポイント」なのだと思います。

そのために「仏教ではさまざまな[情的方便]が智慧として説かれて」利他的行に生きることを[菩薩モデル的に]教えているのだとわかりました。

 

キリスト教は、[キリスト=神]が、情動的に記されているのでしょう。

2019-12-27 19:00:00

FBに書いた「感情という至高のギフト」❣️

「感情って至高のギフト」🎁

 

感情を「否定的に論じてきたわたし」ですが、

最近「もともと感情を大事にしていたのに。。」と思いにふけっていたとき、思い出したのが、「高校生などの時代の気持ち」です。

 

あのころは「駆け引きのない、純粋な感情をぶつけ合って、友だち同士が深く理解し合うこと」をやっていたなぁ。。

いつからこういう感情を「失ったのか」と思いつつ、、

 

20才を過ぎたころから「そんなことを言っていても《お金にならない》という大人の世界にデビューしてから」どんどん「純粋感情を失っていく自分と、失ってはならないという自分と戦ってきたなぁ」って思っていました。

 

しかし「戦いに疲れて」この数年は「論理」という「覚めた(冷めた)」状態に自分を持っていって、「お金を稼ぐことに血迷っているひとや否定的感情にあるひとへの啓蒙」をしてきました。

 

こういったなかで、次のように教えてくださった方が「ごく最近」出てこられたので、以下のようなことを思っています。。

 

宇宙は、もともと、ビッグバン「聖書に光あれ」と言われた現象から起こり、

宇宙は進化を始め、地球において、「鉱物、植物、動物、人間」という進化のプロセスが進み、

「動物から人間」に至って、心の動きによって「体内ホルモン」(アドレナリン、コーチゾン、インシュリン、メラトニン、チロキシン)などが分泌されて、、

感情において、オキシトシン(愛)、セロトニン(幸福感)、ドーパミン(喜び)が分泌され、前向きに懸命に生きていると放出される「キラー細胞」は「ガンをも攻略」します。

 

このように「肯定的感情は、人間を好ましい状態にして」怒りなどによる「否定的感情」は「アドレナリン」「ノルアドレナリン」を過剰分泌させて、人間を好ましくない状態にします。

 

「慈悲や愛」を説く「高次元な教え」は、人間に備わるこのような「感情を智慧やバイブル」によって、

「人間を好ましい状態に発展」させてくれます。

 

 しかし、人間が人間だけの「知識や経験」では、「破壊へ」と人間を導きます。 

 

だからこそ「良き教え」において、「人間が良きスピリチュアル」な進化をすることで、

この「破壊へと向かうように見えている時代」を「生命が求めているあたたかい世界へと変えることができる」ように「コスモ(秩序的宇宙)」は、生命を生み、「人間への気づきを促している」といえるように思います。

 

漠然とした「ユニバース(宇宙)」の存在をそのように見ることで「感情を育てるための智慧やバイブル」があると「アンドロイドの現実性やDNA操作、多くの化学薬品、電磁波問題」など、破壊へと向かうように見える現代だから」こそ、、

 

「宗教者は立ち上がらなければ、秩序的宇宙(コスモ)の中にいて、なぜ宗教者としてあるのか」

その存在意味を「見失ってしまいそうな状態」になっているようです‼️