インフォメーション(日々更新中)
2019-12-27 18:59:00
FBに書いた「スピリチュアル」について❗️
「スピリチュアル」について、
「非物質的で精神的なことがら」「神秘的ことがら」などを「スピリチュアル」と言っています。
「真宗」や「昭和あたりに文化人と言われていた人」は「この文言」を「低俗なこと」としてきました。
しかし「宇宙人の概念がまったく変わった」ように「スピリチュアル」の概念も変わってきています。
なぜなら、スピリチュアルは「人間の心や精神を、科学的にも宗教的にも至高で、好ましい論や感情に誘導するもの」という理解が「文化人にも広がって」「好ましい教えや修行として行われるものが増えている」からです。
反対に物質やお金に偏重主義ひとは、意外にも「人間の本質についての解明をもたらさない、人間自体を破壊する」と言われるようになっていて、「人間を不安や恐怖」におとしいれ、「好ましくない感情が人間のホルモン分泌などにも影響」して、好ましくないことが必然的に生じることになるために、
「真剣に人間について考えている文化人や知識人」において、
「すぐれた宗教への興味」が展開しているのです。
最近いろいろな出会いのなかで「まさかという知識人など」が「スピリチュアルに興味がある」といい、「けれど、日本には欧米のようにマトモな宗教がないですね」といわれたりします。
「イヤイヤあるんです」といいたいけれど、いままでの「スピリチュアル」の概念で「スピリチュアル」を低俗と嫌悪してきた「真宗」において、「スピリチュアル」のなかで「語れない」と思っている以上。。
「イヤイヤ仏教は最高のスピリチュアルです」ともいえず、
「テーラワーダ」さんなどの「仏教を至高のスピリチュアル」としているような「団体」が「マジメに活動していて、徐々に人が増えていること」などを見ると、、
わたしたちも「至高のスピリチュアル」として、積極的に破壊的現代において、立ち上がる」ことが重要かも知れません。
2019-12-27 17:52:00
感情って「至高のプレゼント」❣️
もともと、ビッグバン「聖書に光あれ」と言われた現象から、
宇宙は進化を始め、地球において、「鉱物、植物、動物、人間」という進化のプロセスが進み、
「動物から人間」に至って、心の動きによって「体内ホルモン」(アドレナリン、コーチゾン、インシュリン、メラトニン、チロキシン)などが分泌されて、、
感情において、オキシトシン(愛)、セロトニン(幸福感)、ドーパミン(喜び)が分泌され、前向きに懸命に生きていると放出される「キラー細胞」は「ガンをも攻略」します。
このように「肯定的感情は、人間を好ましい状態にして」怒りなどによる「否定的感情」は「アドレナリン」「ノルアドレナリン」を過剰分泌させて、人間を好ましくない状態にします。
「慈悲や愛」を説く「高次元な教え」は、人間に備わるこのような「感情を智慧やバイブル」によって、
「人間を好ましい状態に発展」させてくれます。
しかし、人間が人間だけの「知識や経験」では、「破壊へ」と人間を導きます。
だからこそ「良き教え」において、「人間が良きスピリチュアル」な進化をすることで、
この「破壊へと向かうように見えている時代」を「生命が求めているあたたかい世界へと変えることができる」ように「コスモ(秩序的宇宙)」は、生命を生み、「人間への気づきを促している」といえるように思います。
漠然とした「ユニバース(宇宙)」の存在をそのように見ることで「感情を育てるための智慧やバイブル」があると「アンドロイドの現実性やDNA操作、多くの化学薬品、電磁波問題」など、破壊へと向かうように見える現代だから」こそ「宗教者は立ち上がらなければ、秩序的宇宙(コスモ)の中にいて、なぜ宗教者なのか」
その存在意味を「見失ってしまっているよう」です‼️
2019-12-27 17:50:00
スピリチュアル❗️
「魂」について、このような非物質的で精神的な要素を根本に据(す)えてものごとを解釈する立場をスピリチュアリティと呼ぶことができます。スピリチュアリティには、人間を健康という望ましい状態に導く傾向があります。
なぜなら、人間の性質の中でも、崇高とまでは言わないとしても好ましい思考と感情を表現することが、スピリチュアリティによって促されるからです。
反対に物質偏重主義は、私の考えでは硬直した考え方であり、人間の本質についての解明をもたらさないので、遅かれ早かれ、不安という感情が必然的に生じることになります。
2019-12-26 05:58:00
善因楽果、悪因苦果か?
「善因善果、悪因悪果」は「善因」に起因することが「苦楽」のいずれになろうとも「善果」と受け取れるひとであり、、
「悪因」を起こすひとは「苦楽」のいずれをも「悪果」と受け取るひとといえるであろう。
ここには「因果とも」に「善悪の定義」がされていない。
「なにが善でなにが悪か」を知ることは難しい。
たとえ、これらが「楽果」や「苦果」だとしても、
まず「善因」を行なうひとには、必ずしも「楽果」を求めないひともいる。
また「悪因」から「苦果」が生まれるとしても、
「悪因」を起こすようなひとは「苦果」だと思っていないことも多いものであるうえ、そもそも本人は「悪因」とすら思っていないことも多いものである。
そもそも親鸞さんは「善悪の二つを総じて存知せざる」といっているのは、
「善も楽も」「悪も苦も」凡夫の思うところのものではない。
このポイントを「真仏土文類」の涅槃の徳における「楽」について記述している。
因果論はそれほど「単純」ではないということである❗️
ーーー
「この現実は、私の業のしからしむるところだ」という表現は正しい。自業自得、自己責任性がはっきり表明されているからである。受験に失敗したのは私が不勉強だったからであって、社会、先生、家庭のせいではない。責任転嫁を許さないのが業の理論である。
↑↑
この論はどこかおかしいと思うのですが。。⁉️
因果論には「縁」が関係するので、「不勉強」でも合格するひともいるし、
「勉強して」も不合格になるひともある。
「裏口」のひとも「エンコ」のひともいるから、「単純因果」で見るべきではない。
「因縁果」を論じなければ、真実は見えない。
そして必ずしも「自業自得」のみとはいえない。。
根本仏教でも、こういう「極論」で語っていない。
故に「六因四縁五果」を「倶舎論」で論じる流れになったのだと言える。
このような「自業自得」解釈は、「自己責任」といいながら、、
「政治責任」を「国民の自己責任とすり替える論」と変わらないと思うけれど、、
こんなことばかり書くから「また嫌われる」のだろうなぁ。。
これぞ「自業自得」なり❗️
ーーー
「善因善果、悪因悪果」は「善因」に起因することが「苦楽」のいずれになろうとも「善果」と受け取れるひとであり、、
「悪因」を起こすひとは「苦楽」のいずれをも「悪果」と受け取るひとといえるであろう。
ここには「因果とも」に「善悪の定義」がされていない。
「なにが善でなにが悪か」を知ることは難しい。
たとえ、これらが「楽果」や「苦果」だとしても、
まず「善因」を行なうひとには、必ずしも「楽果」を求めないひともいる。
また「悪因」から「苦果」が生まれるとしても、
「悪因」を起こすようなひとは「苦果」だと思っていないことも多いものであるうえ、そもそも本人は「悪因」とすら思っていないことも多いものである。
そもそも親鸞さんは「善悪の二つを総じて存知せざる」といっているのは、
「善も楽も」「悪も苦も」凡夫の思うところのものではない。
このポイントを「真仏土文類」の涅槃の徳における「楽」について記述している。
因果論はそれほど「単純」ではないということである❗️
資本主義のシステムの中で「儲ける」ことを考えるなら、
「だまし」や「誇大広告」をすれば良い。
ほとんどの「大企業」は、これらをやっている。
これを彼らは「悪因苦果」だとすら思っていない。
マジメに「仕事」をしていても、日本の資本主義で「中小企業は儲からないシステムになっている」から、、
この人たちは「善因苦果」でしかない。
世の中は、そう単純ではないと言える❗️
2019-12-25 03:17:00
⒊1415。。❗️
いわずと知れた「円周率」である。
数学では「0.99999。。。=1」なのだそうである。
「科学」であれなんであれ、どこかで「折り合いをつける」しかない。
つまり「論理」だけでは成り立たないのが事実であり、「情」がその「折り合い」をつけるのである。
ここに「人間」に「論理と情」が並行している《真実》がある❗️

