インフォメーション(日々更新中)

2020-01-07 02:19:00

お話し⁉️

「お話しと論」を、きっちり仕分けて「学ぶ、教える、話す」ようにしなければ、「学問」といいつつ「物語り」を学んだり、、

「お話し」といっても「論」だったりします。

 

布教使という立場において、「いま」論じているのか、お話しをしているのか、「聴衆はどちらを聞きたい」のか、、

 

といったことを「考えてお話しする必要がある時代」だと思っています。。

2020-01-07 02:15:00

倶舎学という「総合テキスト」❗️

昨日の「時間論」は、「倶舎学」(くしゃがく)によるものですが、

 

仏教学において「唯識3年、倶舎8年」といわれています。

 

これは、それだけ難しいというよりも、「倶舎学」がカバーしている内容が、今でいうなら「大学のほとんどの学部」といっていいほど広く深いということだと思います。

 

もともと、その時代ですから、「地球」という概念はなく、「須弥山説」という概念で、宇宙などを論じています。

 

たとえば、日本で「本州、四州、九州」などというのは「須弥山説」で人間の住むエリアを「贍部洲(せんぶしゅう)」と書かれていることからの影響ではないかと思います。

 

「倶舎学」には、古代インドや仏教の「天文学、生物学、人間学、心理学、物理学、化学」といった学門の総合テキストのような内容が論じられていますが、現代の学問に照らしても遜色はない内容です。

 

そういう意味でも、「奈良仏教」において、本来は「倶舎[宗]」ではなく「倶舎[衆]」だったり「法相衆」や「華厳衆」だったりという「学問仏教」だったのです。(南都六宗といいます)

 

このように「日本の仏教」が「平安時代」に「最澄、空海」の「平安仏教」が主流になるまでは、「奈良仏教は大学」のような状況だったのです。

 

「平安仏教」でも、「最澄」は「国宝人材である」といい、「良き人材育成の場」として「比叡山」を運営していましたが、、

 

「空海」の「密教」に影響されて、「その存在意義」を変えてしまい、、

「公家や民衆のニーズにそのまま応える場」に変化させていきました。。

 

これが「あまりにも[煩悩増長ニーズ]だったため」といっていいのか、、

平安仏教は「間違っているのではないか?」という人たちによって、

「鎌倉仏教」が生まれたのです。

 

その先駆けが「法然」「親鸞」「道元」「日蓮」といった祖師方なのです。

 

日本の仏教は「もともと学問仏教」つまり「教育の場」という性質が強かったのです。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/須弥山#/media/ファイル:Shumisen.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/須弥山#/media/ファイル:Shumisen.jpg

2020-01-06 16:51:00

未来法を現在させる❣️

大経や仏教に多くの経典における時間論には、

「過去、未来、現在」の次第で時間を表現されています。

「過未現」や「去、来、現」ともあります。

 

つまり、「いまといった瞬時」に「刹那に過ぎ去る時間にある心の状態」に似た、「未来(未だ来ず)」から、多くの「法」が来ます。

 

そのなかで「いま」と同じタイプの「未来」を「刹那に選び取る」と、

「同じことの繰り返し」という「ルーティン」を巡ることになります。

 

そこで「いま」と性質が異なる「悟りに向かうであろう未来法を選ぶ」ことで、「現在する法(現実)」が変わります。

 

だから「未来にさとり(浄土へ至る)」と過去法から《現在》する「未来法を選ぶ」のです。

 

すると「現実において自然がさとりへの未来法を選ぶ」ようになって、「同じことの繰り返し」という「ルーティン」から脱出できます。

 

一般社会で「思考は現実化する」などというのと同じです。

 

「浄土や悟りの法を選び取ること」ができるようになれば、

「未来」から「現在」する法が変化して、

ほんとうに「さとり」への「道をあゆむ者」になります‼️

 

時間の解釈でここまで人生が大きく変わることになるので、

「愚かなルーティンを繰り返す過去法」を捨てて、「さとりへの望むべき未来をみいだす未来(未だ来ず)が現に在する(現在)を得ることが可能」になります❣️

2020-01-05 01:05:00

「仏性遍満利他力自然の本願」を生きる❗️

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今日「ある寺院報恩講」でのお話。。

↓↓

教行証文類のp197-5に、、

 

説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。

願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。

 

という部分が「現代でいう」写メの図であるといえるでしょう。

わたし自身もわたしの周囲もすべて「原子が遍満」しています。

 

これを「仏性遍満」といえます。

「死」というのは「いのち」がこういう「変化をする(無常)だけのこと」であり、

 

「亡くなったら、氷が水になる」ような状態なのです。

 

そして、わたしが「自我の殻を破れない」のは、このような本来のわたしのあり方に「無知、無明」だからだといえます。

 

「無我(非我 )」つまり「利他力自然」を生きるというのは、「人為」=「偽」=「自力(自我力)」が「苦悩を生む」と「智慧光」(अमिताभ、Amitābha)によって「知らされて」、、

 

わたしの生命から「自然に沸き起こる本願(意思)」を「一如真如」の「利他力自然」からの「至心」であるといただいて「行なう(行じる)」ことであるといえます。

この「仏性(原子)遍満」を「一如真如の利他力自然」として「行じる」ようになるのが「疑蓋無雑の信」であり、そのなかで「多次元浄土」を観察するようになることを「信楽の楽」=「欲生心」といいます。

 

追記

↓↓

「利他力自然の本願」を行じるというのは、「慈悲を行じること」で、

そうでなければ「なぜ生命に《愛》があり《慈悲》があるのか‼️」

と思いませんか。。

2020-01-01 04:54:00

贈り物その2🎁

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191228/k10012231491000.html

【きたきた】

教育委員会を通さず全国の小中高に配られた放射線副読本。

「放射線についての正しい知識を」と言いながら、放射線安全神話を刷り込む放射線教育。

活用させるようにとの働きかけが強まる。