インフォメーション(日々更新中)
2020-02-04 03:02:00
生きて欲しい‼️(by 宇宙)
「互いの慈愛を感じて深めて生きるために生きて欲しい」というのが、
「自然の意思」だという「自論」が生まれてきた(!)
「どうせ死ぬから、懸命に賢明に生きるのである(!)」(アキオちゃん)
「自然は生きる理由がそこにある」と言っているという「論」が生まれてきた。。
2020-02-04 02:53:00
幸福になって欲しい‼️(再記載)
以前ホムペに載せたけど。。
人間が「障がい」と名付けている「同じ人間」がいる。
また、障がいでなくとも「能力が劣っている」と思っている人もいる。
こういうひとを「生命対生命」として「助けること」が、
人間種に自然(仏界や God)が与えた義務である。
自分がどちらに該当するのかは、常に入れ替わっている。
そもそも自我は、勘違い以外に存在しないから、
《自他の別はない》
だから、助ける行為が助かる行為であり[因果同時]である。
ここで各個体が共に感じ合う感動意外に歓喜はない。
いわゆる「幸福」は、この状態にのみ存在しうる。
『ここがポイント』
つまりは「和合や友愛」が成立することにのみ「歓喜と幸福感」があり、
それこそが「人間が存在しうる理由」である。
これは「対人間」のみではない。
自然界のあらゆる有機的存在との「融和」において感じうる「歓喜と幸福感」である。
人間種のDNAはそのためにある。
「経典やHolyバイブル」は、それを教えているのに、、
そもそも人間がここまで愚かになるまで「明確にそこを理解する段階には至らない」という前提が「経典やHolyバイブル」には暗示されていたのかもしれない。
「末法」「黙示録」という教えが、示していたのは「終末」ではなく、、
ほんとうの人間になる「始まり」を示していたといえるだろう‼️
2020-02-04 02:48:00
生きるために生きる‼️
人間の精神について。
英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。
人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?
宇宙に「人格的意思はない」としても、
「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、
そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。
現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、
なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。
「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?
「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、
「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、
じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?
わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、
「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、
その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、
《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。
高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。
ーーー
愛別離苦は、愛別離悲といえる。
苦というよりも情的であろう。
人間でなくとも「哺乳類」は「泣く」という。。
「苦」は「知性」によって解決できることも多い。
「悲」は「情的」であるから「インパクト強く残り引きづる」といえるだろう。
案ずるに、人間種の「苦」に「知性により解決可能な苦」と「情的な苦」そして「知と情が絡んだ《悲》」があるといえよう。
この「悲」をサンスクリット語では「カルナー(うめき)」という。
そしてこの呻き(うめき)を埋めるのは「慈」(マイトリー=親友)とされている。
「親友」には「パワーバランス」がない。
また「見返りを求めること」もない。
《無条件の摂取不捨である》
《そこには「和合」のみある》
「和合」は「わかりあい、受け止め合う」まさに「無色無形絶言」の関係である。(色も形もなくことばも絶えてあらわすこともできない関係性)
「愛別離悲」いわんや「生老病死の悲」を埋める「慈悲」をもって関わることができる「和合関係を広めるもの」になることこそ、「大乗菩薩道の行者」である。
ここにおいて「怨憎会、求不得、五蘊盛の苦」については、内容によって「悲」とはいいがたいものもあると思えるけれど。。
「心の奥には《悲》がある」といえるだろう‼️
ーーー
人間の精神について。
英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。
人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?
宇宙に「人格的意思はない」としても、
「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、
そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。
現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、
なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。
「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?
「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、
「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、
じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?
わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、
「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、
その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、
《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。
高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。
ーーー
人間が「障がい」と名付けている「同じ人間」がいる。
また、障がいでなくとも「能力が劣っている」と思っている人もいる。
こういうひとを「生命対生命」として「助けること」が、
人間種に自然(仏界や God)が与えた義務である。
自分がどちらに該当するのかは、常に入れ替わっている。
そもそも自我は、勘違い以外に存在しないから、
《自他の別はない》
だから、助ける行為が助かる行為であり[因果同時]である。
ここで各個体が共に感じ合う感動意外に歓喜はない。
いわゆる「幸福」は、この状態にのみ存在しうる。
つまりは「和合や友愛」が成立することにのみ「歓喜と幸福感」があり、
それこそが「人間が存在しうる理由」である。
これは「対人間」のみではない。
自然界のあらゆる有機的存在との「融和」において感じうる「歓喜と幸福感」である。
人間種のDNAはそのためにある。
「経典やHolyバイブル」は、それを教えているのに、、
そもそも人間がここまで愚かになるまで「明確にそこを理解する段階には至らない」という前提が「経典やHolyバイブル」には暗示されていたのかもしれない。
「末法」「黙示録」という教えが、示していたのは「終末」ではなく、、
ほんとうの人間になる「始まり」を示していたといえるだろう‼️
2020-02-04 02:39:00
生きて欲しい‼️
人間は他の動物とは違う。
知性理性と感性感情を下の角にした△の頂点に論があります。
これが二等辺三角形でも、正三角形でもいいのですが、
三角定規のような📐形ではアンバランスになります。
知性理性の角と感性感情の角によって「智慧と慈悲」が生まれます。
そこには「論」をもった関係性が生まれます。
キリスト教より仏教が論理的なのは、このバランスを取るためでしょう。
キリスト教はよほど「情的」であり、論のない教条性が強いのです。
だから「阿弥陀如来」のようになる。
と言えても、「阿弥陀如来は居る」とは言えません。
あなたが「この論(三角形の頂点)に住した時」、
愛する人は「生きる力を持ちます」が、同情した時に、
生きる力を失うでしょう。
重病のひとを理解をしてあげることができるから「キミは死ぬ」といえる。
「死ぬのが怖いのは息子が心配なんだろ!」ということもいえる。
《ここが知性です》
そこで「だから生きろ」といえば、《情になる》から「生きなければ」と思うようになって「自己治癒力」が出る。
ステージ4でも同じである。
だれかが病床の愛する人に「お前は死ぬ」と言っていた時に、
意外にも太り始めて「元気になっていた」ということがある。
その後どういうやりとりがあっても、、
この論に「ブレ」を出してはならない。
あなたが「愛するひと」「お子さんのこと」などを抱えて、
やがて「孤独になる」と思うようなことになるかもしれない。
しかし、どんなに「愛するひとから悪態をつかれても」愛する以上「ブレてはいけない」のである。
そこには、「生きなければいけない」という「論」がある。
わたしも化身土文類を読んでいく中で成長して、
「生きることに意味がある」と思っている。
たとえ人間が素粒子の塊でも「人間に論がある理由は、論を生かすことに使うためだ」
とわかったからである。
こういう文章を硬く書いていても
感情いっぱいにいまこれを書いている。
やってはいけないのは「ブレること」だから「心を仏地に樹てる」のである。。
振り切って前進せよ‼️
2020-02-04 00:25:00
歎異抄が受けた理由から‼️
嫌われるけど書いておきます。
歎異抄が受けたのは「ロジックにあるレトリック(論理のような美辞、修辞)」が受けたんです。
「善人より悪人が往生する」「地獄は一定」「法然にすかされても」
「父母の孝養のためではない」と言った、
世間の「常識を超えたレトリック(巧みな論法)」が受けたというだけで、
じつは論理や定義はあいまいです。
その点は教行証文類でなければ定義できないことが多いのに、
教行証文類を学ぼうとしないひとが多いのは、
「定義がない方が自説を語れる」「定義を読み解けない」という、
横着な姿勢にあります。
また「親鸞さんのあれこれの書き物の部分を適当に並べて」、、
「自説を構築する」ためには「教行証文類」のみによるよりも、
「唯信抄文類にはこうある、和讃にはこうある。。」という方が「自説を宗祖の教えとして語れる」という「自己主張に利用できる」のです。
あくまでも「教行証文類全体(すべて)にある定義を仏教学から読み解いて、真摯に学びレトリックを使わないで論じること」がなければ「真宗は消滅」するでしょう。。
「阿弥陀如来の世界観」と「阿弥陀如来さまの世界」では定義する内容が変化します。
こういうことを読み解けないと「あいまいな学」になります。
こういう点を「文学のあいまいさ」と「理数系」から言われますが、
「文学」にも明確な定義があって「社会への生産性や有用性はある」のです。
そういう緻密さが、親鸞さんにはあるのです‼️

