インフォメーション(日々更新中)

2020-01-10 02:46:00

悩んでいるあなたへ❗️

混乱をカオスという。

カオスは混沌ともいい、

なにかが始まる状態である。

 

そのプロセスには、牛乳がチーズになるほど

多くの微妙な変化がある。

 

そこを人為で考えて定義しようとしても、

かなりむずかしい。。

 

DNA、環境、社会、無自覚なルール、経験値など、、

数え上げたらキリがない。。

 

ある状態にはそれほど多くの要素がある。

 

「なぜレシピ通り作っても同じにならないのか?」

「料理教室で作ったときは上手くできたのに。。」

と嘆いても仕方がない。

 

食材の質が違うのか、分量が違うのか。。

というだけではない。

 

作る環境における「菌」が違うのかも、

空気中の元素レベルの構成バランスが違うのかもしれない。。

また、「電磁波の違いが料理に影響していない」とはいえない。

 

つまり「全く同じ条件」は存在しないのである。

 

そんなことを「人為で考えて」も仕方がない。

悩む暇があったら、「すべきこと」をせよ。

 

「死にたい」というのは、

本当にそうなるしかない状態だと、、

誰が見てもそうであるという状況にない人は

安易に口にすべきではない。

 

「死んだら終わり」だともっともらしく思っていても、、

「終わり」だと確定できない。。

 

ひとつの「説」でしかない。。

「無常」原則でいう変化が、

未だ来ていない「未来」にどういう状態があるか、、

確定できないから「無我」でしかあり得ない。。

 

だから「シュレディンガーの猫」の正確な理解が

「無我」と同じになるといっているのではないのか。。

 

過去に「落捨(らくしゃ)」させた物事に

じつは「自分でもわからない大きな意味」があったかもしれない。

 

記憶にあるようなことではなく、日常的なホンのちょっとした過去に。。

 

その捨て去った過去から、

未だ来ない「未来」を作るための[資源]を探して、

「来て欲しい未来」のために、「いますべきこと」にするのか、、

 

とりあえず「思考停止」して、

心の思う「好ましいこと」をするか。。

 

この意思決定のポイントに「ほんとうの教え」がある

と整理はしやすい。。

 

それは「神や仏」などの「高次元な教え」であるほど好ましいだろう。。

 

あなたの「生命体」が着実に望む方向に進んでいるのか。。

あなたの生命体自身が「好ましいこと」を

自然にしてきていると思えたらそれでいいではないか。。

 

いま「すべきこと」をする以外になにがあるのか。。

これは「平和ボケ日本人」にもいえることだと思う。。

 

「悩みにふける贅沢国民」といえるかもしれない。。

もちろん「悩んでいる人すべてではない」のは当然である。

 

いま「峠を越そうとしている」多くのみなさまへ!

2020-01-09 15:48:00

武田センセが本山で。。❗️

11日に特別講演しはります。。

30分しかないので、センセにとって「おもしろくない」だろうなぁって思いますけど‼️

写真左の柱参照

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2020-01-09 15:40:00

グローバルな宗教理解のメニュー❗️

【グローバルな宗教理解】というメニューを作ったので覗いてください。

更新日を入れます❗️

2020-01-09 03:11:00

一神教と多神教そして仏教‼️

一神教には「論」がある。

多神教は「現象」を見ているだけといえるから、論より「情的」である。

 

一神教には「現象の背景を観る」という観点があるからである。

「どんな現象にも意味や理由がある」という観点から、、

その「意味や理由」を思考するモチベーションがあるといえる。

 

多神教は、「風や雷」「菅原道真、徳川家康」といった「個々の現象やひと」また「善の神、悪の神」という「パーツ」で見ている。

 

一神教は「パーツ」に整然とした「総合的な意味」を与える。

ユングの「コンステレーション」である。

 

そういう意味において、「一神教」においては「神に意味や理由を問う」という「祈り」があり、「多神教」においては「それはない」か、そういうモチベーションは起こらない。

 

「ユダヤ教やキリスト教」においても、「サタン」も神の部分であって、「別物」ではない。

神は「善神」、サタンは「悪神」ではない。

 

神は「神自身に似せた人間を生み」サタンはその人間を神に向ける「背神の天使」である。

これさえも神によって「敢えてサタンはその状態に置かれている」と考えられるからでもある。

 

つまり「一神教」においては、全てが神の[一](イチ)に帰結するのである。

そこには「物語のようなバイブルに包含される[論]がある」といえる。

 

だから「人間は人間自身も神の中にある」と「信仰」して「人生を神に委ねる祈り」を日常的にする。

 

この状態は「仏教の無我(非我 )」に似ている。

「仏に委ねる[信]」には、[自我滅=無我(非我 )]がある。

 

他力本願は、しばしば誤用されるが、「本願他力」という用法が「親鸞」にはあるけれど、、

「他力による本願」とも読める上、「本願という他力」とも読める。

そこで、教行証文類には「他力というのは如来(仏)の願いによるベクトルである」という意味の記述があるが、、

 

ここで「阿弥陀如来や阿弥陀仏」が主語ではない。

あくまでも「如来」である。

 

このポイントを見ると「如来=仏性」ということも「証文類」などから可能であり、「一切衆生」も「悉有」も「仏性」であるといえるため、、

 

教行証文類において、すべては「華厳原則」の「一=一切」という「法界縁起論」で説明されている。

 

つまり親鸞は「すべては一即一切」であるから、「如来に委ねること」を論じ、それは全てが「そもそも仏性」であるからという「一神教」の論をさらに深めたような「複雑」な論である。

 

この複雑な論は、じつは至って簡単であり、

すべては「神」ではなく「真理、真如そのもの」であるということに「包含される」のであり、、

 

「神さえも真理真如一如の中」という「論」である。

 

ただこれは「西洋の論理学」と「インド仏教の論理学の違い」であって、

「西洋的」に言えば、「プロビデンス」という「真理=神」という定義がされる論や、、

 

「神」が「真理を生んだ」という「前後次第によって位置付けが変わっていても」結果「神に委ねる」も「真理に委ねる」も同じことだといえる。

 

但しこのような論は「識字率が低く、高等教育のなかった時代のひとに向けた物語的な表現である」ということは、「教行証文類」があらわしていることも「バイブル」も同じである。

 

いずれにしろ「委ねる」「受け入れる」「任せる」「信を得る」といった[こと]から、「自我滅」をして「如(ありのまま)」を「自然に生きるようになる」という結果において符号するのである。

 

大乗仏教では「経典」→「論書」→「解釈」(釈)の順に、理解を得るというけれど、これは、「経典の物語」→「物語の背景にある論」→「それらの解釈」によって、「経典の物語を、現実に則して生きることが可能になる」という流れであろう。

 

いずれにせよ「論のない多神教のような教え」と「論を背景に持つ一神教のような教え」では、大きな違いがあり、、

 

こういうポイントをわからないひとが増えているために、、

 

人間が「どんどん人間教や倫理教、資本主義教やテクノロジー教」に委ねてしまっており、、

近い将来「アンドロイドが人間を脅かす」ということになっていくかもしれないし、、

DNAそのものから「遺伝子組み換え人間」を生み出すことにもなるであろう。

 

こういった現代は「資本主義」が「資本主義によって生み出したシステムやテクノロジー」によって「自己崩壊に向かっている」といえる!

 

やはり「すぐれた精神世界を説く教え」こそが人間にとって重要かつ有益であるから、、

 

現代人は、そういう教えに「自我滅」つまり「自我を聖なる世界観に委ねて、自然の中を無我(非我 )に生きる」という「人間のあり方」を「取り戻すこと」が、最も必要な時代に入っているようである‼️

2020-01-07 04:42:00

教行証文類の【結論といえること】(まとめ)❗️

https://r.goope.jp/sainenji/free/keturon

教行証文類を通して学んだこと❣️【究極摂取す】という結論‼️