インフォメーション(日々更新中)
2020-01-20 18:50:00
人間だからこそ。。‼️
「見える存在」としての「生命体」において、
「人間」が最もすぐれているのだから、
「所詮、人間も動物」という「間違った解釈」が当たり前のように「すり込まれている」現代において、、
人間は、「人間界を仏界に荘厳する役目」がある。。
人間は、「この世を神(God)の世界にする役目」がある。
と考えて、「わたしという自我のための世界ではない」という認識で、
仕事や生活をする必要が求められていると言えましょう。
「戦争や神領域といえるエリア(DNA操作や人工知能の開発)」などといった、
踏み込むべきではないところまで踏み込んでいる時代に突入して、
このまま人間が「精神崩壊する」のを、黙ってみていられないという人間が増えることこそ、宗教の役目だと思っています。
「表だけ見せる」けど「表に見せない」「報道規制する」ような「内容を持った事件」は多く、、
「こんなムゴイこと」のウラには、、
「国外からの麻薬」「ICチップの埋め込み」などが絡んでいたりする。。
けど日本人はそこまで考えないで、「表面を問題視するだけ」ということが多いのです。。
また「ボランティアなどのいい話」でも、ウラになにがあるのかを考えて「賞賛」しなければ、意外とウラは「カネの亡者」がいたりするものです。
良し悪し含めて、報道のウラまでを「観て」なにが「ホントの問題」なのかを思考することができる「人間」だからこそ、「次元を深く観ていく智慧目線」から「社会問題」に取り組むように成長することが急がれるでしょう‼️
2020-01-20 04:48:00
人間種のDNAが生まれた理由‼️
往生要集における畜生は、動物について書かれているように読めますが、
人間が「自然の本願」を見失うと、このようになるという内容であると言えましょう。
姿は人間であっても「精神」は「六道のなかをさまよう」という状態なのです。
「人間に生まれることは難しく」といっても「ありがたい」という性質のことではなく、自然の本願を生きる真如の法によって生まれ、、
その自然から与えられた(先の投稿に書いた動物ではない存在)である自覚をもって《智慧と慈悲(愛)》に生きることが使命だと言えるような存在、ということになりましょう。
その本来の使命のような在り方にある人間が[無常、無我]の真理や、、
「経典や如来」または世界規模でいえば「Holy Bible(バイブル)」の神に意思決定を委ねるという、「聖(Holy)」を忘れて、ここまで来た人間が、、
「人工知能やアンドロイド」などのテクノロジーにとって変わられなければ、まだわからないのかというほど「愚かな煩悩」や「背神」によって、人間そのものを、自然から堕落させた報いを受けて、、
貴重な種としての人間種にあったということに目覚めて、、
いよいよ人間という《特殊な生命体》に生まれたことを顧みなければならない時代に入っています。
科学においても、進化論でも「なぜ人間のDNAが生まれたか?」説明できないのが、、
「人間種」なのです。
人間に生まれる難しさから「自然を荘厳する」または「的確なコンステレーションに意味づけを求める」という精神主義に据わりを置かなければ、、
人間が「愛すべき自然や動植物」という有機物を破壊して、、
自らも破壊される道に突き進んでいるまま崩壊してしまうことは目に見えています。。
2020-01-19 19:58:00
人間と自然そして本願❗️
人間は弱肉強食の動物としては生まれていない。
人間だけが、生まれてすぐに泣き、親を呼び、親に笑いかけて愛を得る!
表情筋を使って、泣き、笑うのは、人間だけである。
人間だけが、言葉を使い、平等な和合を可能にできる。
自然界は、何故かこのような生命を生み、智恵と慈悲(愛)を与えた。
その愛は虫(蜎飛蠕動)にも及ぶのである。
そして、人間に自然が与えた能力を発揮できるように、
脳の使い方を教えているのが、経典やバイブルだと言える。
如来の本願は、自然の本願であり、とくに人間に与えられた本願ともいえる。
わたしたち人間は、弱肉強食の動物と違い、動物をも愛し、功徳荘厳を生きるために、自然界の本願から生まれた生命なのだと自覚するべきだろう‼️
AIだのハッキングだのと、資本主義や人間が存在意味を失いつつあるいまから、
高次元な宗教が重要になってくる時代に突入して、はじめてこのことが実現され、
自然界の智慧と慈悲(愛)に、人間が目覚める、本来の人間種の時代が訪れるのである‼️
2020-01-14 11:00:00
諸法無我という重要なこと‼️
【諸法無我】
sarva-dharma-anaatman सर्व धर्म अनात्मन्
三法印・四法印の一つ。有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないことをいう。諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。
我とは「常一主宰」のものと言われる。常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。
インド古来の考え方は、変化するものに、主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。一般に有我論が説かれている最中、釈迦だけが主張した、仏教の特色である。
これは、インド在来の実体的な「我」の存在の否定であると同時に、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。
われわれは、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに私である実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、それこそ我執なのである。
諸法無我は、この過った考え方をしりぞけて、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだとに説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、恒に一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。
一切のものには我としてとらえられるものはない。これを徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるのである。
はじめに、有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを言う。これは、絶対者の否定ではなく、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。仏典の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。
2020-01-14 10:09:00
武田勧学の特別講演❗️(YouTube) ©︎武田宏道
講演その1
講演その2
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仏教は「法」についても「無我」を説き、「常一主宰(じょういつしゅさい)」の我(神のような)も認めないので、、
自我を「阿弥陀如来」の【摂取不捨】に《任す》ことを学ぶのであって、「阿弥陀如来」の《存在》の絶対性は語ることができません❗️

