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2020-01-23 01:54:00

宇宙的叡智‼️

意思と感情を持ったアンドロイドを作れるという。

「完璧に人間を超えるようなアンドロイド」を作ったとき、

「人間は神になる」

 

そのアンドロイドが、人間に背き出したとき、

「アンドロイドは原罪を作る」

 

逆にたどってみよう。

 

「神が人間を創造した」という。

バイブル的には「そこまで」であるが、あくまでも「仮に」、、

「神を作った神がいる」として、、

 

その「神を作った神がいる。。」というと果てしなくさかのぼる!

 

これを仏教の「空の教え」に当てはめると、

「一切は空」であるが、「仮有」であるから「非空」であり、

「非空」は「空」であるから「非非空」である。。

 

とこれまた果てしなく続く。。

 

つまり「God」であれ「Buddha」であれ、

人間は「果てしなく不確定な認識しかできない」ということである!

 

量子力学の「不確定性原理」は、そういう意味でも正しい。

量子の動きを「正確に確定できない」ということも同じである。

 

「我(ga)」という言葉は、「なんらかの状態や物事を確定すること」であるから、

「これが正義」というのも「我」である。

 

しかし「不確定」ということは「無我」または「非我」ということである。

 

それ故に、「どう意味付けるか」「どういう理由を思考するか」は正しさ基準ではなく、

 

「人間」として「知性が多数の感性に歓喜を与えること」を追求することが、「幸福感を生きる」ことだといえそうである。

 

またウラを返せば「傷つけない」「負の感性を作らない」ということでもある。

 

「慈悲や愛」という一切の生命への「プレゼント」である。

 

人間としての存在意味は「そこ」にあり、人間をそこに導くのが「God,Buddha」であるといえよう。

 

「神や仏という存在は、宇宙的叡智である」といえる‼️

2020-01-22 15:18:00

人とは‼️

「アビダルマ」では、六道における人間を「思慮分別するをもって人とす」といわれています。

 

ここで、智慧をもって「真智無分別智」によって「思慮分別」を自然に任せて生きれば、「自然の本願」を生きる「弱肉強食」ではない、真の人間になります。

そして「仏界」を目指して、蜎飛蠕動をも生命と「慈悲」れるようになるのです。

 

往生要集にでてくる「人界」は「不浄、苦、無常に恐る」という様相ですが、

 

根本仏教的には「人界は真智無分別智」を生きるものになる道を歩む者となります。(阿羅漢果への生命、大乗菩薩道→法蔵菩薩道)

 

つまり、人界は「弱肉強食」ではなく、「人」には「智慧と慈悲」で「利他る」責務があるということでしょう。

 

仏教者は、世俗に埋没して、世俗とともに「崩壊」してはならないのです‼️

 

わたしは「政治に関与」する気はありませんが、「高次元の宗教者」として、

先の投稿で「別のパラレルワールド」でなら可能になりそうな「国のあり方」を書いたのです‼️

 

少しでも「政治家の誰かが読み」参考にされることを願って。。

2020-01-22 04:53:00

往生要集に学ぶ畜生道と人間‼️

往生要集に書かれている「畜生道」の内容は「動物を苦しめている人間」と「人間のありさま」について書かれているようである。

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2020-01-22 03:53:00

国宝は人材にして、政治は多様化なり‼️

日本で「陰謀論ビジネス」が流行しているようであるが、

日本人が、なぜ世の中がこんな状況なのか?

なにかがおかしいと思っている人も多いのだろう。

 

また、「成功(儲かる方法)」を教えるという「ノウハウビジネス」も盛んである。

 

けれど、これらの「正否」「適不適」を判断できないのに、

「なにを信じたらいいのか」という重要ポイントが欠けている。

 

ただ無駄に「知識を得た」としても、真偽がわからない上に、

「知ったところでなにもできない」というのが「事実」である。

 

重要なポイントを解決するには「智恵」が必要である。

「自ら考えること」であり、「どう考えるか」ということである。

 

これは政治にもいえることであり、

「悪知恵に見えたとしても」じつは必要なことであるなら、

どんなことであろうが「考えること」である。

 

「先を読みいまなにをなすべきか」という思考ができる、、

「現況を分析し、先を見て、いますべきことを考えること」ができるトップと、

 

それを支え、アドバイスもできて、実行できる少数かつ複数の人が必要である。

 

政治家ひとりで「すべてをまかなう」ことは至難である。

事業もなんでも同じであると言える。

しかし、多数のひとがトップのいうことを聞くことはない。

 

本願寺派の寺院が、1万ヶ寺あるけれど、トップがいうことに従う寺院は少ない。

つまり、「アメとムチ」をもってしても、「いうことを聞かない」というひとが出てくるのが人間界である。

 

ここで「多数による陰謀はあり得ない」とわかる。

また「顧客」が定着しないこともわかる。

 

「商売」は地味である。

いっとき儲けて逃げるような「商法」が長続きすることは至難である。

また、これは「田舎」のひとが地元でやることは、ほぼ不可能と言える。

 

また、これだけ氾濫する情報の中から「ひとつのこと」だけに偏って訴えかけても「受け付けない」から、

 

たとえば「宗教」においてもセクトにこだわってもどうしようもない。

宗派の本質を、他の宗教と協調して前進するしかない。

 

政治に話しを戻せば、「多様化した情報の中」から「どうやって進めるか」をセクトを超えて考えられる政治家になる必要がある。

 

国民は「与党と野党の適切な対決」を重要と見るかもしれない。

 

けれど、じつは「日本は与党でなければ動かせないシステム」が出来上がっている。

そして「どの業界も同じ」ように「人材不足」であるから、

国民自体が「陰謀論」などに振り回されて「評論家」になっていても意味がない。

 

「坊主丸儲け」だと思うなら、「坊主をやってみる」といい。。

 

どの世界も「評論」は誰にでもできるけれど、「実行」が難しいのである。

「けなし合う、牽制しあう政治」与野党の対決による政治は「有能なひと」にしかできないうえ、結果「和合社会」は実現できない。

 

「統一と和合」は異なる。

違いを理解して「助け合う」ことが「和合」であり、合わないひととは「距離を測る」のも和合である。

 

つまり「国」というのは「諸天人民」いろんなひとがいてもいいのである。

「じゃまさえしなければいい」ということである。

 

また「経済分配」を基準にした「党派」では意味がない時代である。

「有能なハッカーに簡単に壊される時代である」

 

これからは「志向による党派」が必要である。

「少数派を活かす国づくり」ともいえる。

 

政治でいえば「特区」をいくつも作ることであるといえる。

誤解を招くかもしれないけれど、わかりやすい例えで言うなら。

 

最先端、次世代型の「合衆国、連邦」を作ることといえるかもしれない。

 

これを「市町村のレベル」からでも始めるといい。

「統一したシステム」ですべてを統治するのは不可能といえる。

 

地方自治体と国家が「和合」することが、最もスムーズな方向である。

しかしこれには「有能な人材」が必要であるから、

 

こういった理念による「人材育成」が急がれる。

自己の分限→[自分]のスペシャリストの発掘と育成である。

本来「最澄がしようとしたこと」であるが「空海」との間で「ブレ」てしまった。(国宝は人材なりである)

 

じつは「障がい」といわれるひとにも「スペシャリスト」は多いから、

「障がい」という定義は「その能力を見出せない政治」による定義だと言っているようなものである。

 

脳は「歳をとっても衰えない」けれど、「老後」「高齢」「余生」といった言語が「脳をストップ」させるといえる。

 

老後でも「口が達者」というのは「脳が活動している」からである。

 

つまり「スペシャリストは、いまの定義や社会常識を超えたところにいる」ということである。

 

《人間界は弱肉強食ではない》

《人間はエデュケーション(能力を引き出すこと)次第である》

 

この長い文章は「評論」ではなく、「啓蒙のための発信」であると定義していただければ幸いである‼️

2020-01-21 03:42:00

末法と黙示録は「始まり」を教えていた‼️

人間が「障がい」と名付けている「同じ人間」がいる。

また、障がいでなくとも「能力が劣っている」と思っている人もいる。

 

こういうひとを「生命対生命」として「助けること」が、

人間種に自然(仏界や God)が与えた義務である。

 

自分がどちらに該当するのかは、常に入れ替わっている。

そもそも自我は、勘違い以外に存在しないから、

 

《自他の別はない》

 

だから、助ける行為が助かる行為であり[因果同時]である。

 

ここで各個体が共に感じ合う感動意外に歓喜はない。

いわゆる「幸福」は、この状態にのみ存在しうる。

 

つまりは「和合や友愛」が成立することにのみ「歓喜と幸福感」があり、

それこそが「人間が存在しうる理由」である。

 

これは「対人間」のみではない。

 

自然界のあらゆる有機的存在との「融和」において感じうる「歓喜と幸福感」である。

 

人間種のDNAはそのためにある。

「経典やHolyバイブル」は、それを教えているのに、、

 

そもそも人間がここまで愚かになるまで「明確にそこを理解する段階には至らない」という前提が「経典やHolyバイブル」には暗示されていたのかもしれない。

 

「末法」「黙示録」という教えが、示していたのは「終末」ではなく、、

ほんとうの人間になる「始まり」を示していたといえるだろう‼️