インフォメーション(日々更新中)
2020-01-27 01:27:00
ホンモノって⁉️
ホンモノの絹を見たことがないひとに「ホンモノ」はわからない。。
ホンモノの「ダイヤ」をつけていても「ガラス玉」に見えるひとがいる。
「ガラス玉」をつけているのに「ホンモノのダイヤ」に見える人がいる。
「ホンモノ」のルイヴィトンを持っている人は「ホンモノのひと」なのだろうか?
「ホンモノ」ってなんだろうか?
人間種に生まれた以上「その存在理由や価値を高めていくひと」だと学んだ。
皆さんは、ルイヴィトンやダイヤを身につけて、「セレブを気取っているひと」を「そういうひと」だと思うだろうか?
そういうひとを「リスペクト」できるだろうか。。
「人間種の存在理由や価値」は「知性と感性を高め」「整然と落ち着いて」「筋が通っている」そういったひとであろう。
まとめれば《精神的レベルを高める意識を持ち、理性的解析(理解)をもった人間関係を築いていけて、地球を大事にできるひと》といえるだろう‼️
もちろん「人間関係がうまくない」と思えるようなひとが、必ずしも「そういうひと」ということではない。。
ここに書いたようなひとだと「見抜けるように深い理解をする努力をすること」もまた重要であろう!
どんな「生き方」にも、このような根底がなければ、「ホンモノ」といえないのではないか。。
ある「グループ」の友愛的人間関係から学んだことである❣️
2020-01-25 04:39:00
南無阿弥陀仏だけじゃない‼️
これほど「世界が近くなり」「情報も多い世の中」に於いて、
「阿弥陀如来」という「表現」以上にその根源に教えられていることを分析して、多くの「精神主義」に訴えかける方法論が必要な時代である。
そういう意味で「最近」わたしは「阿弥陀如来」という文言をあえて避けている。
とはいえその文言に意味がないともいえず、「南無阿弥陀仏」という称名はしているが、「これには生命の根源と無色無形絶言の功能を意味して使っている」つまり「智慧と慈悲」であるが、この世界的に情報が多く紹介されている時代にあえて「南無阿弥陀仏」であらねばならない必要があるとはいえず、
かえって「南無阿弥陀仏」を避ける傾向も見られるから、状況によって「他の文言に置き換えている」。。
親鸞の教えにおいて「入門は阿弥陀の門」であっても「出門」して「自由に教化する以上」こういったことが重要な入門者を増やすきっかけになると実感している‼️
2020-01-25 01:42:00
誤解と理解‼️
人間関係のトラブルは、「誤解」によるものが(極論で言うと)90%であると言う説がある。
人間関係において重要なことは「理解と誤解」を正確に知ろうとすることである。
《理解は共感である》
「共感」は「同情」とは違う。
「同情」は「相手の思いに乗っかること」であり、
「わたしもそうなんよ」というやりとりである。
《理解は相手の思いを知り解るのみ》であり、
自分の思いとは異なるということが[大前提]である。
相手の気持ちの背景や状況から「どういう気持ち」になっているかを「解る(理性的解析をする)」ことである。
「誤解」は「誤った解析」であり、あえて説明は不要であろう。
この「誤解」が、昨今の「メールやSNSのやりとり」では起こりやすい。
「文字」しかも手書きでもない「フォント」で表現され、
「スタンプ」や「顔文字」「(笑)」と書かれていても、それ以上のニュアンスを解析して理解することは難しい。
「事務的なやりとり」や「詳しいこと」は「お会いして。。」が前提ならばまだしも、「気持ちまでを理解せよ」というのは至難である。
「直接会って話しても理解は難しい」ものである。
とくに日本人は「共感(理解)」をするクセがない。
自分の思いをわからせようとする《指導的関わり》か、
相手の思いに「巻き込まれる」「乗っかる」いわゆる《同情的関わり》という2パターンがほとんどな「国民性」である。
「わかってほしい」は「同じ思いだと言ってほしい」のか「理解(理性的解析)を求めている」のか?
「わかってあげる」もいずれを言っているのか?
「理解」を意味していれば、適切に「人間関係」は構築できる。
《和合》のために必要なのは「誤解をしているかされているか」「理解をしているかされているか」ということを互いに意識して関わっていくことであろうといえるだろう‼️
2020-01-24 03:06:00
愛別離[悲]‼️
愛別離苦は、愛別離悲といえる。
苦というよりも情的であろう。
人間でなくとも「哺乳類」は「泣く」という。。
「苦」は「知性」によって解決できることも多い。
「悲」は「情的」であるから「インパクト強く残り引きづる」といえるだろう。
案ずるに、人間種の「苦」に「知性により解決可能な苦」と「情的な苦」そして「知と情が絡んだ《悲》」があるといえよう。
この「悲」をサンスクリット語では「カルナー(うめき)」という。
そしてこの呻き(うめき)を埋めるのは「慈」(マイトリー=親友)とされている。
「親友」には「パワーバランス」がない。
また「見返りを求めること」もない。
《無条件の摂取不捨である》
《そこには「和合」のみある》
「和合」は「わかりあい、受け止め合う」まさに「無色無形絶言」の関係である。(色も形もなくことばも絶えてあらわすこともできない関係性)
「愛別離悲」いわんや「生老病死の悲」を埋める「慈悲」をもって関わることができる「和合関係を広めるもの」になることこそ、「大乗菩薩道の行者」である。
ここにおいて「怨憎会、求不得、五蘊盛の苦」については、内容によって「悲」とはいいがたいものもあると思えるけれど。。
「心の奥には《悲》がある」といえるだろう‼️
2020-01-23 04:01:00
スピリチュアル‼️
人間の精神について。
英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。
人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?
宇宙に「人格的意思はない」としても、
「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、
そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。
現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、
なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。
「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?
「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、
「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、
じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?
わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、
「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、
その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、
《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。
高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。

