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2019-09-20 04:40:00

エホバの証人の聖書と普通の聖書の大きな違いはなんですか?

簡潔に言えば「恣意的な翻訳をしているかどうか」ということでしょう。

エホバの証人において、オリジナル翻訳本が出るまでの「聖書」はアメリカでは「キリスト教」で使われている「アメリカ標準訳」を用い、

日本では「日本聖書協会」の「新共同訳」が使われていたようです。

しかし、それまでのキリスト教の聖書から「新世界訳聖書」という「オリジナル翻訳本」を作るにいたっています。

これは、今までの「聖書」から解釈した内容を、教団の解釈に合うように「翻訳をし直した聖書」です。

じつは「キリスト教」において、このようなことは「珍しいこと」ではありません。

ふつうに「カトリック」や「プロテスタント」でも「各派オリジナル翻訳本」があったりします。

日本でも「新改訳聖書」など、意外にいくつかの「翻訳本」があります。

これらの内容は、「時代の読み手に応じて翻訳をし直した」という理由でつくられているので「表現が微妙に違っている」という程度で、

「エホバの証人の翻訳本」のように「極端な違い」はありません。

とはいえ「エホバの証人さん」でも教会によっては「いままで」の「新共同訳」を使っている教会もあるようです。

https://www.jw.org/ja/出版物/聖書/nwt...

に「エホバの証人翻訳本」は公開されています。

「新共同訳」の「あえて曖昧にしている部分」でも「かなり限定的な表現」になっています。

しかしこのようなことは「仏教経典」にもあり、中国において同じ経典を複数の人が「翻訳」をしていて「内容が違う」ということはあります。

いずれにせよ、「法律解釈」と同じで「恣意的に解釈」すれば、どの本を用いても「それぞれの主張を引き出す」ことは可能です。

肝心なことは、どの本をもとにしたとしても、宗派や教派が、仏教やキリスト教の「原則」とされているポイントを崩すことなく、

より深い多次元解釈ができて、「エホバの証人がいうような限定されたひと」だけではなく、より多くのひとを「救えるか」ということではないかと考えます。

所属しているからいうのではありませんが、「親鸞」は「恣意的に漢文経典の訓点を変えて、より深く多次元解釈をして」いますが、

そうすることにより、「それまでには廃捨されていたようなひとも救われる教えにグレードを上げて」います。

ここで「救い」という文言についてあえて「定義」せずにお伝えいたします。

わたしは最近、「新共同訳の1955年版と2001年発行版」「新改訳聖書」を比較して読んでいますが、

このご質問を頂いて「エホバの証人翻訳本」も加えて読んで見ていますが、

やはり「エホバの証人翻訳本」はかなり文言が異なっています。

ご質問者さまも「このように読んで見られる」と、聖書もさらに興味深く読めます。

まったく「教派の先入観」なく読んで、「どの本」に納得がいくか、という読み方をしてみると、

みなさんも「自ずから」神という「在るもの」の真意がどこにあるか感じられるかもしれません。

そこで「救い」ということが「どういう意味を持つのか」というポイントについても、みなさんそれぞれの「知見」が得られると思います。

これは「神を信じるかどうか」という次元で行うことではありません。

世界の人間を導いてきた「深く多次元な世界観」を得られると考えます❗️

 

2019-09-20 03:02:00

あなたの人生を豊かにしてくれたことはどんなことですか?No2

昨日の0時21分の「あなたの人生を豊かにしてくれたことはなんですか?」の回答を読まれて、

ご感想をいただきましたが、「このように現代のひとにも理解を得られる可能性がある」以上、「今後のお寺がどうなるか」と案じる以上に、まずは「自信教人信に徹する(法蔵)菩薩道の歩み」が重要なのではないか?と。。

 

Quoraを通して、守るべきは「利他をもたらす教え」であり、この教えのもたらす「利他の影響力」であって「僧侶という立場でもお堂そのものでもない」ことを実感しています。

 

これを「自慢」のように感じられるかもしれません。

しかし、あえてそう思われようが、どう思われようが、こういう事実、現象があることを「多くの同士である僧侶にお伝えせねば」とご紹介しています‼️

 

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2019-09-19 01:17:00

あなたの人生を豊かにしてくれたことはどんなことですか?

わたしの人生から「わたし」がなくなって「一(イチ)生命体」だとわかったことです。

「生命体であれなんであれ」同じ素粒子でできていて、変化をしながら「不確定な」世界を生きているということが、よくわかったら。。

なににおいても「わたし」という存在はないので、「何があっても」すべて「不確定な現象」だと思えます。

とはいえ「せっかく頭脳をもった生命体」なので、「頭脳をどう使うか」という「遊び」のような「安定して穏やかな日々を過ごすことができます」から、

「いろんな次元や世界観」をイマジネーションしながら「時空と次元」を生きているといえるでしょう。

これも「不確定」なので、確定的に言えないと思うので「いえるでしょう」となります。

なんかこの生命体は「僧侶」という状態にあるようなので、「らしく」いえば、

「無常、無我」ってこんな感じかもっていう在り方のなかにいます❗️

 

2019-09-19 01:16:00

無神論者が「ご冥福をお祈りします」「ご健勝を祈ります」と言ってきた場合、実際誰に対して祈るのでしょうか?

日本において「このような慣用句」は、とくに意味はありません。

日本人が「こんにちは」という挨拶をするのと同じで、この「こんにちは」は未完結の文言です。

つまり「今日はご機嫌いかがですか?」とか「今日はいいお天気ですね」というような文章の「始めだけを言っている」のです。

そういう意味で「慣用句」は深く意味を考えずに使うので、「無神論」だからこそ「主語や目的語」が不明確な文章を平気で使えるのです。

「冥福」が何を意味していようが構いません。「死後の冥土」という世界で「幸福になること」を「だれに向かって祈るのか?」なんて考えるひとは、

ほかの文言を使います。

また、「ご健勝」って「健康と勝れる」が何を意味して、これも「だれに向かって祈るのか?」なんて「意味不明」でいいのです。

これが「意味不明な慣用句」を平気で使える日本人の「無神論」という特色です。

「ご健勝を祈ります」って「とにかく頑張ってねってことやん」。。

「ご冥福をお祈りします」って「とりあえずこういうといたら問題ないやん」。。

っていう感じで使います。

これを「真宗僧侶」が、「死者は冥土」に行くのではない「浄土に行く」から「福を祈らずとも成仏しているのだ!」って、ど真剣に「目くじら立てて」こだわったりしますが、ほぼ「どーでもええやんか」って思われています。

「あいまい言語大好き日本人」にとって「あいまいだからいい」という、どこでも使える「意味不明な慣用句」は便利なのです。

言いかえると「無難なことば」ということでもあります。

 

2019-09-19 01:14:00

足の小指を角にぶつけた時、その小指はどんなことを思っていると思いますか? 回答する 1 フォロー 回答依頼 もっと見る 2件の回答

足の小指さんに「感情移入」できるあなたを素晴らしいと「思っているだろう」と思います。

これは「マジメ」に言ってます。そう思ってくれるだけで「小指の細胞や分子が喜ぶ」と思います。

「細胞、分子の揺らぎが良いゆらぎになる」と思います。

人間に感性があるのは、そのような「良きゆらぎを細胞や分子」に与えるためにあるのかもしれません❗️