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2019-09-22 17:42:00

五念門五果門因果同時の深み❣️

五念門のひとつひとつが、五果門のひとつひとつに対応して、

 

礼拝→近門

讃嘆→大会衆門

作願→宅門

観察→屋門

回向発願→薗林遊戯地門

 

となっているのが、この因果が同時に起こっていることを証明していると実感しています。

 

そして「入出二門」なのは、五念門五果門の「ラスト」の薗林遊戯地門で「遊煩悩林現神通」となることをいっていると思われますが、

 

「五念門と五果門」を対象した時に、礼拝→近門からスタートし、「如来の家や部屋」において「大会衆とともにこれらを生きること」

そして「薗林遊戯地門」において「如来の家に入ること」と「如来の家から《さとりのもの》として「遊煩悩林現神通」(出)することが「因果同時」であり、

 

「阿弥陀の法を歩む」「法蔵菩薩の菩薩道を歩む」ことが「五念門五果門を因果同時」に歩むことだということを「実感して」います。

 

やはり「入門」して、「セクトにこだわって歩む」のではなく、「出門」して「他利利他」を歩むことが「同時にあれば」常に「菩薩道を歩む」ことと「自己を通して広く深い(高い)次元のなかで、自然に教化が行われていること」を実感します。(自利ではなく他利)

 

「阿弥陀の法の広大無辺」という実感がここにあります。

2019-09-22 06:28:00

宗教は思い込みですか?

先の方が適切なご回答をされていると思いますので(偉そうに聞こえたらごめんなさい🙏)

わたしは別の角度から記述します。

そもそも「宗教」というカテゴリーを「別世界」と思っている方が多いのですが、「思想信条」という用語にあてはめると、

なんらかの「信念」でも「世間の常識」でも「思想信条」に当てはまると思います。

この観点で見ると、「資本主義」に踊っていて、この「水準を維持したい」という事情、信念のなかで、

「お金や数字に追いまくられる」というあり方こそ「思いこみ」だといえます。

「社会のルール」「モラル」など、現在の日本では「敏感」すぎるように思います。

「木登り」などを自由にやっていた時代のように、たとえ「子どもであっても」どの枝に足をかければ折れるかどうかという「判断能力」があると考えられれば、

「安心安全な」遊びのなかだけで生かさなくてもいい、と「子ども」に知恵を体得させることができるでしょう。

「安心安全」だけの環境にいると「危険」を意識できなくなる「危機管理」を「人任せで生きられる」という「錯覚」を生きることになります。

これは一例ですが、「このように社会常識という錯覚」こそ「思いこみ」と言えるでしょう。

逆に「信仰」を持つことで、誤った「価値観」を生きなくても「問題ない」という「目覚め」を生きられる事実があります。

こういったことは「宗教」であるかどうかという「カテゴリー」に関係なく、「どのステージ」を生きていても、

より「1」に近づく「0.99999。。。」の正確性を「人間種」として「追求体得できるか」という次元にあれば、

「誤った思いこみ」から「脱出」できて、より広い観点や真の意味での「知恵による受容や理解」よく言われる「寛容性」を身につけることができるでしょう。

それは必ずしも「宗教」というカテゴリーでなければできない性質のことではありません。

「思いこみ」はどこにでもある。

ということに「気づく」ことは、「人間としてのサイズ」が大きくなることといえます。

 

2019-09-22 06:26:00

動物は催眠術にかかるでしょうか?

催眠術を、基本的に「脳」が他者によって「操作される」こと。

と定義するなら、人間は「言語」で動かされるので、「操作」できる(される)ということになります。

「動物」は、感覚によるので「触りかた、触る部分」によって、「ごく限定した状態のみ」に持っていけます。

しかし「動物」のなかでも「限定された動物」にのみ、「おとなしくなる、眠ったようになる」「訓練されたように動く」という操作ができるだけなので、

「人間がかかる催眠状態」よりも、「種類と可能な操作」は狭いものに限定されます。

そもそも「催眠状態」(トランス状態)は、「脳がパワーバランス」によって「各固有の特性」に応じた「優劣」を勝手に判断することで起こります。

くだいていうと「ひとが感覚器官でどの感覚器官が優劣をもつか」という点は、ひとごとに違います。

主に「視覚」「聴覚」「感覚」に分類すると「見ることが優なひと」は、「見たことを優先に脳が情報処理」します。

たとえば「キレイなお店」という具合です。

「聴覚優位」なひとは「いい音楽が流れてる」ね。

「感覚優位」なひとは「あたたかい雰囲気」ということです。

ここで「これら」を「論理優位と感情優位」に分類します。

(視覚優位前提で例えると)

「このお店は、ものの置き方が動線を確保してるね」(論理)

「ここのお店ってキレイな装飾ですね」(感情)

という具合です。

このなかで、「どの感覚器官優位でも、催眠術にかかりやすいのは、視覚優位で感情タイプ」です。

このようなひとに向かって「あなたの後ろから、霊的なパワーがあなたの身体を押しています」というと、前に倒れてきます。

また、「脳のどういう機能が反応するか」については、「運動機能」が反応しやすいので、「前に倒れる」が反応しやすいのです。

つぎに反応しやすいのは、「感覚機能」なので、「あなたはいま太陽の光に照らされて暖かくなっていきます」や「この霊のパワーで痛みがやわらいでいきます」「いまは水のように思っているこの飲み物がオレンジジュースの味になります」などに反応します。

またその次に「記憶領域が反応します」から、ひとによっては「自分の名前さえ忘れます」悪用禁止事項になるので具体的記述は控えますが、このように、「脳が勝手に情報処理をして」反応が出るのは、「催眠術をかける方がパワーバランスにおいて優位」なケースが基本です。

「このひとはすごいパワーを持っている」「霊能力がある」「尊敬している」などの優位性を感じると「脳は自分の意思を差し置いて」術者のことばに反応します。

優秀な術者(メンタリスト)は「肩書き」「演出」「表現」などを使って、「相手は無意識な状態で、自分を優位なステージ」に持って行きます。

「催眠商法、霊感商法、悪意なマルチ商法などのセミナー、宗教団体」などがよく使っています。

また、「プロパガンダ」も同じ原理で「集団催眠状態」を作ります。催眠術は「集団になる方がかけやすい」のです。

「同調意識が機能」するからです。

逆に「自己催眠は難しい」のです。無意識な自己暗示は「金縛り」などの「霊的」と言われるような状態を作ります。

「自己暗示」は「不安」のベクトルに弱いのです。

以上、ザッと書きましたが、結果「動物にかける」は「他者に脳が動かされるという定義」ならば「ごく限定した動物に、限定したことのみ可能」となります。

「訓練やトレーニング」も「自分の意思に寄らなければ」催眠状態と定義します。

「ムリクリ親に言われて勉強する」のも同じなので、「慣らされる」までは「ストレス」になりますが、そのように動きます。

子どもが環境的に「塾に行くのが当然」と思うのも「じつは催眠状態」といえます。

ニュースなどによる「プロパガンダ」も同じ構造です。気をつけてください!

なお、人間でも「知らない言語には反応しません」が、通訳がいれば「反応」します。

 

2019-09-20 18:11:00

リクエストから、再度書きます‼️

仏陀には三人の師匠がいたことは有名ですが、どの師匠も弟子の仏陀に教団の後を継いでくれと言って断られています。

 

当たり前なんですが、師匠から様々な教えを受けて、その教団から勝手に去ってしまう、というのはかなりヤバいやつです。

 

はっきり言えば、その当時の教団とは、様々な知識を持った職能集団ですから、勝手に抜けて知識だけを持ち出されてしまうのは大迷惑だったことでしょう。

 

しかも、自分の国の国民を戦争をしないという条件で他国の奴隷として引き渡してしまいます。

 

チョーわがままで身勝手な奴、それが仏陀です。

 

そもそも修行自体が、この世の中が嫌になって始めたんですから。

 

修行自体が憂鬱な気分を何とかするためにやってたわけです。

 

で、それでも、嫌な事(教団の管理)からはいつも逃げ出してしまいます。

 

そりゃ、提婆達多も怒るよ。

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ーーー(わたしの回答)

 

学僧として回答するなら、さきに回答されている、「仏陀は身勝手なヤツ」は適切だと思います。

 

この辺で、「仏教徒は、一度見直すべき重要な提言」をされています。

 

「仏教は一般常識では語れないという重要なこと」を。。

 

歴史的にみると、仏陀は「普通」ではありません。

 

「妻も子どもも親も捨てて、一族を放棄して出家した」というのは、非常識極まりない「身勝手なヤツ」になります。

 

そもそも「生苦」なんて「生まれることの否定」を意味して「生まれることは《苦を生むこと》だ」という思考構造です。

 

ですから、「四苦」を布教で語るうえで「生苦」(生まれること自体が苦を生むことだと)「詳細」に話すことは少なくなっています。

 

現代のように「原典研究」されていなかった時代は「生きることは苦ですね」と語られていたのですが、

 

「生まれる苦」を意味することが明確になっている現代では「言いにくい人間の事実」だからなのです。

 

仏陀は歴史の中で「相当イメージアップされて」来ています。

 

ただ、このように、「仏教の根底をハッキリ語られない」まま来ていますが、いまや「先の回答者さん」の言ってることは「暴論」ではありませんから、

 

事実を元に語れる時代に、暴論のような書きぶりですが、見事に僧侶批判をも意味されていると感じました。

 

それは、「世俗の価値」では、全く理解できない内容が仏教なのに「その本質を語らず、そこを生きる(行じる)こともしないで、綺麗ごとばかり言って、お布施ばかりを考えて来ている僧侶のあり方への提言」だとも理解できるからです。

 

仏教は「無常無我原則」を徹底的に理解して、仏教の「真理性」がわからないと「世間には受け入れられない教え」なのですが、そこを生きていないで、世俗に埋没していると語れないのです。

 

基本的な仏教は、「自我は、宇宙や自然の動きと人間は変わらない」という「大原則」があるという意味です。

 

「世俗の人間の非真理性」を明確にしているのです。

 

仏陀は「自我にとらわれて、所有にとらわれて、家系は大事にするけれど、世界規模の他人はどうでもいい」という人間の「欺瞞」への提言から始まっているのです。

 

だからといって「〇〇主義反対!」という「主張」ももちません、ただ在るのみなので出家者(マジ仏陀ファン)」以外の在家者には「対機説法」していますが、

 

「原典研究」においては「かなりな非常識」を「ダイレクトに出家者に説いて」います。

 

親鸞の「教行証文類」にも「迦葉菩薩が仏陀」に、「あなたの息子は、出家しても地獄に落ちるようなことをしているのに、なぜ出家させたのか?」という問いに、

 

「あの子はわたしの次に王位を継ぐ人材だから、もしあの子が王位を継ぐと仏教グループを壊すようなロクなことをしないとわかっているから」というようなやりとりがあります、親の愛情など微塵もありません!

 

また「親鸞は父母のために供養はしない」という意味も書かれていて、「狭い人間世界の愚かな自我」に向けて「袈裟斬り」するような内容が頻繁しますが、

 

布教者は、「父母に限らず輪廻の中で、どこかでみんなが父母兄弟だったからという意味です」とごまかして論じますが、この後半の説明部分は「歎異抄」という「弟子の創作」ですから「親鸞の真意」は「著書」である「教行証文類」から読み込まなければ、深い意味が明確になりません。

 

「父母という概念は、生命の流れにおける存在」でしかなく、「生苦」の元でしかないということです。

 

また「ほかの祖師や傑僧もけっこう常識はずれなことを書いています」が、一般に向けては「語られない」のが普通です。

 

このような「仏陀の論理構造」では、とても「受け入れがたい」というところから生まれたのが「大乗仏教」です。

 

これは「そもそも人間の自我が問題だから、利他教化することで《自我を離れて》他についても同じように《自我を離れること》を説き、《無我の和合体》を作ろう」という論です。

 

仏教が「出世間と世間を止揚するにはうまくできた論理の展開」です。

 

しかしこの論理の根底を知らないひとに「ここだけをいう」と権力者や「くだらない指導者(教祖的なひと)」に「思想を利用される」ことになります。

 

「お前たちは、自我を捨てなければならない」だから「わたしのいうことを聞け!」というパターンです。

 

また、江戸時代には「こういう自然論」(人権以上の宇宙レベルな平等論)が説かれることは、「封建制度」に都合が悪いため「中国製の偽経」によって、

 

「感謝」が強調されて「目上に感謝」という「儒教を仏教として説くように命じられたため」このような「教え」が「仏教だと誤解されたまま」今に至っています。

 

「仏陀の、世間では理解されないであろう真理の達観」を「世俗と折衷する形式で生まれた」「大乗仏教の根底にある《仏陀の論理構造》」を現代人は理解して、

 

「ファンタジーではない、綺麗ごとではない仏教」を語り合える時代になっているのに、僧侶が「この重要ポイント」を「遠回しにいってみたり、そもそも僧侶もわかっていない」。。

 

だから「説けない」ということになっていて、「一般の方で、突き詰めて仏教を学んでおられる方」のほうが「量子物理学」などと同じ原則なので、よほど理解しておられることも多いのです。

 

また「この原則から不確定性原理」と同じ原則を見出せるなら「多次元世界」も理解できて、「浄土」と言った論が、「浄土という場所」を意味しているのではなく、

 

「浄土が多次元、出世間の高次元」を意味していることがわかるはずなのですが、未だに「死んだら浄土に行きます」なんて「世間から見ても仏陀以上に身勝手な教えに貶めている」と「論理的」に見るひとには思えるのでしょう。(親鸞の時点ですでにそのように書かれているのに読み込めていないのでしょう)

 

「仏教離れ」はこういう根源的な部分にもあります。

 

「身勝手なヤツ」に見える「仏陀の根底的な大前提は真理性」に根拠があるからです。

 

ここを「先の回答者さま」が言っているのではないかと思います。

 

また、この不確定性や多次元が理解できれば、キリスト教との合理性も理解できるのです。

 

先の回答者さまは「明確な指摘をされて」います!

 

閲覧数: 5件 · 高評価した人を見る · はらだ よしひろ (Harada Yoshihiro)さんがリクエストした回答

 

【ポイント】

 

「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」という、

 

枕経「臨終勤行」の時などに唱える文言は、

 

「迷いの境界の中で、恩愛を断つことは難しい」

「けれど、恩を棄てて、無為に入ることこそ、真実の報恩者である」という意味であり、

 

先の「回答」そのものです‼️

 

2019-09-20 17:23:00

釈迦は教条主義ではない!

FB の友人といえる方がシェアされている内容をコピペしました。

これを読んでいて「浮かんだこと」を後半に記述しています。

 

ーーーーー

人の過失や欠点が見えた時、

威張らぬように、怒らぬように、

釈尊が説く五つの注意事項(*下記参照)をふまえて

教える必要があります。

自分の観察が誤りの場合もあるので

実際には言わないほうがよい場合が多いものです。

釈尊は

「 先ず自分を正しくととのえ、

次いで他人を教えよ。

そうすれば賢明な人は、

煩わされて悩むことが無いであろう。」

「他人の過失を探し求め、

つねに怒りたける人は、

煩悩の汚れが増大する。

かれは煩悩の汚れの消滅から

遠く隔っている。」

と説いてます。

瞑想で慈悲と智慧を深め

善行を積み自分をいつも正しく調えるようにしましょう。

.

*釈尊が説く五つの注意事項

①時と場所を選び語りなさい。

②相手の心に受容力がある時に客観的に

バイアスのない視点で語りなさい。

③粗暴にならず、やさしく丁寧に語りなさい。

④相手の落ち度を責めるのでなく発展を生むために語りなさい。

⑤怒りを持ってはならない。慈しみの心で語りなさい。

ーーーーー

 

これをまず、「わたしのこと」(我がこと)と読んでいました。

そこで下記は浮かんできた内容です。

 

ただこの内容の出典はおいといて、「優婆塞など」複数の聴衆に説かれたか、教団内部の「なにかが原因で比丘たちに説かれた」のだろうと思います。

 

現代的に記述すると相手の「畏怖」(苦)を除くという、慈悲の内容だからです!

 

「自分を整えて、他人を教える」という部分は「無我前提」で「他を利する」ようにすれば、「自分が反作用のリアクションに苦しむことがない。トラブルにならない。」ということでしょう。

 

「他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れ消滅から遠く隔っている。」については、一般論または、「聴衆のだれか」に向けられているようです。

なぜなら「怒っているひとを諭している」シーンとも読めるのです。

 

ただ、「これだと釈迦の論理が、自論自滅な内容になり」ます。

これによれば「釈迦」は、「怒っている人の《背景理由事情》を理解しなくても良い」と言っているようにもとれる内容だからです。

 

「怒っているひと批判」に聞こえるのです。

 

「怒ってはいけない」は単純すぎるので、「怒っている人がなぜそのようになるか、理解しなさい」「怒っているひとがそうなっている理由を考えなさい。ならばあなたの智慧が深くなるであろう」「怒りを鎮める慈悲を得るであろう」

 

のほうが仏教的には「正確」でしょう。

なぜなら「ここに載せられている内容は、教条主義な内容でしかない」ので、じつは「怒っている個人に変化をもたらすことはない」からです。

 

「他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。」という状態から、

 

「かれ」をどうするのかが説かれていませんから、「誤解する人」は「怒っているひとは煩悩の滅から遠くなってるんや」という「慈悲」について「アンビバレンツ」になっています。

 

なお、釈迦の「原始経典における説きブリ」は「〇〇してはならない」という「教条主義的対機説法」が多く、「あたたかいわけでもない」ので、「ミリンダ王問経」などは「論」ですが、

 

このような事例内容は「論でも情でもなく」、「教条」になっているため、「聞き手が聞きながら実行できない。。」となるケースも多かったのではないかと考えます。

 

「王の命令だ!」という権威によるプレッシャーに感じるひともいるでしょう。。

 

また釈迦は「クールな、冷淡な」人だという印象を与えます。

 

これは「釈迦批判」ではなく、だから「釈迦」は「書くな」といわれたのでしょう。

「書くことで、生きた言葉やその場で相手と対峙している外側の浅い部分しか記述されないために、文言以上の《深いやりとり》」がわからなくなります。

 

ライブコンサートに行った人が、誰かから「どんな歌を歌わはったん?」って聞かれて、「歌詞カード」を渡しているような状態で、こうなると「その場のその言葉ややりとり」つまり「言葉以上のシーン」が意味を失います。

じつは「コトバ以上にそこを見ないとわからないこと」って多いものです。

 

そういう点で「大乗仏教がストーリーになっている」のかも知れません❣️

 

わたしが「刑務所に教誨」に行った時の「受刑者さんとのやりとり」を通して思うのは、

「ど真剣に聞いてくる受刑者さんに、ど真剣に応えている内容は、シーンを見た人にしかわからない」と思います。

じつはわたしにおいて「刑務所教誨」ほど「ど直球」なシーンはありません。

 

ケースによったら「。。ならオマエは死ね‼️」ってキツくいうこともありますが、ど真剣なので、その文言を聞いて「深い意味を感じて」。。「ありがとうございます‼️」と言って「涙する受刑者さんは多い」です。

 

ひとは「どんな表現でも」。。「ほんとうにわかってもらえた」「このひとはど真剣に考えてくれている」ということを知りたいのです。

 

ここでこのようなことを「書いている」のは、「布教内容が教条的だとけっきょく具体策にならない」ということです。

布教使や住職、僧侶が「陥るパターン」だと思ってのことです。

 

現代は「具体論」のない「机上論」ではひとは納得しません。

カウンセリングをすれば、よくわかることです。

 

とはいえ、

*釈尊が説く五つの注意事項

①時と場所を選び語りなさい。

②相手の心に受容力がある時に客観的に

バイアスのない視点で語りなさい。

③粗暴にならず、やさしく丁寧に語りなさい。

④相手の落ち度を責めるのでなく発展を生むために語りなさい。

⑤怒りを持ってはならない。慈しみの心で語りなさい。

 

は、じつは「具体策」ですから、

②の「受容力、客観的」は「相手を理解するという前提」であり、

④の「発展を生む」は「具体的目標」といえます。

 

今回シェアさせていただいた友人さんは、いつも「学ぶテーマ」をくださいます。

心からお礼を申し上げます。