インフォメーション(日々更新中)

2019-09-27 05:17:00

愛された事の無い人は本当に相手に愛してると言えますか?

いつもながら「愛」をどう定義しますか。

というところから、論じる必要がありますが、「現代日本」は「核家族」になった時点で、

「大事にされていない」と感じる事象が増えているのは確かです。

けれどこれにも背景があって、「ムラなどの掟や習慣が合わない」という「時代錯誤」ななかに「いまの若者」はついていけない。

ということもあるでしょう。

「大事にされていない」という感覚は「親などにとって、わたしの優先順位は低い」と思うところから、感じ取るのでしょう。

人間の脳は0才から1から2才になるにあたって、「不要なデータを削除する」という学説があり、

「赤ちゃんが笑うのは、大事にしてねアピール」ともいわれいており、「笑っても泣いても」相手にされない。

という、「ネグレクト」な親に育てられると、、「育児放棄」されると、3才ぐらいには、表現しない子になるようで、

深刻な問題のひとつになっています。

「愛」か「大事」か、文言は違っても、「大事にされていない、わかってもらえない」と脳が判断すると、、

ひょっとしたら「基本は愛せないひと」になるかも知れません。

ただし人間の脳は「高齢化しても、本人がわたしは年寄りだと言って《脳にブレーキをかけない以上》衰えない」という学説もありますから、

成人する中で「よきひと」と出会ってそこで「愛」に出会い、「愛」を学ぶことで「愛せるひとになれる」と思います。

「愛想のない人」を「あの人は愛を知らずに育ったんだろう」なんていう観点で見るのは、

或ひとつの「偏見」と言えるかもしれません!

「愛を知らずに育った人に出会ったら」あなたがまず「愛を教えること」が大事なのではないでしょうか。。

 

2019-09-27 03:34:00

「結婚は人生の墓場」という言葉がありますが、あなたはどう思いますか?

この文言を「この言葉を使う人」がどういう意味で使っているかわからないのですが、「人生の終わり」という意味では、

もともと他人同士であり、細かい意味で「生活リズムやパターン」が合わないということが「数々明確になって」いくものです。

たとえ「同棲」をしていたとしても、「結婚」には、「親だの親戚だの」という「めんどくさい人間関係」が増える。。など。。

本来的には、「親」「親戚」という立ち位置にいなければ、「いい人だったかも知れないひと」でも、立場が変わると「めんどくさいひと」になることもありますから、

2人の間に「そういう変数」によって、かつてない「揺らぎ」に遭遇します。

こういう時に結婚の当事者同士で「そんなひとだと思わなかった」という文言を口にしたりという、「意味のないケンカ」が勃発します。

結婚までにはなかった「大きな変数」が2人の間に生まれて、それまでにはなかった「化学反応」が発生します。

「核融合による爆発」のような状態です。

また、互いに緊張感がなくなって「いろんな側面」を見ると「イヤになる」ことも多々「勃発」しますから、最近では簡単に「離婚」という思いにかられます。

そして「異性」から「人間」にかわって、「トキメクようなこと」がなくなってきます。

「同棲」が「同居人」に変わっていくのです。

近年の日本人の離婚数が多いのは「こういった時点で離婚」するからです。

良い意味で「墓場」というなら、このようになってからが「ほんとうの結婚」になるのです。

それまでの自分は墓におさめて、「人間として互いに成長する」ことができます。

「異性」ではなく、「人間同士」になってから、「さまざまな助け合うべきこと」がわかってきて、

色々と起こってくる「山や谷」を2人で乗り越えられると、「結婚」のほんとうの意味がわかってきます。

しかし近年のように「離婚、再婚」への「決断のポイント」が早いと、人間の深さがわからないままの「大人」になります。

そのような意味で「キリスト教のある教派やイスラムなど」では「離婚を認めない」ということになっているのかもしれません!

そして「人間成長」という意味が「結婚」にあると知らないと、「理解し合うというモチベーション」がアタマからないために、

同じ繰り返しをすることになるでしょう。

「それまでの自分」を墓場に捨てて、「再生すること」と定義できれば、「結婚はいい意味での墓場」なのかもしれません。

この定義がなければ、「浮気だのなんだの、いちいち目くじらを立てる」ことになるため。

「結婚制度に反対」して、「独身を貫くひと」が増えているようです。

わたしは「結婚制度」にも問題があるという意見に反対はしません。

「モチベーションはさまざま」で、どうしても「無理」ということもあるからです。

ただ、「別れる理由や決断のポイントが意味不明」ということもあるので、「人間として成長し合う」という理解のもとで、

「結婚されること」をオススメ致します。

 

2019-09-26 04:16:00

或る師曰く❣️(plus)

或る師曰く、

「お寺の将来を憂いて研修などしている暇に、住職は先陣をきって寺の周辺を毎日掃除せよ」

「アタマでは解決せぬことは地味な行動こそ解決の糸口である」と。。

 

この内容は「多くのことがらにおける基本」だと思います。。

 

けっきょくどんな企画を考えても、ひとは本質を見るので、

「寺を守るため」といいながら「いまの時代に、坊主は安全地帯」に安住していて、なにをしようと、魅力を感じるひとは少ないでしょう。

 

わたしは、「平均賃金以上の生活はしない」「預金も持たない」という「不安定なゆらぎに身を置き」同じ状況の中で、さまざまな問いに応えることをしています。

 

どこの住職が「朝のお勤めをして、そのまま地域への貢献としての周辺掃除」をしているでしょう。

 

「ノウハウ(方法)」ばかりを追いかけて、得られるものはありません。

これは「一般のビジネス」でも同じです。

 

なににつけても「こういう人間の本質」を忘れて、「方法」としての掃除ではなく、「住職の本分として」本気でやれ‼️

 

という「あるかた」が坊主へ檄(げき)を飛ばして仰ったのです。

 

来年あたりから「時代が大きく変化するなかで、ここを抑えていれば、大騒ぎすることはない」といえます。。

2019-09-23 01:06:00

あまり知られていない、宗教についての真実をお聞かせください?

宗教団体の定義は。。「宗教法人法」によれば、

(宗教団体の定義)

第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。

一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体

二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体

とありますが、「宗教」の定義はありません。Wikiれば、宗教(しゅうきょう、: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、

また、その観念体系にもとづく教義儀礼施設組織などをそなえた社会集団のことである。

を基本として、さまざまな説が記述されています。

ここに「人間の力や自然の力を超えた存在」とありますが、「仏教」は「自然」を説いており、「超えた」ものを説いていません。

また「存在」については「量子力学の不確定性原理」と同じように「空(くう)」を説くので「存在」は説きません。

じつはこのことは「仏教の究極な結論」である「さとり」の内容なので、仏教の浅いレベルの話を聞いても「わかりません」から「一般常識的仏教」を仏教だと思っている人には、

「?」になります。

また、キリスト教でも「牧師さん」などによって「深い話し」をされる方と「決まりきった話し」をされる方では、その牧師さんの深まりによって「レベルの差」があるようです。

そういう意味で、「宗教についての真実」というお尋ねの文言を「宗教が説いている真実」と定義して回答いたしますと、「表面的な真実」ならば「仏教は、修行において無常無我空を悟ることが真実」であり「キリスト教は神の愛を信じて生きること」となるでしょう。

仏教は「出家者への教え方」と「在家者への教え方」が違いますので「〇〇仏を信じて生きる」という在家者向けの内容が「日本では《大乗仏教》として普及しており」こちらのイメージが大きいかと思います。

しかし結果「いずれを生きる人も深まっていくに従って、同じ状態になる」のです。

この点は、誤解されるほど「ことばにしにくい境界」ですが、あえて記述しますと、

結果、「人間の揺らぎや不安定を修正し、自然という大きな動きに含まれつつ流れるように生きることができるようになって、人間的な《損得、貪りのような欲、世俗の幻想》などに振り回されることがなくなり、まるで量子のように《自在に動けて》《自我ではなくなり》どのような状況も《受け入れられていける》ようになり、そういう仲間が《陽子と中性子を核として電子が飛んでいる原子》のようになり、《ほかの次元の原子と結合》できたら《違う原子(元素)》同士が《分子》になるように、受け入れあえて、止揚されていく関係となり、これが《宇宙レベル以上に広がっていく》という状態を体感できるということ」になります。

親鸞は「仏というのは《自然》であることを知らせる手段であり、本来すべてが《色も形もない、ことばも絶えた法則によること》を教えていて、《自我を捨てた智慧》により《慈悲の心で生きる》ようになるということ」を説いていますが、これは「智慧も慈悲も《自我滅=無我》を促し、他者を生かすことで《原子か分子のようになる》こと」を教えているので、

浅いレベルでいうと「仏の救いの心を信じて、仏の智慧をいただいて、他のために慈悲を生きましょう」ということになるから、「キレイゴト」に聞こえたり、「よくわからない」といわれるのです。

しかし、「智慧も慈悲も」結果「無常無我空」になって、宇宙レベル以上の一体感のなかに溶け込むような状態になることを意味しています。

そういう点で「不確定性原理」や「パラレルワールド論」がわかると「仏教も理解しやすい」のです。

キリスト教のように「神の意思に任す」も「人間を同じ状態」にもっていくように思います。

この点で「仏教原子」と「キリスト教原子」が止揚しあって「新しい分子」になるというような状態になれます。

宗教もそのセクトを超えて行けるまで「次元が深まる」と自我滅状態になるので、「生死」「富や貧しさ」「健康や病気」にもとらわれません。

つまり「生死もともに自然の中であり、生命の背景にある次元との一体感が得られるので、今の中に永遠があり、今の中に宇宙以上の広さがある」のです。

わかりにくいニュアンスだったらすみません。。

 

2019-09-22 19:47:00

原子と因果同時❗️

因果同時っていうのは、物理学的に、原子という1(イチ)に、陽子(+)と電子(–)と中性子が構成しているという、二極が同時にあるのに似ています。

 

+と–は二ではなくて、「イチ」が包含する「多」を意味しています。

磁石のN極とS極も同じで、「イチ」に包含されるのです。

つまり、どちらが欠けても成り立たない。

 

華厳経の「一即一切」「一切即一」と同じです。

 

 

人間は「それらの根源がイチであり、多に広がっていること」をなかなか理解しようとしませんが、真如が一如であるということに帰結します‼️