インフォメーション(日々更新中)

2019-09-13 00:25:00

在るけど有るではない‼️

「有ると在る」は違う。

「有る」は「実体としてある」を意味して、「在る」は現象や、概念、認識という次元において「在る」を意味するので、

 

「仏は在る」「自在」という表現において、ただ「在る」のです。

「神は在る」のであり「有る」のではない、という次元理解がないとわかりにくいかもしれません。

 

「わたしやあなたも」ただ「在る」のであり「有る」という次元においては「無我」なのです。

2019-09-11 22:31:00

なぜ宇宙になったではなく「如来や神」なのか❣️

「亡くなったら宇宙になるということでしょうか?」について❣️

 

少し砕いたほうがいいと思ったので、追記します。

亡くなったひとが、「宇宙になった」という「漠然とした表現」では、漠然としたままで、次元を定義できないのです。

 

だから「智慧の教え」を伴った「仏(如来)になって」or「神(主)とともに」という「高次元の位置から」わたしの「次元を上げる存在になった」という意味なんです❣️

2019-09-11 21:25:00

梵我一如であるなら、なぜ人は解脱や至福を求めるのでしょうか?人はいつでも梵と一体であり、迷いも苦しみも怒りも憎しみも、そこから逃れることを求め苦悩する心さえ梵の範疇では?への回答❣️

梵我一如は「バラモン教」の思想で、「輪廻」や「実在」を説きます。

梵も我も「我」ですから、「無我、非我」を説く仏教は、そこを「ミス」だと言っています。

質問者さまが「わたしは宇宙と一体だから、ひとを傷つけ、殺そうとも、宇宙がやっていること」です。

というひとと出会い、だから「わたしはなんの抵抗もなく、あなたを殺します」と言われたら、

そうですねぇ❣️「オッケー」ってならないとは思いませんか?

たとえば「人間がアンドロイドを作って、そのアンドロイドが人間を殺し始めたら」作った人間は、

「そこまでになったアンドロイドは不要」って思うのでは無いでしょうか。

ブッダは「殺してはならない」という戒律に「理屈」はない、「殺されたく無いものを殺すべきでは無い」という「論理」で教えを説いています。

だからと言って「殺したひとを不要」ともいいません。

仏教は「世俗の価値」ではないからです。

すべてが「宇宙発祥」でも「宇宙ゴミ」を人間が作り、「不要な存在」と「重要な存在」という価値はあくまでも人間の価値「世俗の価値」であり、

人間が生み出すものや意思までもが「宇宙が作ったのではない」ということです。

「梵我一如」においても、「梵と我」は根源的「一如」と言っているだけで、「我の苦悩や意思」までも「一如」と言っているのではありません。

「一如」の論点を間違えたら、バラモン教すら解釈をミスります。

だからこそ「ブッダ」が「無我や非我」を説き、「明確に、宇宙つまり梵にすら我はない」と言っているのです。

 

2019-09-11 21:23:00

三法印の解釈についての回答❣️

釈迦の時代のこの「無常、無我、寂静&一切苦」の仏教としての法印は、その細部においては、部派仏教になった時点で「解釈」が細部において「分かれて」います。

しかしながら、現存して「完全なかたちで残っている」のは「説一切有部(せついっさいうぶ)」という部派で、「倶舎論(くしゃろん)」という「ヴァスバンドゥ(世親)」という学僧が書き残した「中国での翻訳本」と「サンスクリット原典」です。

この中に、批判の対象として「犢子部(とくしぶ)」の論が出てくるので、犢子部の論は、そこで確認できる程度です。

この「倶舎論」において、「無我、非我」について「三世実有、法体恒有」という「過去、未来、現在」の三世において、「法体」は「有」であると論じていて、「我空法有」という「無我の我は空であるが法は有である」という説を論じています。

この「有」の法というのは、「五位七十五法」のことをいい、これは、「色、心王、心所、不相応、無為」の五位と、それぞれに関する七十五の「法」を指します。この「五位」について、「色法」は「肉体や物体の元素的な内容のこと」をいい、あとは「心の動き」であり、「無為法」が「さとりの法」ということになります。

ここでなぜ「我空法有」なのかというと、「なにかが存在する以上、その構成要素があって然りではないか」という、現代の「素粒子」のような「実在」があるはずである。という論理になっているからです。

だから「構成要素」は有るけれど、人間などの存在は「構成要素の集合体」なので「我は空」という論理展開です。

このように「無我」の解釈が「細部に論じられ」、大乗仏教の「ナーガールジュナ(龍樹)」というひとが「我空法空」を説くに至って、「どっちにも実体はない」と論じて、「空は非空であるから、存在のような仮の和合した状態があり」これを「有」とは言わず「非空」として、「非空は非非空で、非非非空で。。。」と永遠に続きます。

このように「無我、非我 」を徹底して「空」とした「中観派」を確立したのです。

そこで、部派だった、ヴァスバンドゥは、「倶舎論」を発展させて「唯識派」を確立します。

これは、我空法空をさらに深めて、「我空法空」ならば、「なぜ存在があるのか」という疑問を立てて「すべては認識による」という認識による「存在のあり方」を論じて、その認識主体になっている「阿頼耶識(あらやしき)」自体は「空」であるという「大乗仏教の観点から」論理を確立しました。

このように「無我、非我 」については「細部において、論理展開」があり、「華厳経の法界縁起説」「法華経など」さまざまな「経典」から「真如論による真如縁起説」「如来蔵縁起説」「諸法実相」などのさまざまな「無我と存在の関係性」が「無常原則」を根本にして論じられています。

興味がお有りであれば、いろいろと探求されると「現代物理学」にも劣らない、「宗教というより科学だ」と感じられるかもしれません。

しかし「あくまでもこれらの論理は、さとるための論理」であり、これを体得する「行」が伴なうことは切り離せません!