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2019-08-18 04:55:00
そもそも南無阿弥陀仏はインドのものではない‼️
早速ですが。。
経典上「南無阿弥陀仏」という連語が出てくる経典は、
「観無量寿経」のみで、これは、法然さんが、中国の善導さんが「観無量寿経の解釈書」(観経疏)を書いていて、日本の数多く輸入された仏教書から発見したものです。
ですから「浄土宗」は「観無量寿経」が中心になるので、浄土宗の僧侶は観経をよく読誦します。
しかし、親鸞さんは「無量寿経」を中心にしていて、「観経」は基本「方便の経」と位置づけています。
基本というのは「最終的には方便の中に真実がある」という「隠彰」という解釈になります。
そもそも「浄土宗」や「浄土真宗」には、「浄土三部経」といって「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つが重要経典とされています。
しかし、「無量寿経」には「阿弥陀仏」という文言すら出てきません。
「阿弥陀経」には「阿弥陀仏」という文言のみ出てきます。
そしてじつは「観無量寿経」は、もともとインドのものではなく「中国で作られたお経」というのが定説になってきています。
それは、「サンスクリット語」などの原本が残っていない。「翻訳本がひとつしかない。(無量寿経などは5つあります)」などのいくつかの根拠があって、専門的にはほぼ確定「中国撰述」とされています。
とすると、親鸞さんが、師匠が大事にした「善導さん」と「観経」よりも「無量寿経」を真実としたということには意味があると考える必要があります。
「無量寿経」に関しては、インドの天親さん(ヴァスバンドゥ)が書いている「浄土論」やそれを解説した、中国の曇鸞(どんらん)さんの「浄土論註」を親鸞さんは重視したからと言えます。
この二つの書物は「仏教学」を原則にして「浄土教」を解釈しており、称える名前を「南無阿弥陀仏」ではなく、
「帰命尽十方無碍光如来」にしているのです。
そして、親鸞さんは「教行証文類」に行を「五念門」、行の果を「五果門」としています。
しかし「本願寺八代目で中興の祖」といわれている「蓮如さん」は「善導さんの五正行」を重視していますが、親鸞さんの教行証文類には「五正行」は「真実行」について一ヶ所しか記述がありません。(しかも行文類ではなく信文類にあります)
このように大きく二人の先人は違うことを説いているのに、この二人の言ってることを同じだと定義するには無理があります。
しかし西本願寺は「ムリクリ同じ」だと定義するためか、「真宗の行」は「南無阿弥陀仏そのもの(法体)」だといって、
「阿弥陀仏が勝手に行じて、その行の功徳を南無阿弥陀仏の六文字に込めて与えられている」と解釈するため、
「わたしの行なう行はない」といってしまうのです。
「行は南無阿弥陀仏そのもの」だと説くのです。
しかし「教行証文類」を読んで、どう読んでもこの内容では筋が通らないのです。
あくまでも「行」については「浄土論」の「帰命尽十方無碍光如来」の五念門中の讃嘆門行になっています。
ですから「親鸞直筆」には意外と「帰命尽十方無碍光如来」が多く、「南無阿弥陀仏」は比較的少ないのですが、
蓮如さんがたくさん書いたので、蓮如さん直筆は「南無阿弥陀仏」メインなので、お西では、「南無阿弥陀仏」を重視します。
しかし戻って考察すると「観経」を親鸞さんは「方便経」としていて、そこにしか「南無阿弥陀仏」はないうえ、
親鸞さんが重視した「無量寿経」には、「阿弥陀仏」の文言すらありません。
こういう点を鑑みても、親鸞さんは「帰命尽十方無碍光如来」を重視していて、師匠の法然さんにならって「南無阿弥陀仏」をも重視しているかのようです。
ですから「西念寺別院」のメインは「帰命尽十方無碍光如来」にしています。
これは「教行証文類」を読めば、誰にでもわかることですが、「教行証文類」を読むのに「既存の思い込み」や「そもそも読んでいない」「部分的にしか学んでいない」僧侶が多いために、理解されていないのが現状です。
このことは「わたし」にどうこういう前に、ご自身で「既成概念」抜きで読んで見られればわかることです‼️
2019-08-17 01:56:00
往生礼讃と讃美歌❣️
なんと‼️
とある「論理的」な住職さんから、
お西の「往生礼讃」の譜は「景教(中国にあったキリスト教)」の讃美歌の譜であるという研究がある。
それ以外は、「大原声明」だけど。。
とお聞きしました。
また、蓮如さんは「わかってて、あえて真宗をキリスト教(景教)で教学構築した」ともお聞きしました。
また、弥勒菩薩はそもそも「ゾロアスター教」の神であるのに、平気で「仏告弥勒。。」って読んでるけど、そういう背景を理解しているのかなぁ。。
といわれていましたが。。
私は、これらの研究について「認識」はありますが、「論文など」を確認してはいません。
しかし、さもありなんと思います。
もし異論のある方は論文をお探しになることをお勧めします。
そもそも「国を超え、時間を経て伝わってくる中」で、
いろんな思想が混じることを「当たり前」という前提で理解することこそ「当然」である。
と受け入れて、そのうえで、親鸞が「取捨選択」して「根本仏教に戻している」のが「教行証文類」であるからこそ、「教行証文類」は、親鸞のジーニアスな部分がより明確になるという評価があるのです❣️
また、だからこそ「仏教学」によって、「教行証文類」の内容が明確になっていくのです。
「仏教学のない真宗学」では、親鸞が「なにをどう取捨選択して根本仏教に戻しているか」理解できません‼️
2019-08-16 02:11:00
現生往生か来世か、どっちでもいいけど❣️
花火の以下のコメント、いい感じです❣️
以下「能美さんのFB」より
ーーー
花火は好きですが、終わった後の寂しさはたまりません。
けれど、私たちには終わりがない、仏さまとしてのいのちの始まりです。
ーーー
現生往生でも来世往生でも語れて、「じわっと」入りこむ表現です。
とにかく「仏さまのいのちの始まり」なんです❣️
2019-08-15 23:23:00
あはれといふもなかなか愚かなり‼️
「無宗教、無神論者」さま。
日本人の無神論者は「いい加減」すぎる。
無神論者を自負するなら、しょうもないおフダやお守りなんか必要ないではないか。。
また、クリスマスやキリスト教式結婚だの「初詣」などなど。。
とにかく日本人お得意のご都合やウワサレベルの低次元な思考に基づく「霊感だの祟りだの」。。
それは「宗教学」では「原始宗教」の部類に入る。
「神や仏が居るものか」というひとが認識理解している「神」や「仏」はどういう概念なのか?
果たして「仏像のような存在がウロウロしてる」と真実の仏教者が信じているとでも思っているのか。
「キリスト教」信者のすべてが、「マジマジ」実体的な神を聖書に書いてるように信じていると思っているのだろうか?
西洋哲学でいう「ロゴス」「イデア」だの「実存主義」だのという概念でも語り尽くせない。
真実の仏やキリストの神は「脳内データ」を複雑かつ「合理的智慧」をもってプログラムし、アルゴリズムにしたと言ってもいいような「高度な思考や論理」によって認識されるものである。
そういう深いレベルに意識(脳)が到達した時には、そのレベルのもの同士は理解し合えている。
ではその意識レベルは「脳」にのみ依存しているのかというとそうではない。
「存在も非存在も」すべてを「背景」にしている「ことばも絶える」という次元である。
誤解を恐れずにいうならば、「母にとっての主(神)」は「わたしのいう無碍光如来」と変わらないうえに、「滅を目前にして」半ボケのような状態の「母」はすでに「主(神)」に出会っていて、現実に存在している「母」はいわゆる「BODY」である。
そのように思うことは、「非道徳的」であるといわれるかもしれないが、「延命措置」をして欲しくないということも、多くのひとがいう「非道徳」に類する概念ではないのか‼️
「単純思考」で「宗教の深み」を知らずに、簡単に「無神論、無宗教」を自負するものこそ「愚か」である。
「あわれというも、なかなか愚かなり」である。

