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2019-09-11 21:20:00
次元って?
次元というのは、基本的には「線」を「1次元」、「面」を「2次元」、「立体」を「3次元」というようにいいます。
しかしこれを深く広くいうと、
たとえば「目の前に《りんご》がある」とします。
これを「りんごがある」と認識する次元があります。
そしてこの「りんごはどこの産地か?」という次元もあります。
さらに「どういうひとがどのように作ったか」という次元もあります。
また「このりんごは誰がどのようにここへ移動させた(持ってきた)か」という次元もあります。
そして「このりんごの成分は?」という次元もあります。
広げてみると「このりんごの産地はどのような環境か?」という見方もあります。
「このりんごは、誰が開発したか」という見方もあります。
「このりんごは輸出入しているのか」という見方もあります。
「このりんごを美味しいというのは、甘味か食感か?」という見方もあります。
「このりんごを美味しいという人は世界人口の何%か」という見方もあります。
このように「りんご一個」を見てもさまざまば要素や背景があり、「どこまで掘り下げたり、高い視野で見るか、広げて見られるか」ということで、見える世界が変わるということです。
単純そうなことにも、多くのファクター(要素)が、計り知れないぐらいあるということなのです。
仏教の十如是をお調べください。
関西風仏教解説から
②十如是
十如是(じゅうにょぜ)ってのは、『法華経』方便品に説かれる因果律で、意外と《実用性》のあるものの見方(観察テクニック)ですわ。
この「十」ってのは、
- 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等
- (そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとう)
っていうて、
こういう角度からものごとを見たら、ものごとの本質がわかりまっせ!
っていう智慧を生むテクニックですねん!
ものごとの、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)
を見たら、諸法の実相っていう、存在の真実の在り方がわかりやすうなりますねん。
わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法をいう。
如是ってのは、是(かく)の如(ごと)し(そのようである、という意)のことですやん。。
これって結構いけてて、日常の出来事や人間関係をこういう視点で見たら、分析しやすくって、
「智慧」になりまっせ!
こういうポイントは「浄土教」やと「四十八願」とか「荘厳功徳」に「内在」しますねんけど、
現代やし、こういう「論理」で理解する方がはっきりしますやろ!!
2019-09-11 21:19:00
浄土の次元❣️
浄土が「西方」なのは、「スペース(空間)」のことではなく、「次元をあらわしている」と論じる方が適切だと言えるでしょう。
当時は「東方」はオリエンタルな「俗世」をあらわして、
「西方」は「出世のさとり」を意味していたという論文を読んだことがあります。
このことと「太陽が沈む、大自然でしか感じ得ないこと」が一体になって、「西方定義」があるとしたら、
これは、もはや「スペース」ではなく「次元」を意味している、深くかつ高度な思考による世界観です。
そういう意味で、往生が現生か来世かという議論は「戯論」であり、人間が「高度で深い思考のさとりを観じる」には、「場」の問題ではなく、「次元」の問題が「場」のあり方や「観えかた」を変えるのである。
と「現実的に変化が起こること」を親鸞は論じているといえます。
事実、「如来を行じていく中で、いろんなことにおいて次元の変化が起こっている」ことを、日常の中で観じるようになります。
2019-09-11 18:53:00
現生往生か来世か、ここがポイント‼️
「往生が現生か来世か」なんていう議論は、「浅いところをなぞった議論だ」とよくわかってきました。
教えを聞くということ、教えに生きるということは、「時間論」と「次元論」を根底にして聞けば、
どんどん「深く広く」なっていくので、「過去法を見つめて」至らない次元を考えて「未来する世界観」を「憶念しながら」「現在する法」のなかに「さらに多くの次元を観ていると、「現に在する法」が変わって行くのがわかります。
「自然法爾」に「任運」にそのように観ていると「そうなっている」のが、よくわかりました。
このたび「実母の死」において、「正直、自分はそれを目の当たりにしたらどうなるか」と思っていましたが、
この「自然法爾」のなかで、キリスト教のよき「牧師」さまとも語り合えて、そこから「真宗」を見つめなおし。。
能美さんの法話を聞いていて「阿弥陀さま」という「人格性」に込められた「真実」が伝わってきて、
有為法のような「阿弥陀さま」がほんとに「能美さんの世界観」の中に如来を生きておられる明確な「さとりへの歩み」を感じて、
また、Quoraの回答を通して、いろんな角度からの問いに触れ、
そういうなかで、周囲に起こってきていることが変化して、「曹洞宗の住職さん」と「牧師さん」「そしてわたしたちが真宗僧侶」として「葬儀」をしたという、
ありえないような「宗教者」の一体感の中での「お勤めの時間と次元」の深さと広さは、「曹洞宗住職」さんも「牧師さん」も同じ感覚でおられている。
この「次元」は「如来の世界観」そのもので、キリストの「神」&「如来」のなし得た「自然」だという「実感」が。。
さらに、親族間でも、いままで以上に「義兄」が「アニキ」になり、
叔父も「おもしろい討論相手になって」いままでの、ボンヤリしたものだった「実家における人間関係」が、
「オカン」の葬儀に携わるなかで「楽しく深く広く」なって行き、「明確な関係」になった‼️
いままで「無碍光如来」のなかで「功徳荘厳」を観るように「行じてきた」ことが、
こうやって「深く広くなる」ということを、「実母の死」が明確に定義してくれた。
「仏の世界観」を広く明確な内容に定義してくれたことで、
「時間論と次元論」を観て行くことが「教えを聞くポイントだ」という学びになったのです。

