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2019-09-09 01:40:00
輪廻についてさすがな回答‼️(わたしの回答ではありません❣️)
ここでは、輪廻が存在すると仮定して、考えてみます。
ヒトは、ヒトである以前に動物でもあります。生命という基本的な機能は、動物としての共通パーツですから、 人が死んだら輪廻するとすれば、犬が死んでも牛が死んでも、当然輪廻するはずですね。
微生物まで、その範囲に入れると、どうなるでしょうか。
産総研によると、地球上に存在する微生物の総数は、415〜615×10の28乗匹と推定されます。[1]一方で人間の総数は60億人ていど?なので、比で言えば、10の20乗:1の割合で、微生物になるほうが多いことになります。
つまり、人間が死んで輪廻する場合、1つの個体が次の一生で、完全にランダムに次のカラダを得ると考えると、ほぼ確実に微生物になります。一日ごとに微生物の一生を終えてサイコロを振るとして、人間にふたたびなれるには、期待値として2兆年かかる計算になります(10の20乗/365)。
『すべての生命を同列に考える』と、輪廻のシステムはフィットしにくいのです。
『人間だけが特別』という前提がないと、成立しにくいシステム・・これは、天動説と同じ、『シンプルでない説明』であり、何かが間違っているサインだと思います。
さて、ここで新しい考え方を加えましょう。
『多細胞生物は、個体を1つの生命とカウントせず、細胞1つごとに1つの生命とカウントする』+『細胞ごとに輪廻転生する』
そうすると、人間の細胞は数十兆個[2]なので、人口の60億を掛けると、10の23乗個くらい、やや近しいオーダーになってきます。100万:1くらい?
これなら、人間が死んで、細胞が分解し、それぞれ新しい生命として生まれ直す、という事になります。あるものは単細胞生物として、あるものは植物の細胞のひとつとして、またあるものは人間の細胞のひとつとして、生命をリスタートします。
数十兆個のサイコロを振るなら、かなりの分量が、多細胞生物の細胞として生まれ変わることができるでしょう。
つまり、散り散りになった自分が、それぞれ新しい個体の一部として最構成されるのです。これなら、比較的説明が付きやすいでしょう。
とはいえ、自分が死んだ後に、体や意識が分解して数十兆のかけらになる現象は、ひとりの個体として生きている間には、想像しにくいです。主観の軸が増え、次元が変わるからです。
死ぬという事は、具体的な存在からより抽象的な存在へ、次元を上がる事かも知れません。
この考え方なら、少しは整合性が取れる気がしますね。
別の想像ですが、生命というのは、車などのエンジンが回っている物理現象によく似ている気がしませんか?
すなわち、生命の物理的・科学的反応によって、反応の恒常性が保たれている状態です。
このように考えると、生命というものは、ひとつの『存在』というよりは、むしろ『状態』なのではないかという考え方も成り立ちます。
つまり、生命があるから生命活動が起きる、という順序ではなく、生命活動が起きている状態を『生きている』と便宜上呼んでいるのかも知れません。
いずれにせよ、『ひとりの人間が、死語、その性質を保ったままで、違う肉体を渡り歩く』という想像は、人間にとって想像しやすい反面、『なぜそうなるか』という説明の面で、少し乱暴な気がしています。
早い話が、『死んでまた生まれ変わるという想像は、想像よりむしろ願望に近いのでは?』と思うわけです。
2019-09-05 02:53:00
だれもが「真宗を受け入れるわけじゃない」けど「如来は受け入れる」❣️
https://r.goope.jp/sainenji/free/kesin
今日の「講義その5」は是非読んでいただきたいのです❣️
最近の学問でも「いくら言ってもダメ」なケースが多いのは、「DNAと環境因子」によって、「皆が違う次元を生きているから」ということがいわれるように、親鸞は「化身土文類」で「そこを救う法」について書いているのです。
量子力学でも「不確定性原理」といわれるように「すべてが不確定」であり、
「わたしが人間である」ということを証明することすら「生きている」と証明することすら出来ないのです。
ここにいる「ここはどこ」ということも「なにもかもが不確定」だという「無常無我から導き出される真実」という次元からいえば「キリスト教」のひとが如来だといえない理由はない。(化身であれ)
あなたが「報土にいるとも化土にいる」ともいえない。
すべてが「確定定義できない」というのが真実真理なのです。
だから「現生で往相還相因果同時」と仮定すれば良い。
「現実的に利他」れる教えを生きていると「仮定定義できる」ならその方が良い。
「死んだら浄土に行けるねん」と思う以上に次元を変えられないなら、「そういう次元もあり」というのは仕方がない現象。
「お守りが守ってくれるねん」という「次元にいるひとを変化させる」ことは難しい。
それが「あなたの生きている次元と違っていても当然であるという現象認識ができれば」それでもいい。
そういう現象認識は認めたくないなら「そういうひとの次元を変える努力」をしてみれば良い。
とはいえ「より良く《いのち》と仮定定義される存在らしきものを、成仏に向ける方がいいと定義する」なら「死んだらではなく《いま》法蔵菩薩とさとりに向かって生きている」という次元で「仮定定義する」ほうがより良い。
こういう無自性なる「無色無形絶言」の次元を「凡夫の観点から無自性の仏の観点へ変化させる」ことが「さとり」だと「仮定定義」する。。
親鸞は「こういう真実真理」を仏教の大原則から論じています。
以下参照ください‼️
2019-09-04 01:03:00
🔴重要「入門と出門」(Quoraの「仏教徒はあらゆる経典を検討してこれで行こう」と思っているか?への回答より
けっきょく「仏典」にせよ、「キリスト教などのバイブル」にせよ、法律のように、「解釈」により「内容が変わり」ます。
キリスト教の「聖書」も「日本語版」でもいくつかの「翻訳本」があり、微妙に内容が変わっています。
とはいえキリスト教の同じ派なのに「使うバイブル翻訳本」が違うというケースもあります。
それらをすべて「検討」して、「これで行こう」ということは事実上「物理的」に不可能です。
「仏典」も「大正新修大蔵経」という「経典集」でも、88巻で2920の経本があり(国訳大蔵経31巻)、「国訳一切経(合計全255巻257冊)」などもあり、
これらをすべて検討して「これで行こう」も事実上不可能でしょう。
親鸞の時代に親鸞が「教行証文類」を書くにあたっても、これらすべてを読んで書いた。ともいえませんし、その他の「祖師」も「同様」だといえます。
また、親鸞が「教行証文類」を筆で丁寧に書いているということも「よほどヒマ」でなければ難しかったのではないか。。ともいえます。
そういう点で「歴史的に有名な高僧」でも「活動や行」において有名という「僧侶」は「著作」が少なく、「論において有名」な「僧侶」は「著述」が多く残っています。
そういう点で「法然」という僧侶は「著述」は少ないけれど、その弟子である「親鸞」は「著述」が多いのでしょう。。
同じ平安仏教でも「空海」は「活動家」、「最澄」は「論理家」だったと言えると思います。
では、現代においてはどうなのか?
といっても「条件は同じ」ですから、「すべての経典を検討している間に死ぬことになる」でしょう。。
そういう意味では「キリスト教などのバイブル」より以上に「数が多い」という事実があります。
これは、そもそも「仏教」の「性格」が「対機説法」によるから、「同じことがら」をさまざまな「相手に応じて」違う表現で「説かれている」ということが大きな要因だと思われます。
だから「どれを選ぶか」は「主体的な選び」以上に「縁による」と考えることが「仏教的」です。
「日蓮宗のいいお坊さん」と出会ったから「日蓮宗に入った」というような「魅力的な縁」によることが多いと思います。(私もこの僧侶に出会っていたら日蓮宗に入っていたかも、というような僧侶が居られて、また、キリスト教の牧師さんにもそういう方が居られて、いずれもともに仲間だと思っています)
とはいえ、どこも同じように「同じ宗教の同じ派」に入っても「その宗派のなかで、またさらに僧侶ごとに解釈が違う」ということも事実ですから、
けっきょく「どの宗派に縁があり、そのなかでどう考えるか」ということでしかありえないのです。
「寺に生まれたからシャーナイ住職になった」という縁の人も、「はじめはシャーナイからから始まっても途中から学びだすひと」や「そのままテキトーに住職を続けている」けど「意外に檀家さんから好かれている」ということもありますし、「マジメに宗派の教えを生きていて」も「檀家さんから嫌われる」ということもあります。
わたしは、「人間が真実や真理を考え検討する入り口が宗教だったり哲学だったり科学などのあらゆる学び」だと考えています。
よく「どこから始まっても結果は同じ」というひとがいますが、こういうひとは「そもそも始めていない」「外から眺めている」というパターンが多く、そういうひとは「結果にたどり着かない」まま「他人ごとや絵空ごと」のままで、「入り口からどういうところにたどり着くのか」わかっていないケースがほとんどのように感じています。
また、「なんらかの宗教」に入っていても「セクト」にとらわれて、「教えの表面ばかりをなぞったまま」になると「結果に至らないまま」になります。
つまり「宗教であれなんであれ」深みを探らず「違い」ばかりを見ていては「本質」という「結論」を知らないまま終わることになるという事実の中で、「ここから行こう」よりも「ここから入って、真実真理を探ろう」という「入門から出門」を求めれば「出口(出門)」から「広くて深い世界に出ていける」ということになります。
ーーー(以下付け足し)
五果門の「薗林遊戯地門」はそういう意味を持つと考えられて、「利他」るための「深さや広さに至る」ということであり、このような「セクトを超えなければ利他」れないといえます。
仏法のスタートから結論までを「近門」→「大会衆門」→「宅門(如来の家)」→「屋門(如来の部屋)」→「薗林遊戯地門(如来の庭から出る)」とされている親鸞の意味はこういうことを意味していると考えられます。
そのための「日常が五念門行」になるということになるのでしょう‼️
化身土文類は、「五果門の薗林遊戯地門に至って」はじめて「真が仮や偽をおさめて、すべてにおける教説や宗教などの学問を束ねた《結論》」を明らかにしていると考える方がベストだといえます‼️

