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2019-09-01 00:24:00

初期仏教では覚りを開いたのはゴーダマ·シッダールダだけですが、後世では何人もの悟った人が登場したのはなぜでしょうか?

このお尋ねにおいて、じつは「仏教界」的に問題点があるのは「さとり」とはどういう状態か?

ということが、「じつは明確に定義されていない」ということです。

「わたしはさとりました」といえば、「だれがその事実をどのような基準で判断するか」という重要ポイントが「明確ではない」のです。

同じ禅宗でも「曹洞の禅」や「臨済の禅」では定義が違います。

「曹洞の禅」は「道元が書いている内容の通り生活し、坐禅しているままが《さとり》である」定義され、

「臨済の禅」は「師匠との問答」において、師匠が「お前はさとった!」と「問答のやりとりの中に伝承されてきたとされる智慧に至った」と認めたら「さとった」と定義され、その問答を「考えるための行が坐禅」ということになります。

この2つにおいては、「曹洞禅」は坐禅が「結論(結果)」で、「臨済禅」は坐禅が「手段」ということになります。

日蓮においては「唱題の一念」において「法華経のさとり」にあるといい、こういう概念は「密教の三密加持」において「大日如来とひとつになる」という概念を受け継いでいます。

また、遡って「天台宗」において「さとりについての解釈は時代とともにバラバラ」になっており、そもそもの「中国天台(日本と内容が異なる)」でいうような「摩訶止観」という「三昧(瞑想)」において、「特殊な心理状態になる」という定義も「日本天台」には「本来的」にはあります。

しかしこの心理状態は、現代的には「トランス」における「幻覚」と解釈でき、こういう心理状態や神秘体験は「催眠テクニック」で簡単に作ることができます。

このように日本仏教においては、「行=さとり」とする宗派と「行はさとるための手段」という教説がありますが、まずはこのポイントをどう理解して定義するかというプロセスが未だ「タブー」のようになっているため、「だれが本当にさとりっているか」ということを定義できないのが事実です。

そして「さとった状態がどういう状態か」というポイントについても同じなのです。

つまり「どういう状態になっていて、だれがそれを判断するのか」という「重要なポイント」が「確定定義されていない」ため、ある種「言ったもん勝ち」的な状態なのです。

そういうポイントでは「作られた覚者」つまり「新宗教づくり」や「既成仏教で信者を増やす」といったことを目的に「演出」された「覚者」という存在もおられます。

また、「わたしはさとっている」と思っていても、それを「心にしまって」静かに生活している方もいます。

そういう状態が仏教界の現状ですが、わたしは「さとり」以前に「存在そのもの」が「不確定」であるという「無常無我、空」原則が「仏教」であり、

「不確定な人間(存在)がさとりを定義できない」「不確定である」と「無常無我、空」を受け入れることが「さとり」であると論じています。

なお「さとり」は様々な漢字で表記され、それぞれ意味が異なるので「ひらがな」で書かせていただきました。

2019-08-31 17:17:00

仏教はインドから中国を通って日本に伝来するまでにどのように変わりましたか?

Quoraへの回答

 

質問者

仏教はインドから中国を通って日本に伝来するまでにどのように変わりましたか?

 

回答

仏教が日本に来るまでに、インドのサンスクリット語という聖なる言葉やパーリ語という言語から、中国で当時の中国語に翻訳されたのは多くの方がご存知のことと思います。

 

そして、中国は国民性なのか、翻訳し終えると元のものを「焼き捨てる」という性格なので、原典にあたるものがそう数多く残ってはいません。

 

ただ、西本願寺が明治末から大正時代に「大谷探検隊」というグループを組織して、中国から「かなりの資料」を持ち帰り、その後「原典研究」がされるようになりました。

 

そもそも、中国で翻訳されるときの翻訳者は「三蔵法師」といわれるような「玄奘三蔵」や「鳩摩羅什」などのジーニアスが翻訳したことになっていますが、

 

かなりの民間人が「言語の仲介」をしたといわれています。

 

また、翻訳作業が「呉」だの「漢」だのという時代の「エンペラー(皇帝)」によって指示されて行われているため、有名な経典はほぼ「エンペラーが納得」するように内容が変更されている可能性があります。

 

また、翻訳後に「焼く」ということから逃れている原典は、複数の翻訳者がいて、浄土教の「三部経」といわれる、「仏説無量寿経」「仏説阿弥陀経」は原典と異訳本(複数の翻訳)があります。

 

とくに「仏説無量寿経」は5つの翻訳本が現存しています。

 

しかし、三部経のひとつである「仏説(観)無量寿経」については、「原典も異訳本」もないので、キレイにいえば「中国撰述」といわれ、平成のはじめぐらいまでは「偽経」といわれていました。

 

そして「仏説無量寿経」は、「浄土宗や浄土真宗で通常使われている康僧鎧(こうそうがい)翻訳本経典」と残り「4つの異訳本」と「サンスクリット原典」を比較すると、かなり違いがあり「中国の儒教思想」などが混ざっていると思われるので、親鸞は「教行証文類(教行信証)」に「康僧鎧の翻訳本」と「異訳本」も引用しています。

 

このような引用は、なるべく内容を正しく理解するためと思われます。

 

しかし、日本であたりまえの「中陰(中有)」という教説は、インドにもあり「チベット仏教」にもあるとはいえ、中国で「十王経」という経典が「偽経」としてあり、日本の中陰思想は、この偽経に寄っていると思われます。

 

つまり「まるまる中国思想」だということです。

 

日本の「お盆」の根拠になっている「盂蘭盆経(うらぼんぎょう)」も中国製だと考えられています。

 

また「原始仏教」にはない「親孝行」を説いているような「仏説父母恩重経」なども「まるまる中国思想」の偽経といえます。

 

このように、「中国での翻訳」がエンペラーに依存し、民間人の協力で行われている以上、「伝言ゲーム」のようにさまざまな点で「原典とは違う内容」になっているようです。

 

また原典と違うという以上に、「まるまる中国思想の経典」だったとしても仏教とされています。

 

そういう点で「日本で仏教」とされていても、「鵜呑みにする」と「純粋仏教ではない」ものを「仏教」に定義することになりますが、「密教」がそもそも「さまざまな思想を取り入れていて」も仏教とされ、「弥勒菩薩」のように、もともと「ゾロアスター教」由来だったりしていても、「仏教」とされているように、「仏教とはなにか」といえば、その根底に「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の「三法印」があるかどうかというところをポイントにするしかないと思われます。

 

このポイントから見れば「空であれ唯識であれ」そこには「三法印」が入っているから「仏教」といえます。

 

ただし「阿弥陀仏」によって「極楽にいき」「永遠のいのちを得る」といった思想は「中国の景教(キリスト教のネストリウス派)」の影響があるともいわれており、「この世俗のわたしが、このわたしのままで極楽にいき、永遠のいのちを得る」というストーリーには「三法印」がないため「世俗の持ち越し」といわれるケースがあります。

 

そういう理由で、浄土教は「このわたしが阿弥陀仏によって、煩悩の滅または煩悩の転換がされて、わたしがなくなり無常無我に至る」という状態を得たときに、その次元が「浄土」になるという解釈が「親鸞」によって記述されています。

 

ですから「親鸞」は「極楽」という文言よりも「浄土」という文言を多用しています。

 

以上「浄土教」をメインに論じましたが、ほかの宗派においても、「三法印基準」で仕分け読みをされれば、「中国などで混在した教説かどうか」の判断はしやすいと考えられます。

閲覧数: 9件 · 高評価した人を見る · シェアを見る · 澤村 明人 (Akito Sawamura)さんがリクエストした回答

2019-08-30 21:15:00

日本の死に対する向き合い方は。。‼️

ふと、喪主いわく。。

あらゆるものが、流転するような世界観もなんとなくわからないでもないし、殊更に死んでしまっている遺体と「お別れを」などと業者さんから強く勧められるのも違和感があったので、瑞穂さんも、最小限の人数でとっとと火葬しちゃったけども、

実は今日、瑞穂さんの遺体に会いにきてくれた〇〇さん母娘が、本当に何度も涙してくれて、やっぱりお別れにきてよかったとおっしゃってくれたのをみながら、遺体でも顔を見に来る機会を皆に作らなかったこと、本当に良かったのかなあとちょっと考えてしまった。        

やっぱり顔を見て死んでいることを確認できるからこそ、これから生きて行く人間がけじめをつけられるのかもしれないなと。

 

ーーー

 

あるひといわく。。

仏教は基本「過去、未来、現在」という時間軸で論じます。

今、という瞬間が流れてもその流れに応じた「瞬間」より短い「刹那」に、

つぎの未来が流れてきて、「現」に「在」します。

 

しかし、計り知れない選択肢の中から、現に在する「現実」は、過去によって現れるので、「執着」が強くなればなるほど、その流れくる未来は「少ない選択肢」から現れるから、「泣く」という「こころの選択肢」には、「死=悲しい」で「終わる」という未来しか現在しないので、「つづきがない」ことに限定されます。

 

だから、「区切り」というのは、「現に在す」を限定してしまうので、「すべてにおいて限定を外す」ことが、「執着しないこと」であり、そうすることで「現実」にいろんな人脈ができたり、「自在」に動けるようになる「智恵」が身について、

「八方塞がり」だとか「挫折」ということがなくなります。

 

そういう意味でも「そういう気持ちがないのに泣く」という「韓国」なんかで「泣き女」という習慣があったように、

日本にも親孝行を説く「儒教的な常識」が日本にもありますが、

仏教には、じつは「親孝行という概念」はありません。

 

気持ちがない「所詮ひとごと」と思うなら、「ウソ」を表現する必要もないし、

気持ちがあっても「執着しない」に徹する!

 

これで「永遠で広い世界(次元)」を生きられるから、「笑って飲みながらオカンの肉体は《量子》に戻った」から「量子」レベルではあるけれど存在するという「イメージ」で、「おーオカンは広大な宇宙レベルになったか‼️」といいつつ語り合う。

 

あるいは「不動心」で「そうなったか」と「納得する」のみ。

お釈迦さんの時代にも「極微(ごくみ)」という「量子」のような概念はあったんです。

 

だから「ありのまま」でしかない。

今回の「葬儀のスタイル」は、ありのままスタイルで「充分」All ok!

だと思っています❣️

兄貴ありがとう。。

 

2019-08-30 15:11:00

三途の川とは何ですか、川にはどんな逸話や物語をかかえていますか? 1 フォロー 回答依頼 コメント 共有 もっと見る あなたが投稿した回答です これはいつでも編集または削除できます。 1件の回答 Na

三途の川は三塗とも書きます。

これは「三大煩悩」といわれる「貪欲、瞋恚、愚痴」つまり「むさぼり、いかり、愚かさ」を指しますが、

これをはさんでこっち(世俗)を「此岸」といい、彼の岸(さとり)を「彼岸」といいます。

この三途つまり「三大煩悩の川」を渡ることを「得度」といいます。この「度」は「渡」と同じ意味で使われる文字ですから、

仏教で「度」という文字が出てきたら「渡る」を意味していると思っていただいたらいいと思います。

よく「僧侶になる儀式」を「得度」といい「渡ることを得た」という意味を持ちますが、実際は渡るより「川」に沈没している僧侶がほとんどでしょう。。

この「激流を渡る行」が仏道ですが、この三途の川には、「六文銭」の渡し料が要るとか、「なんちゃら婆あ」がいるとか色々な「くだらない物語」がありますが、そういう話しは歴史的にいろんなひとがテキトーに作った話が多いので、「本質を学ばれるよう」におススメします。

また、日本で「お彼岸」というのがありますが、これは本来「俗世の日常を見直して、いわばリセットする」という本来的な意味があります。

いずれにせよ、なんとなく「情緒的」な話しのようですが、現代においてはその本質になにが「論」として語られているかという側面をまずは理解することが重要だと思います。

つまり、「情緒的な話し」からは「迷信」が生まれやすくなり、いまでさえ「お棺」に「六文銭」みたいな「紙で作った古銭」を入れたりするケースがありますが、儲けの「アイテム」にはなるけれど、無意味なことです!

こういう「昔話」には、本来的な側面と誤った「お話し」が混在するので、「三途の川」以外のさまざまな「情緒的話し」には落とし穴があるといいますか、「川に沈没するような話し」がありますからご注意くださいませ!

 

三途について、書き漏らしましたが、「三途」は「みち」、「三塗」は「塗られている(すり込まれている)」ということを「文字表現」しています。

 

2019-08-30 15:10:00

Quoraへの回答から(空について)

般若心経などでは、色即是空のあとに、受想行識亦復如是と続きますが、この「色受想行識」を五蘊(ごうん)といって「人間の構成要素」とされています。

けれど、「色」のみが「肉体やすべて」をあらわしていて、残りの4要素は、「心の動き」をあらわしています。

お尋ねの「空」は「無自性」ともいい、「実体がない」という意味です。

釈尊が「無常と無我」を説いて「すべての存在は常に変化してやまない」「だから《わたし》も変化するから実体もないし、実体でもない」ということを説きました。

それをインドのナーガールジュナ(龍樹)というひとが「中観派(ちゅうがんは)」を立てて、「空」という論にまとめたのです。

また、人間は「存在を色で認識している」と論じられていて、「形で存在を認識しているのではない」ともいわれます。

だから、2次元のテレビなども3次元と錯覚して見ているのです。

色のグラデーションで立体に見たり、なんらかの存在物の色と対比して、「色」(カラー)で3次元だと存在認識しているのです。

このように「色即是空」という場合「色(存在、肉体)は空である」と論じているのです。

「空」というのは、「実体がないこと」つまり「固定して変化しないものはない」「すべてが変化する」という流動的な存在のあり方をいいます。

人間は「死ぬ」といいますが、これも「状態の変化」なのです。

「氷が溶けて、水になり、蒸気になる」ことと同じで、火葬されれば「原子または素粒子」に戻ります。

ですから、仏教の智慧では「生も死も同じ」と「生死一如」といいます。

たまたま、両親のDNAから生まれて、細胞分裂して人間になっていますが、生きている状態は「60億の細胞分子のかたまり」で、

死んだら、そのエネルギーの状態が変化するだけですから、「死んでも、これは変化しないわたし」という存在はあり得ません。

また、すべての存在は、なんらかの集合体ですから、「数珠」でもヒモが切れたら「玉」と「ヒモ」になってしまうように、

玉とヒモの集合体が数珠ということです。

ここでもう一つ深めると、人間は存在を「言語」で規定していますから、数珠も切れたら「玉とヒモ」になるわけです。

「宝くじ」も外れたら「ただの紙切れ」になるように、言語が現実を定義しているのです。

こういう状態が存在の本質であり、だから「執着すべき存在はなにもない」と悟れば、自己や所有への執着もなくなるので、

本当の「楽」になれると説いています。

とはいえ、存在に実体がないとはいえ「いちおう存在してるじゃないか」という存在の側面からいうと、「空も亦復空」といい、

存在が空だから「実体がない」存在というけれど、目の前にあると思われる存在も、それもまた空であるといい、

「空は非空であり、非空は非非空であり。。」と延々と続くのです。

1/3=0.333333…のような状態です。

だから延々と続くまでもなく「現実のすべては、執着に値しない仮の存在なんだ」「空なんだ」と見ることができるように、

修行するのが「仏教」です。

いかがでしょうか。。