インフォメーション(日々更新中)

2019-07-03 00:51:00

悟ったらどんな感じになるか⁉️

▲拡張する自我、消滅する自我

PNSEに到達した人の最も共通した体験は、自我の感覚の変化だという。通常の意識の人が感じる「自分」とはまったく「異なる自分」を感じるのだという。「異なる自分」は、どの宗教を信じるか、もしくは信じないかによって異なってくる。例えば仏教を信じる人は「自分」という感覚が「広い空間いっぱいに拡大した」という表現を使うことが多い。一方でキリスト教徒は「神との一体化」「イエスとの一体化」「精霊との一体化」などという表現を使うという。いずれにせよ、「自分」が自分の身体だけに収まっているのではなく、より大きな存在であるとい感覚なんだそうだ。

この自我の認識の変化は70%の人には突然訪れ、30%の人には数日間から数ヶ月間かけて段階的に訪れたという。宗教を持たない人の多くは、この突然の自我の認識の変化に戸惑い、何かの精神病にかかったのではないかと勘違いするらしい。実際に多くの人が精神科医を訪れたが問題解決にはならなかったとしている。

PNSEの段階によって自我の感覚は異なるようで、初期の段階では自我は拡張し、あらゆるものに繋がっている感覚だそうだ。一方でPNSEの最終段階になると、自我という感覚は完全に消滅するという。その途中の段階では、自我は残っており、ときどきその自我に引き戻されるらしい。

50人の被験者のうち、9人がこういった自我の感覚の段階的変化を感じたという。うち7人は時間をかけた変化を感じ、2人はあっと言う間に自我が拡大し消滅していくのを感じたという。

このPNSEの中での段階の変化に伴い、世界観にも変化が生じる。キリスト教徒の場合、PNSEの初期の段階では「神、イエス、精霊」といったものが中心の世界観が正しいという信念が強まるが、最後の段階に近づけば別の信念に移行するのだそうだ。宗教を持たないスピリチュアル系の人たちは、最初の段階では「神」ではなく「すべてとつながったエネルギー」「意識」などという表現をベースにした信念を持つが、段階が進むにつれ別の信念に移行する。

別の信念とは、どういうものなのだろうか。論文では「自分の経験の真実に、より確信を持つようになる」と表現している。どういう意味なのかはよくわからないが、「神」や「仏」「意識」「大いなるもの」などといった外部のものではなく、自分自身がそうしたものと融合してしまい、「神」や「仏」「意識」「おおいなるもの」という認識がなくなる、というような感覚なのかもしれない。

 

▲減少し、消滅する思考

自我の認識の変化に加え、PNSEに入った多くの人が気づくのが、思考の量の変化だ。ほとんどの人が、思考が大幅に減少したと答えている。思考が起こる場合でも、思考は目の前を流れていって、それにとらわれることが少なくなったという。

この場合の「思考」とは、自分自身に関する雑念のことで、通常の人生を送る上で必要な思考による問題解決能力が減少したわけではない。PNSEの被験者と話していても、通常の人と同様に会話が成立するという。事実、PNSEの被験者に聞くと、雑念が減少したことで大事な思考に集中できるので、問題解決能力はかえって増強されたと答えている。

PNSEの最初の段階では、ときどき雑念に引き込まれることがある。もちろん、気づくとまた雑然のない状態にすぐに戻ることができるという。ところがPNSEの段階が進めば、雑念に引き込まれる頻度は徐々に減少し、最終段階に入ると雑念は一切起こらなくなるという。

 

▲減少するネガティブな感情

つづきを見たい方は→https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/

2019-07-02 18:39:00

この本は20代に読んでいました‼️

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福原亮厳という先生ですが、ラストに「生涯の研究で仏教とはいえないものが多かった」という記述があり、

いかに仮偽が多かったか‼️

化身土文類と同じ結論になっています❣️

2019-07-02 02:11:00

トヨタは。。

アメリカで「トヨタ車」が売れて、国産車が売れないクレームに。。

 

トヨタは、アメリカに工場を作り、現地人を雇用して、現地に税金を払う!

 

こうしたら「納得」するけど。。

 

輸出前提で、もし「コストを下げること」ばかりを考えて、「東南アジアなど」の「国外《他社》工場に《値切って》生産依頼する」企業は多い。

「これを自我」といいます‼️

 

輸出したい国に「工場を作って」トヨタのようにする。

これを「利他《的》」といいます!

 

しかし、これを「さとり」の要素である「無我」といえるか?

というと、これこそが「懈慢界(おごり)」「疑城胎宮」といえます。

 

つまり、「名称や主導権や意思決定」を譲らない以上「無我」ではない。

なにもかも「あなたのいうとおり」にならなければ、「自力」の範囲から出られないのです。

これが「南无」や「アーメン」(その通りの意味)です。

 

だから親鸞は、「宇宙的大我」であっても「我を認めない」から、

「真仏土文類」で「涅槃経の涅槃の徳」から「我徳」を抜いているのでしょう❣️

トヨタさんがどうこうではありませんが、「仏教の現実的用法」としての事例です‼️

2019-07-02 02:07:00

数字のマジック‼️

「数字とものの動きは別という話し」(なんで安売りできるのか?)

 

1シート10錠の薬を、1,000円で買いました。

では、1錠いくらでしょうか?

 

10錠1,000円だから

100円ですね!

 

10人が買ってくれたら、「+−ゼロ」です!

 

そこで、売り手はこれを1錠110円で売りました!

これで10錠売れたら、1100円になるから、売り手は1シート100円の利益になります。

 

これが、普通です。

 

(アタマを切り替えてください)

 

しかしA社はメーカーが扇風機1台1,000円で売っているものを10台を1ケースにまとめて10,000円で「仕入れ」ました。

 

A社は、1ケース10台の扇風機を、なんと500円で売りました。

 

これは大変です‼️

仕入れの半額です!

 

しかしA社は、2台で1,000円なので、20人が買えば、

10,000円になるから、

 

20人が買ったことにします。

この時点で売り上げが仕入れと同じになります。

 

けど。。。10台の扇風機を20人が買えるハズはない‼️←ここが重要です。

 

ここの概念は1ケースの中身を何人分配したのか?

「ここで1台の扇風機」という概念でいると、

「10人以上で分配できない」と思い込みます。

しかし帳簿には「1ケース10,000円で仕入れて」20人に分配した(売った)と記入したら、

帳簿が合います!

 

ここに「数字とものの動きは別」という要素があります。

逆転して考えましょう。

 

1ケース10台で10,000円の扇風機を、100人に分配するとします。

1台いくらなら10,000の数字が100人に分配できますか?

 

100円です。

 

では、100円で分配したという帳簿にしたらいいのです。

 

帳簿には、

1ケース10,000円の仕入れに対して、100人が買ったと書けばいいんです‼️

 

世の中には、こういう概念で、借り入れなくてもいい前提で「税務署」に向けるか、借り入れがしやすい前提で「銀行に向けるか」という粉飾があるようです。

 

☆ケースと分配にアタマをしていただくように「クスリのシート」という概念を書きました。

よくある「カーボンの複写紙」のように1枚のようだけど3枚ある。。っていうのと同じ概念です!

 

しかしそもそも1ケース10台を仕入れたのではなく、1台を100円で仕入れたと書いてもいい!

このように「ケース」にすると「中身は不明」にしやすいんです。

 

 

もう一度アタマを戻して、

 

1ケース10台10,000円の扇風機を100円で100人には売れないから、

10人に売った。

ここで売り上げは、1,000円です。(100円×10台)

9,000円の赤字です。

 

では、100を10,000にするには100台いります。

ケースにすると10ケースです。

 

ここでポイントなのは「台、人、ケース」という文言がつくと「ややこしいけど」

単純に数字にするとわかりやすいということです。

 

だから100を10,000にするには100×100=10,000になる。

9,000円の赤字を100でうめる数字は?

90ですから、あと9ケース(90台分仕入れたことにしたら、売れた数字から90×100=9,000円)で合う。

 

しかし1ケースに10,000は自動的についてくる。

9にすると90万になってしまう。

けれど、それを資産にすれば「はじめの1ケースが支払えた」ことになる。

(この辺は図にした方がよくわかります!)

 

「売れる前提」でこれを果てしなく続ければ、2ケース目も、3ケース目も支払えたことになる。

そして売れる前提だから「資産」でいい。

(あくまでも極端な数字ですが!)

 

この「数字とものの動きを《同じ》」にして、「主軸商品」に見せて、

じつは「隠れた仕入れ価格は安く」利益率の高い商品を買わせる。

 

これは、「マ〇ド」なら、「ポテト」です!

 

「マ〇ド」は、ハンバーガーを売ってるのではなく「ポテト」を売っています。

だからセットにするんです‼️(あくまでも事例です)

 

こうすると「帳簿」ではなく、「買い手」が騙されることになります。

(騙し確定ではなく「マジック」といったらそうですが。。)

 

今度は「アタマ」を横にしてみてください。

 

そもそもこういうことを「2進法」で計算すると、1の次は10です。

つまり2が10になるんです。

2人が10人になります。

(3は11、4は100、5は101、6は110です。)

 

言いかえると2人が1ケースではなく、2人で1ケースが10人に分配されます。

10進法なら1ケースを2人が買えば、10台売れたことになります。

 

こういう数字のマジックは、いろんなところで使われているようです!

みなさんカシコイですねww

これを「偽(ニセモノ)」というと「ハンバーガー屋さんに語弊があります」けど、「仏教(親鸞)の仕分けからいうと」こういう定義ができるということです‼️

 

 

 

 

 

 

 

2019-07-01 08:00:00

仏にはなれるけど神にはなれない!へのプロテスト。。

仏にはなれるけど神にはなれない!

これは実は人間にとって、「意思決定権」をどちらが持つのかということになる。

ここで「人間が意思決定権を持つ」とおかしくなる。

 

「仏になれる」は、「意思決定権者」になるということである。

ここで「阿弥陀如来のストーリー」が教えているのは、「利他の意思決定」であり、それ以上でも以下でもない、けれど「勘違いをしてしまう」から、「安心論題」といった「人間が決めた教え」に教えを限定してしまう。(これがあるからお西で「真宗学」を論じにくいうえ、論点がわからなくなる)

 

まるで「昭和の終わり」ぐらいに論じられた「仏教(真宗)カトリシズム」である。

明日「真宗が方便として《おふだ》を売り出して」も言われるがままになってしまう。(いっときのカトリックの免罪符のようなことである)

 

基本的に「欧米で信仰のない人は信用がない」という「人間以上のものを信じないひとは《簡単に意思決定がブレる》から信用できない」ということである。(所属、帰属がわかるから、思想がわかるということもあり)

日本の「パスポート」が通りやすいのは、日本人は「無害無毒」という単純な理由である。

 

神により、「無常な中で自然法爾にある《いのち》」が持つ「理由」。。

これを「祈りの中で」神に問う。(日本でいう祈りとは完全にベースが違う)

 

物理的に見たら、「単なるアタマの整理なの」だろうけれど、

大きな違いはそれを「神に問う」ということである。

 

「生きる意味や理由」というのは、仏教では基本「利他定義」になるのだろうけれど、この文言だけだと、具体性がない。

原始仏教的にいえば、「特に意味はない」無我である。

 

しかし目の前の出来事に「神」がなんらかの「理由」を与えているとしたら、その方が「具体的現実に」理由を定義しやすい。

 

いろんな出来事が、「整然と整理されて、アタマがスッキリする」という「功徳荘厳」である。

 

そのような「神による創造」だという前提で生きると「簡単」に「無我定義を生きられる」のに、仏教の「あいまい」な「無我と利他の定義」では「よくわからない」となるのだろう。

 

裏を返せば、神を受け入れて「仏教を見る」と、なぜか「2つがひとつになる」という、

不思議な状態に至る。

 

まるで「方程式の肝心な部分に《神》をあてはめる」と「解答が導き出される」というようなイメージである。

 

キリスト教の教えが「無常無我定義に自ずと導き」さらに「利他定義」を「現実のひとつひとつについてしてくれる」といえる。

 

ここで、仏教でいう「ブラフマンとアートマンを認めない」というのは、インドの「ブラフマン(神)」についての話しであり、キリスト教の「神」は、まったく定義が違うから、今さら「ブッダに問うこと」もできない。

 

「ブラフマン(基体)からアートマン(個体)が生まれる」という仕組みと、

「唯一の創造神」では全く異なる。

 

よく「神は誰が作ったか?」などの問いがあるが、その解答は「3.14159…」と続く円周率のようなものである。

 

あるいは「量子物理学」の「不確定性原理」のように、神の存在を問うなら、「わたし」についても「存在する」という確定もできない。

 

さらに言えば「なぜブッダが存在意味を持つのか?」という問いにも解答を与えない。

ブッダは「抜苦与楽」だと言いつつも「現実的に仏教の救いは難しい」ということを意味する。

 

では、仏教の「七地沈空の難」のように「わたし」が「無我、空」ならば、「そもそも生きる意味も理由もない」から「どうなろうが構わない」と言って「ニヒリズム」に陥る可能性は限りなく大きいといえる。

 

神が創造したのは「無常無我なハズの人間」であり、「なぜわたしがあるか必ず理由があると《神》に問う」ことで「それを発見」可能になる。

 

しかし「アダムとイブ」のように「神が禁じた《善悪を知る実》よくいうリンゴを食べた」ことにより、「虚妄分別」(無明)が生まれて、「生死をさまよう者」になった。

だから「生死出るべき道」が必要になる。

 

神が「わたしという生命体」に「機が熟した」と言って与えてくれたと言ってもいいであろう、

今回の不思議といえる経験と論である。

 

まさに「化身土文類」を書きかけたタイミングで、「景教」をなぜ親鸞は「論じていないのか」という課題に取り組みかけた段階での「出来事とアタマに浮かんできた、方程式の解答のポイント」である。

 

これが「世界スタンダード」にある《神》を「蒜山高原」と「親鸞と景教(真宗)」のテーマを通して、わたしという生命体(A)が生きてきた「理由」であり「真実」であると言ってもいいのかもしれない。。

https://r.goope.jp/sainenji/info/2019-06/page/3

 

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