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2019-07-06 20:18:00
なるほど。。
情報は物質ではない。ゆえに物質の性質を持たない
しかし、科学法則は、「非物質な存在である情報を物質が生み出すことは不可能である」と言います。また「情報は知性と意思を持つ発信者によってのみ生み出されるものである」とも言います。ですから、進化論が可能であると考えることは、永久運動機関が可能であると考えることに等しいのです。これが、ダーウィンの進化論のアキレス腱なのです。この時点で、進化論とは、科学法則を否定しない限り成り立たない説であることが明らかになります。これらのことは、私の著書『初めに情報ありき 情報―自然と科学を理解する鍵』にて詳しく説明しています。
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情報(言語、言説)がなければ、「存在は確定できない」ことは「仏教も同じ」ですから「無色無形絶言」という「さとり」が成立するのでしょう‼️
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生命はどこから来たのだろうか?
今日、進化論を推進する学者で、生命がどこから来たかという質問に適切に答えれる人は一人もいません。生命を持たない物質がどのようにして生命を持つようになったかについて、進化論者は答えを持っていません。
生化学者スタンレー・ミラー(1930~2007)が、1953年に行った「原始スープ」の実験は、あらゆる生物学の教科書に登場しています。しかし彼自身は、進化論に基づいた生命の起源に関するいずれの仮説も科学の検証に耐えられるものではないことを、その実験から40年後に認めています。そして、これまでの進化論に基づいた試みを「無意味」な「紙面上の科学」だと表現しています。
一方、微生物学者のルイ・パスツール(1822~1895)は微生物レベルで科学的な検証を行い、「生命は生命からしか生まれない」という今日でいう生命遺伝学の基本法則を確立しました。
イエス・キリストは、「わたしがいのちなのです」(ヨハネ14:6)とご自身を指して言われました。また「万物は御子(イエス)にあって造られた・・・天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、・・すべて御子(イエス)によって造られたのです。」(コロサイ1:16)「すべてのものは、この方(イエス)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つのない」(ヨハネ1:3)とあります。
聖書は、イエス・キリストがこの宇宙、そして生命の源であると証言しています。生命の起源に関して、イエス・キリストが創造者であるということを無視した仮説を立てるなら、それは最初から真理へと辿り着く可能性を放棄していることになります。
進化論は、世界の歴史上もっとも偉大な過ちといってもよいでしょう。進化論は、何億人もの人々を創造主を否む不信仰へ追いやりました。不幸なことに、今日多くの人々はそのような不信仰が、死後、永遠の滅び(地獄)というどん底に至る、ということを知らされないでいます。真の悲劇は、今日の世界が万物の創造者であるイエス・キリストに感謝と敬意を捧げることを忘れていることにあります。ジャーナリストは「ダーウィンありがとう!」と言う代わりに「イエス・キリストありがとう!」と伝えるべきなのです。
また多くの人は、イエス・キリストが私たちに偉大な贈り物を用意しておられることを知らずにいます。イエス・キリストは、「わたしは門である」(ヨハネ10:9)と言われました。それは、天国への門という意味です。(五念門もさとりへの入り口ですね)
2019-07-06 19:22:00
神がサタンを放置。。
サタンを放置する理由。。
これは「機の深信」と同じで、「自我により意思決定」していては「煩悩」に支配されます。
しかし「その煩悩」が、「転じた」ら、「菩提になる」というのと同じ構造です❣️
2019-07-06 05:12:00
柔軟心に排除があるか?
一切衆生が「柔軟心」で受け入れられるという「真実則」でいえば、
法蔵菩薩道を「五念門行」で生きる場合「利他を行じていて、こいつは救わない」という判断をするべきではないでしょう‼️
その人がなにを「信じていようが構いません」という関わりがなければ「一切衆生」は救えません。
そして「真の仏弟子」が「柔軟心を得る」のに、「救う対象」を選べません。
マザーテレサのように「その人が信じていること」を大事にする!
だから「無碍光如来の法」が「キリスト教」になって、世界を救っている!
そこの文言や内容が微妙に違っていても、結論「無我に定義できるから」そこにあるのは、「神」という「無為法」だといえる。
そもそもが「無色無形絶言」の自然なのだから「そこから如来する、文言の違いは問題にならない」といえます‼️
けっきょく「このポイントで行けば、化身土文類のすべては、「真」に導くためと、「マジマジニセモノ」を仕分ける意味もあるでしょう。。
「仕分け」といっても「排除」ではありません。←ここ重要!
何にせよ「自然(無我)」であることだといえます❣️
たとえ「キリスト教は戦争をしてる」といっても、真宗も浄土宗も「国内ではかなりな戦争」をしてきています!
和歌山あたりに行くと「石山合戦時代の門主からの檄文(読、げきぶん。意、行動への決起を促す文書)」が残っています。
こういう「教団」を守るのか、「信仰」を守るのか、戦争をしなければならないというのは、「信仰」を悪用するリーダーがいるからで、
どの「すぐれた信仰(しっかりとした教義を持つもの)も、《その教えのすべてはすべてのためにある》」のですから‼️
何にせよ「判断は自己ではない」ことが大前提でしょう。
「無我無心」に「自己を超えるものと日常的にする、憶念や祈りの中」で「自然に判断は出る」でしょう。
「いまなにをなすべきか」ということが。。❣️
仏教も「偶像崇拝」ではないのですから、日常的にどこでも「憶念」はできます。
現代ですから「広いコミュニティのなか」で「電車の中などの公共の場」で声に念仏を出す必要もなく、「ムリクリ聞かせる」のでもなく、「自己を超えるもの」に「憶念という仕方で、判断を聞くクセ」をつけることでしょう‼️
2019-07-03 23:21:00
免許を持っていますか⁉️
クルマの免許とパスポートと健康保険証のうち「本当の意味」で「身分証明書」にならないのは?
なぜ「健康保険証」には写真がないか?
「免許」は「そうしてもいい」「禁止を解く」つまり「解除」
「パスポート」は「外国に行ってもいい」「解除」
「健康保険証」がなくても「医療は受けられる」。。。
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「医師免許」と「整体の資格」
「資格」は「免許」ではない。
「医師免許」がないと医療行為はできない。
けど、
「華道の免許」がなくても「華を教えられる」のに。。。
古くからある「師範」などで「免許」と使うけど、「本来は資格」‼️
国家であれ、民間であれ「誰かが認めれば、解除の概念がはたらいて」《資格》になる。
これは、認めた「誰か」を「社会が認めるかどうか」にかかっている。
資格は、その人が持っているスキルや知識や能力などを判定する基準のこと。。
「ただ能力の問題」である。
「弁護士」なども、じつは「免許」である。
「免許」は「国家ないしは自治体」が認めなければ「解除されない」ものである。
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では「観経の三福九品」は、「さとりに至る《資格》があるか?」ということと言えるかもしれない。
この「能力判定の分類」が「三福九品」なのかもしれない!
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さて、さらにここで、免許は「許す」という意味で「認許」である‼️
じゃあ「赦す」のは、「赦免」というけれど、「免許を赦す?」のか。。
「赦して免じる」と読む方が適切な読み方である。
「念仏弾圧」で「罪人になった親鸞」は「赦免」された。
これは「罪を解除する」という意味である。
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「赦す」は「特に《罪》について《解除する》こと」であるから、「許すと赦す」は意味が違う。
「罪があるかないか」である。。
ここで、仏教で「ナマス」という「サンスクリット語」があるけれど、これを「認許(にんこ)」ともいう。(namas の元になる「namo」は「南無(ナム)」や「那謨(ナモ)」、「namaḥ」は「曩莫(ナウマク)」や「南麼(ナウマク)」等と音写される)
「南无阿弥陀仏」は「阿弥陀仏が認許している」という概念である‼️
ここには「罪」がない。。
キリスト教は「原罪」を「神」が「赦す」から、意味が違うように見える。
けれど、「罪の意識」は「キリスト教だけ」なのか。。。
「八十億劫の罪」が「消える」という概念は、
「阿弥陀如来が《許して》いて救われるからなのか?」
「阿弥陀如来が《赦して》いて救われるからなのか?」
「真実則」からいえば「無我」になれば、「すべてが消える」。。「前者」である、
「方便則」でいう「罪が如来に許される」という概念ならば、「赦される」と「後者」で記述すべきである。
キリスト教は、「原罪」という明確な二元のストーリーがあるから、「赦す」でよい。
仏教(真宗)は「阿弥陀如来が受け入れて認許する」ことで「罪が解除される」というストーリーだとすると「阿弥陀如来が罪を滅してくださる」ということで、「無為法が有為法を消滅させる」という意味になるけれど、
ここに「信楽」が入ると「阿弥陀如来が認許している真実心を疑いなく受け入れる」という方向になる。
これは「有為法の人間が、無為法の《み名》を受け入れて、《自我名字を捨てる》こと」
つまり「屈服礼拝」から「讃嘆」へと向かう。。
キリスト教では「神がイエスとして人間界に現れて」十字架を背負い、人間の罪を贖った(買い戻した)という時点で、「人間の原罪は《赦されて解除》されていて、それを神の愛という」のだから、
「人間の罪は消えている」ハズである。
そしてこれは「神に屈して、神の《み名》を讃美すること」へと向かう。。
いずれにおいても「如来の真実の願いを知ることと、神の愛を知ること」が前提である。。
「許されて赦す」というじつは同じ意味かもしれない‼️
わたしたちのDNAには「多くの罪」が眠っているといえる。
けれど、「どうしようもない背景、理由がそれぞれ罪の背景にはある」から、「赦されて、許されても当然といえる」かもしれない‼️
いずれにせよ「わたしたち以上のなにか」は、「わたしたちを赦し許している」のである。
- 自燈明 [じとうみょう]

