インフォメーション(日々更新中)

2020-07-10 04:31:00

ほんとうのお金もちを見抜くには、どうしたらいいですか?という問いに。。

日本で「ほんとうのお金持ち」はほんのごく少数ですし、そういうひとは「お金もち」とすら思っていません。

思考の次元が違うんです。

よしんばお金があっても「口にしません」から、都市銀行が把握しているだけではなく、海外口座にもあるひとです。

そういう意味では、ほんとうのお金もちというのは「なにが起こってもお金に困らないひと」のことを言います。

貨幣価値が変わろうと、大災害で大きな犠牲が出ようと、究極戦争になっても困らないひとです。

ですから、お金もちだと口にするひとは「ホンモノを知らない」と思ってしまいます。

小金持ちレベルです。なにかあったら失うような次元です。

そもそもお金を持つ以上に重要なことは「あなたを助けてくれるひと」がどれだけ居るかということです。

お金もちはどこにいるかわからない。

小金持ちは助けてなんかくれない。

という意味では、詐欺師のようなひと以外の人間関係を大事にすることや「まずはなんでもいいので助けてあげること」です。

また、ひとを見る基準を「お金の有無」ではなく、「ひとを大事にするひとかどうか」ということです。

そのひとが「ど貧乏に見えていても、見えていることが事実ではない」からです。

人間世界を生きるうえで、この重要ポイントをミスることで、不安や悩みが増えることになります。

2020-07-10 04:12:00

煩悩はなくせる❣️

煩悩は、「自己や周囲を煩わせ悩ます心の動き」を指します。

そして「煩悩」について「むさぼり、怒り、愚かさ」の3つが3大煩悩と代表されるのか。

これらの背景には「人間種」という生命が「精神的成長を遂げていない」ため、

「本能や情動」に支配されているということがあります。

「なければ不安」「あってもなお欲しい」ということから「むさぼり」を生み。

「自己をないがしろにされた、傷ついた、取り越し不安」から「怒り」を生み。

「勝つために、儲けるために、待遇が悪い」というようなことから「愚かさ」を生む。

といえます。

これらは、およそ「自己防衛機制」といえますが、人間は他の動物と違って、

「種」としての生き残りを「頭脳に託しているため」に、煩悩という「未成熟な防衛機制」を生むのでしょう。

自己防衛について、思想や哲学や宗教などを通して成熟させることができると、煩悩は必要なくなると思っています。

実際、仏道を歩むと煩悩という「防衛機制」は必要がないという「智慧」を得ることができるので、

これらについて「意味がない」と思えるようになります。

そういうひとが増えることを願っています。

2020-07-10 03:54:00

めんどくさいかも(再び)❣️

「至心信楽の一心」を「プラサーダ」で「浄心」定義するなら、

「信楽の一心は浄心」になるというところからも、「往生は現生定義」でなければ、成り立ちません‼️

 

ーーーーー

 

すべては「情報の発信者と受信者」が「言語または画像で定義した世界」を生きていますから、

《人為》が入るのです。

しかも「情報の発信者と受信者」が「言語を同じ定義で生きているとは言えない」という《大問題》があります。

 

人間が「現在までのコンピューター」とは違い、「知、情、意」で思考している以上、

「まったく同じ」にはならないため、基本的には「アインシュタイン」を待つまでもなく、

「すべてが《同じ次元を生きている》とは言えない」のです。

 

だから、同じ宗教の「布教者」によって「聞き手」が同じ次元の内容を喜び、かつ同じ宗教の「別の布教者」が「同じ文言で、違う次元の話をする」と「わからない」ということになります。

 

外国語を「翻訳」するときに、ある翻訳者が「日ごとの《糧》」という翻訳をしたケースにおいて、

この外国語を「別の翻訳者」が「食べもの」と翻訳した時に「先の翻訳者」が《いのちを生かすことがら全てを指して翻訳した》としても、

文言通りに「食物」と「理解するもの」がいれば、

前者の「翻訳」の「糧(かて)」という意味が、事実上「狭く(せまく)」なってしまいます。

 

つまり「糧」を、後者の「翻訳」では、「食物限定」に狭められたことになり「次元」に変化が起こります。

 

そこで布教者Aが「食べもの」と書いているけれど、「じつは深い意味があって云々」とわざわざ説明しなければならないことになります。

 

しかし、布教者Bが「毎日食べものが与えられているのは神(または仏)のおかげです」といってしまうと、布教者Aと「次元が変化」します。

 

つまり「信心」は、「サンスクリット語ではプラサーダといって「浄心」をあらわします」

と、「学者らしくいってみても」「サンスクリット語」で「プラサーダ」と記述されている「意味不明な文言」が、「浄心」と翻訳された時点で、「なんとなく理解できる言語になり」ます。

しかしここに先ほどの《大問題》が生まれます。

それは、この「浄心」を説明する布教者によって「定義がほんの少しでもズレ」ると、《全く次元が変化》するということです。

 

現代の「中国語の共通語」で、日本語の「声」を中国語に翻訳すると、「声音」になり、「音」を翻訳しても「声音」(Shēngyīn)になります。

このケースでいえば、「前後の文脈やシーン」によって解釈が変わります。

 

このように、わたしたち人間は、日常的に「同じ言語で、違う次元を生きている」ので、

なにが「真実か」というテーマは、じつは人ごとに違うのです。

 

なにが「真実か?」というテーマは「多数派や論理的か、または権威」といった基準で「判断」されていますが、

これにしても「操作された多数派」ということもあり得ます。

 

「ダーウィン」を「多数派」として、「論理的」と考えている「ヒト」が多いと思われる日本においては、「あたりまえのように《進化論》を信じる」という状態になっています。

2020-07-10 00:34:00

滅することを求める思想❣️

じつに「現代」に至るまでにも、多くの思想があるもんだなぁと思っています。

 

しかし結局のところ「お金」や「なんらかのこと」が思うように動かせるための思想が多いなぁということも同時に思うことです。

 

また「宇宙や人間がどうなっているか」といったものも多いように思います。

わたしもいくつかの思想に興味をもっています。

 

思想には「自己を安定させる」といった瞑想などもあるのですが、

 

結局「生活の問題」に戻ってしまうようです。

 

「自己啓発セミナー」なんかでも、その時はそのつもりになるけれど、

 

しばらくすると元に戻ってしまう。。

 

いわゆる「退転」するものが多いと思うのです。

 

また「おもてなし」や「モラル」というような思想においても、

 

日本基準の「思想由来」であり、相手がそれをどう受け取るかという問題ではなさそうです。

 

「名刺の渡し方」や「席順」などの決めごとにも同様の思想があると思いますが、

 

半ばその「セミナービジネス」の商品になってしまっているようです。

 

つまり「すべてに思想はある」はずなのに、その重要な部分が欠落して、

 

なんらかの利益になるという「不純なもの」だったり「形式だけのもの」になっているのが残念です。

 

現代では「思想」ということが特別なものになっていて、

 

日常のあたりまえのように思うことの由来に「思想」があることに目を向けていないことがほとんどなのでしょう。

 

そして「思想」を「煩悩的な内容を増長させるもの」として依存しようとする。

 

「思想の本質」を歪めているものも多いと思うのです。

 

またその思想を「ビジネス」にしていることが残念でもあります。

 

キモノだとかなんだとか「わかりやすい日本文化」は「ビジネス」においても「思想」を語りますが、、

これは「思想ビジネス」ではなく、「ビジネスにおける思想」を語るものです。

 

もし誰かが「お金儲けという思想」に生きるから「ひとをだまそうが、ひとを陥れようが、借金地獄に追い込もうが」なんでもやったらいいと思っているなら、それはミスだといえるでしょう。

 

また、そういう思想になれる人は「もはや人間」といっていいかどうか。。

 

人間種は、単独では存在し難いので「愛、慈悲心」があるようです。

 

以前触れましたが「赤ちゃんが泣く」のは「ひとを呼ぶこと」であり、

「赤ちゃんが笑う」のは、「ひとに愛されるため」であるように、、

 

人間種が「ひとり」で存在可能なら、「お金」すら必要ありませんから、、

「お金儲け主義者」こそ、「ひとを大事にしなければ」お金を運んでくるひとが周囲から「減っていく」ことでしょう。

 

あなたがもし、「自分の都合の良い状態を求める思想」を選ぶなら、同時に「ひとを大事にする思想」を持たなければ成り立たないと思うのです。

 

これが「仏教」でいう「他の利益が自己の利益」という「自利利他」の思想であり、これは外せないと思います。

 

親鸞さんは、究極のあり方は「他利利他」であり「自」が存在しない状態を究極として求められたようです。

 

これが「もっとも究極の楽」ということでしょう。

 

「自」が存在しない状態、つまり「自己を滅する」ということは、「自己は宇宙的自然のなかで〈そのいのちをわたしという認識〉をする人間種として生まれ」かつ、、

 

自己は自己のチカラ以上の「他力」によって生かされていることを「認識のメイン」に据えて生きることで、、

「宇宙の中で自己ならぬ自己」の「いのちがどういう思想で生きるべきか」という重要なことを教えられるのだと誘引されます。

 

そして「その与えられた思想」によって、「いのちが真の楽のなかで輝く」のでしょう。

 

そういう意味で、「他力によること」と「自然に与えられる場を生きるうえでの思想」は、

 

さらにあなたやわたしを「良きこと」へと導いてくれることでしょう。

2020-07-09 03:59:00

捨てないでください❣️

真宗では「真実の教え」と「仮偽の教え」を仕分けて「真を立てて、仮と偽を廃する」という前提があるように教えられます。

 

でもそれだと「摂取」の観点ではみられなくなりますよね。。

 

「どうすれば苦を抜くか」という仏教が「なにが正しいか」っていう教えになってしまって、真宗において「正解」という以外には認められないということになるので、本末転倒してしまうと思うんです。

 

だから「仮と偽」は「苦を抜くにおいて効率が悪いよ」「悪徳僧侶や占い師に注意」と教えているように、親鸞の著書を読んでいて思います。

 

だから「悲嘆」であって「非難や批判」ではないんでしょう。

単に「苦を抜く近道(捷径)」を教えているんだと思います。

 

だから真宗は浄土宗と違って「廃立(はいりゅう)」はなくて「摂取のみ」といえるように思います‼️