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2021-09-20 05:25:00
束縛‼️
【束縛】
人は何かの教育によって、また世間の常識等の中で、こうでなければならないと言う無意識の束縛にとらわれているように思います。
人は、それぞれの個性やそれぞれの考え方と言うものがあるのですから、それが非常識に見えても、あるいは親や周囲が否定することであっても、それが反社会的でない限り、認められると言う時代に民主主義は進歩しているように思います。
少し前までは堂々としていられなかったLGBTQという在り方や人格であっても、その存在を認められるようになってきています。
そういう点において、私たちの生き方、考え方、そういった事柄について、何らかの概念に束縛される必要はないと思われます。
どうして、何らかの考え方に縛られていくのか、それが生活の糧になっていて、その考え方を失うことによって、生活の糧を失ってしまうように錯覚をしているんではないでしょうか。
こういう風に進化している社会背景にあって、自給自足を、事実やっている人もいるのですから、そういう束縛の中で自らを苦しめていくよりも、大空と大地のもとで自由に生きていくことを選ぶ方が、なんらかの束縛と言う大きなストレスの中で生きていくよりも意義のあることだと思っています。
例えば、お米ができた、お野菜ができた、と言うような純粋な喜びを生きていくことの方が、給料がもらえるのかもらえないのか、お金のためにストレスの中で人生を壊していくことよりも、人間として生まれた喜びを大いに得ることができると思っています。
私は、自己満足のようにこのような文章を書いているわけではなく、またこのような文章を書くことで収入になるわけでもなく、ただ自然な流れの中で私はこういった文章を書いています。
だからといって、本を出したいわけでもなく、コラムニストだとか、なんとかライターとかそんなものになりたいわけでもありません。
あえて読んでいる方のためにといった大義名分もなく、ただただ体が動いて自然にこういったことを書いています。
そこには何の束縛もありませんし、何の義務感もありません。
収入だって、コロナの問題の有無にかかわらず、気にした事はほぼと言っていいほど全くありません。
布教をしていた時も、お礼があまりにも多いなと思う事はよくありましたが、少ないと思った事はありません。
それは葬儀であれ、法事であれ、お布施としてしていただいているものに関して多い少ないを思うことの方が不自然だと当初から思っていたからです。
最澄と言う方が、道心のあるところに衣食あり、と言われていたようですが、事実、お金に困るなぁと言う経験がほぼありません。
あったらあったで、育ちそうな人に投資をして育てていったり、なかったらなかったでない中で生活をすれば良いだけであると言う生き方をしていれば、何に束縛をされることもありませんし、媚びへつらう必要もありません。
人生には、辛い時もありますが、それはプロセスであって、今後の生きる糧になると思って取り組んでいけば、辛いと言う思いよりも、楽しいと言う思いに転じていくことができます。
私もいくつかの病気(持病)と言われている症状を持っていますが、基本的に自然治癒力を持っているわけですから、それは何らかのサインであると思いながら自ら自然治癒力が出る状態に持っていけばいいだけのことです。
死ぬと言うことも、違う世界へ移りゆくんだなぁと思っていれば、それが極楽浄土であれ、天国であれ、自分が想い描く世界であれ、永遠性を感じながら生きていくことができるし、そこでまた違う体験ができるかもしれないと思うことによって、楽しみでもあり、死が訪れた時、それを受け入れることがそれほど苦になるとも思えません。
こういった風に、一つ一つの束縛を解いていくことによって、人生って結構面白いなぁって思っていけるようになります。
皆さんも、せっかくの命ですから、楽しい事を想い描きながら、束縛の糸やヒモを少しずつでもいいので解いていかれることをお勧めいたします。
2021-09-20 00:40:00
未完に居直る‼️
因果を分析した、倶舎論によれば「無為法」は因になりません。
よく「なぜ死ぬか?」それは生まれたからだ、という誤った法話を耳にします。
これは、無常であるから死ぬと言っているようなもので、無常が因で私という果を招くと言う事は論が通りません。
それは無為法である無常と言う理は、生死関係なく存在している理法からです。
因果論によっても、私の力に仏の増上「縁」が加わって、増上果を得ると言う因果でなければ、理法に叶わないことになってしまいます。
ですから、阿弥陀仏が無為法であるとするならば、阿弥陀仏から賜った信心が因になるとは言えないのです。
教行証文類の行文類に「信力増上縁」について述べられています。
私の自力では、悟りに至らないからといって、現世において何もしないと言うことにはなりません。
そういう観点からも親鸞と言う人は、その生涯を法蔵菩薩道として歩まれていると理解できます。
ただ、現世に置いて法蔵菩薩道を歩むことが難しい人に対し、本願成就文と言う根拠に置いて、念仏に身を投じる事で悟りと言う果を得ると言うストーリーが信文類に別立てしてあるのでしょう。
当時であれば、学問も経験がなく、論理を立てると言うこともできず、論じを理解すると言うこともできない人たちのために、この信文類があると考えなければならないでしょう。
当時と違い、現代の私たちは、論立てを理解することができる時機に生まれているのですから、行文類を無視して、何もしなくて良いと言う「信文類のストーリー」をそのまま持ち込むと言う事は全くナンセンスであると言わざるを得ません。
なぜ親鸞と言う人が、法然と言う人を超えて、観経ではなく大経を中心にされたのかと言う理由がそこにあると思わざるを得ないものなのです。
この世で何もしなかった人が、死んだら突然スーパーマンみたいには変われないでしょうから。
2021-09-19 23:35:00
未完の完‼️
【死後の概念と菩薩道】
現在真宗お西の方は、現世で私は修行ができないから、阿弥陀様の力によって、極楽浄土に生まれて成仏するんだっていいますが、死後の世界の極楽浄土を望むだけで、現世においては何も特別なことをしないとするならば、それを仏教と言えるのでしょうか。
いくら、たいした菩薩道を歩むことができないとしても、その菩薩道が未完成のまま私の命が終わったとしても、その菩薩道を生きている私の姿は、子や孫や周囲の方々に何らかの影響与えていくのではないでしょうか。
少し専門的になりますが、だから無量寿経と言うお経の中の法蔵菩薩さんは、「生きとし生けるもの全てが救われなければ、私は成仏したとは言えない」と言う願いを立てておられるのでしょう。
それはつまり、現世で完成しなくても、必ず生きとし生けるものが向かうべきベクトルを明らかにしてくれているものだと思います。
だから、現世で私は修行はできないから、何もしなくていいんだといった誤った解釈が死後の世界やこの世における生き方を変えるような教えになっていないと考えます。
お西のお坊さんが、現世では何もできないから何もしなくていいんだと言うような姿勢を見せているために、浄土真宗は、どんどんと廃れていっているように思わざるをえません。
死後に浄土で成仏すると言っていい、現世で何もしないのではなく、あくまでも法蔵菩薩道を歩むと言う姿勢が必要なのではないでしょうか。
それは、現世において「未完の完」と言えるかもしれませんが、全く世俗と同じであるならば、そもそもの無量寿経の教えの存在意味がありません。
未完の完であるからこそ、次世代へと受け継いでいかれる素晴らしい菩薩道と言う教えを残していけることになるのではないかと思います。
そうであってこそ、子々孫々が、わけのわからない自己満足でしかない夢ではなく、世の中に貢献していけるような大きな夢を描いて生きていくことができるようになるでしょう。
2021-09-19 22:18:00
死後の世界と言う概念‼️
【死後の世界の概念が与える意味】
これは私が坊さんだから言うことではありません。死後の概念と言うものを持つことを忘れてしまうことによって、命の尊さや生きる意味をあえて頭と言う頭を犯してしまっています。
つまり成功や夢の達成と言うものを追いかけながら、それを生きている数十年の間に成し遂げようと追いまくられ、ストレスにまみれ、人との関係性を利害関係だけで作り上げ、どんどんと精神的に粗雑になってきているように思います。
そもそも成功や夢の達成と言うものは、この世で成し遂げられるようなものは大したではありません。キリスト教などにあるように、天国の実現であるとか、そういったことを何千年と言う計画を持ってやっていくのですから、それは壮大なものであると言えますが、今の数十年だけで達成できるような夢は子孫にも受け継がれる事はなく、結果的に実現しないものか、実現したとしても、その状態を維持することにまた追いまくられることになります。
「私はここまでで死んでしまうけれど子や孫に受け継いでくれよ」と言えるような人間世界が本当に良くなるような夢や成功を描くことができなくなります。
そういう夢や成功のイメージと言うのは、子供や孫に良い人生を歩ませるようなイメージを描かざるを得ないといえますから、子供や孫への大いなるプレゼントになるとも言えましょう。
そういう意味においても、宗教を持つか持たないかにかかわらず、死後の概念と言うものが、現在の命のあり方を決定していくと思われます。