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2022-08-15 06:54:00
あなたは存在するか‼️[けっこう読んで欲しいかも(笑)]
【存在って】
「神は存在するか?」「仏は存在するか?」「不思議なパワーはあるか?」「霊は存在するか?」「存在は未来の量子コンピュータによる仮想現実か?」「すべて量子による原子などの集合体か?」など…
人間は、自分たちが生きている場のあり方を論じたがるものなのです。
けどそれって、どう考えるかは人間の数だけあると言えるでしょう。
「キリスト教だから神」「仏教は仏」「物理で言えば量子」という「文言」は違うけれど、言ってることは自己の認識の範囲を超えることはありません。
「キリスト教信者が、みな同じ神概念か?」というと必ずしもそうとは言えないというのは、どの領域でも同じことです。
量子論のような数学的に整然としているように思える内容でさえ、「二重スリットの実験」という概念をもとにした内容が多く、この実験の内容がそれぞれに正しく認識されて、正しく存在論に応用されているかどうかと言えば、そうとも言えません。
もし色々と論じている人が認知症になれば、その人において、それまでの論は吹っ飛んでいくでしょう。
いわばそれほど「人間の論」は曖昧なのです。
だからというか、最終的に人間は相対的な存在で、その思考も相対的であり、時代や教育や環境で変わる相対的なものでしかないのです。
しかしだからといって、人間は空虚だというつもりもありません。
なぜなら「存在を論じるような生命体としてある」ことはなににも変え難いほどの奇跡的存在であり、なにをもってしても、なぜ人間がいるか(在るか)ということは、説明がつかないからなのです。
「宇宙人がいようとも」考え方は同じです。
なぜそんな存在が在るかということに説明はつかないのです。
「ただ在る」のです。
とするとその「ただ在る存在は無意味」とも言い切れないし、存在理由の確定もできません。
その「命」と言われる人間やその他の命も含めた時に、なぜそれらがただ在るのでしょうか?
ある友人が「パンダのデザインは完全な自然的進化的説明では納得できないぐらい不思議な面白さがある」といいますが、私も納得です。
その友人が「これは神が作ったとしか言えない」といいますが、まことにその通りだと考えるのが最も合理的で科学的だと言えるのではないかと思うのです。
なんだかわからないけど「在る」こういった「命」という存在は、「神のみぞ知る」という人間レベルでは思考停止する方が「神の愛を生きよう」という思考になって、互いに幸せを構築する生き物になっていくでしょう。
そういう点で、宗教(特にキリスト教)が戦争をしてきた歴史は、宗教を利用してきた「宗教を本当は信じていない者たち」が起こしているのです。
まさにバチカンがそうであったことは2019年に暴露されています。
また、昨今のキリスト教系の新宗教の問題も、教祖がキリスト教を利用したにすぎません。
そういった「信じていない者たち」によるキリスト教ではなく、「ルター」に代表されるような純粋にキリスト教を生きようとしている人たちには、「あらゆる存在論がその信仰の邪魔」をして、かえって、資本主義や「量子カルチャー」に埋没させられたりしているのです。
アインシュタインもシュレディンガーもホーキングも神ではありません。
彼らが「神はいる、いない」といっていようと全く関係のない個人的見解に過ぎません。
また、同じルターのキリスト教を信仰していても、その「神概念」は、大小あってもみんな違うでしょう。
しかしより正確に互いが理解し合うためにこそ「バイブル」が在るのです。
残念ながら「仏典」には統一がないんです。
正直「仏」の概念は、「死者」から「仏陀」そして「法(ダンマ)धर्म Dharma」まで開きが大きすぎるんです。
キリスト教でも、ここでまた、権威者のような人や、仏教僧侶でもありがちな、「同調圧力」によってある「高名な権威者の解釈に同じないものは異端である」というなかで無理な解釈を強要されるようなこともあるのですが、これは愚かなことです。
私の知る西日本福音ルーテル教会では、「いま開いたバイブルのそのページから伝えられてくることが、あなたへのいまの神の福音(良き便り)である」という読み方をしましょうと教えられました。
そういったそれぞれの命の世界観の中で、「神的な愛を生きようとするモチベーションを与える教えこそが真実だ」と思うようにすることができる人が増えてこそ、多くの命が幸せを生きることができると言えるのではないかと思うのです。
2022-08-02 01:02:00
無我だけじゃない‼️
生命は本来自己の生命のベクトルを生きるために「無我の我」としてうまれてきたんです。
もし生命の本質が「完全無我」ならば、そもそも「我」という存在である必要はないし、「無我でなければならない」のなら死んでしまえばいいことです。
なぜ、私という命が「わたし」という認識をもって生まれているのか、また、いのちにはなぜこれほどの多様性があるのかという意味からすると、いのちは自然にその命を願いによって成長させる(次元を上げる)ために、それぞれのありかたで生まれているのでしょう。