インフォメーション(日々更新中)
2022-07-25 22:14:00
《神レベルの愛》
【愛されている】
みんなが「神レベルに愛されている」っていう事実を見逃してないですか?
「なんだか知らないけど、なんとかなった」とか「なんだかラッキーだった」っていうのんは「神レベルの愛」の中にあるからなんです。
そもそも「生まれた」っていうことが「神レベル」なんです。
「生まれたくなかったのに…」っていっても、生きてて「私は」って「私」を意識して生きてるっていうことが、どこかで「生まれてこの命を生きたい」っていう願いなんですよ!
その命ある限り「神レベルの愛」の中にあるから、魂を「お金や欲望なんか」に売らない限り、愛は姿を表すんです!
真っ直ぐに生きてたら、道が開けていく経験をしたことがあるっていう人は多いでしょう。
「計略」をすることで、道が閉ざされていくっていう事実も多いんです。
「神」は真っ直ぐに生きる人を愛するってことなんです。
「迷うな!」キミの命が魂を裏切らないで生きてくことを私は願っているんだって言わんばかりの奇跡は起こっているんです。
「生きて行きたいけれど、道がふさがれて生きられないっていう人を作るのも、みんながそうさせているんだ」ってことを思いましょう。
そういうひとに、「神レベルの愛」が奇跡を起こすからっていうメッセージ(福音)を贈ってあげましょう!
「命として生まれたこと」そのものが、「神レベルの愛」そのものなんですから…
2022-07-21 00:17:00
合言葉‼️
ここんとこ、合言葉が必要なコーナーを作っている。
これは、本流のひとが見ない方がいいから、ということも言えるし、
きっかけが、ある人に頼まれて書いている、そのひとへの「宝のメッセージ」だからということでもあります。
ほんとうに学ぶことに苦労して、中仏いったけど、いろいろ読んだりお話聞くけど納得いかないっていうひとの依頼によって書いているから、批判されることがあってもいけないし、公開にしていないのです。
けど、真摯な気持ちで読みたい方には「合言葉」をお知らせしています。
方法はなんでもいいので、教えてって連絡くださいませ‼️
2022-07-13 06:25:00
イエスキリストもいる‼️
人間、とくに現代人は抽象概念の元で、1+1=2というのを当たり前のように思っていますが、
私のりんご一個と、あなたのりんご一個を足して2個といってみても仕方がないんです。
つまり、多くの概念は、共通した前提条件があって、その条件下において成り立っています。
この1+1において、所有は加味されないというのが「暗黙の前提条件」なんですが、それが「暗黙」なので、その他の方程式や物理現象への学問の解は、そういうものだということを忘れて受け入れられているんです。
なんとなく、宇宙が137億年ぐらいにビッグバンから生まれて、今に至るのだから、人間も原子や量子の塊であり、そういう物理法則に支配されるって思っていますが、
イエスキリストを信仰するというような場合において、もはや前提は「神」ですから、数学も物理学も神の範疇になってしまうんです。
そういう「神前提」で世の中を生きる時に、「魂(精神)の解放を体感して」自己の命に実利のある生き方ができるわけです。
なんとなく、みなさんの「生きる前提条件」があいまいなので、見解の相違だらけの世の中に正しいひとつの見解を探してみても意味はないんです。
「神」前提で生きれば、イエスキリストは存在して、私の命に変化を与えるという実利があるんです。
2022-07-11 06:16:00
なに教を信じるか?それとも無宗教か?
宗教に限らず、その人の生き方は、出会いによるといえるし、出会いに限定されるって言えるって思う。
あなたも私もどこにいつの時代に生まれるかは選べないし、どんな人や環境や情報の中でなにを選んだり選ばされたりしていくかなんていうことも、このでっかい宇宙の中にある限りなく塵のような範囲で出会えるものに限られている!
だから、宗教だって信じる信じないも、自分が選んでるようでそうではなくて、出会いによるんだ。
出会った人が、いい人でそのひとに人間的に惚れたとき、その人が入っている宗教に入るかも知れない!
モノの考え方も、教育やメディアとか出会う人びとから得て来ているんだろう。
だから、みんな生まれてから生きていくプロセスの中で、「何やどういう人に出会うか」ってことで大きく人生は変わっていくし、みんなが同じ世界を生きているんじゃないってことがわかるんじゃないかと思う。
アートだって、ある作品を素晴らしいと思う人もいれば、全く興味のない人もいる。
職業だって、やりたいことが理想と違っているなんてことはよくあるけど、テレビやメディアで知ったその職業がじつは自分の理想ではなかったっていう現実に出会うこともある。
私もいろんな出会いの中で、なぜか人生の大半を僧侶っていうか布教使をやって来たけど、もともと出会っていたキリスト教福音ルーテル教会に帰って来たのは、いい加減日本の寺院や檀家さん、そして何より僧侶の在り方に「失望」を繰り返してきたからなんだ。
どこに行ってもそんなもんだと思うけれど、許容範囲がやはり違うっていえると思う。
寺は日本の歴史と共に流れてきた。
キリスト教は、日本文化にない西洋の文化や環境や宗教を持っている。
そこに再び出会って、私の命はそっちに行けって言っている。
出会いのない人に神のなんたるかを説明するのは難しいだろう。
しかし、仏教に出会ってるはずの人たちに仏教のなんたるかを話しても通じない。
日本人は、仏教さえもどうでもいいっていうモチベーションなのだから。
つまりは、みんな出会っているものごとと、選んだり選ばされてたりという中でしか判断はつかないのだから…
「一切」っていう言葉があるけれど、これは「自分が認識しうる物事の全て」ということであるから、宇宙規模、創造神規模から言えば「塵のようなひときれ」なのです。
私たちは、この「一切れ」を「一切」だと誤認識して生きている。
そこが分かれば、「なにをもってすれば、私の選んでいる宗教などが真実かといったことをわかってもらうことが可能か」「何をもって自己の信じているものごとの素晴らしさを理解してもらえるのか」ということがわかるだろう。
それは、理屈でも証拠書類などでも、権威でもなく、自分の出会いの中にある真実への感動の言葉を語ることではないだろうか。
私は、クリスチャンにそれを感じるけれど、エセ仏教徒にそれを感じることはない‼️

