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2022-06-29 14:56:00

善悪を知る実‼️

《創世記》から。

 

「善悪を知る実」について。

こういう二極分別(人間に正しく知る能力がないのに善と悪を分別すること)が人間に間違いを生むということ…

 

たとえば、「病気は好ましくない状態だ」と思っている人は、

サプリだとか、薬だとか、じつは「金儲けだけで成り立っている商品」に振り回されてしまったり、あっちの医者こっちの医者と走り回ることにもなるんです。

 

これを「誘惑」と言います。

こういった誘惑の中で病気に苦しむ人は、いま現在から「病気という〈言葉〉が生み出した闇」に住んでいるので、必然的に天国には行きません。

 

聖書に「はじめに言葉があった」と言われるように、言葉によっていろんな物事が生み出されていきます。

仏教でも「色も形もない真如である[真諦]を伝えるのが、ことばという[俗諦]だ」とされます。

 

さて、この「ことば」で、「金持ち、貧乏」でもなんでも、二極化することで、そういう状態が生み出されて、そこに誘惑は発生するんです。

 

じつはこういったことは、仏教の倶舎論に「思慮分別、虚妄分別をするのが人間の過ちのスタートだと書かれています。

 

「儲かる方法」なんていう言葉に乗ってしまって、かえって騙されているひとも多いものです。

 

なので、キリストの贖いを受け入れることっていうのは、「善悪を知る実」を「イエスキリストのみ名」に置き換えること、つまり、私の主体が変わることなんです。

 

私の中にあった善悪の二極化が「イエスキリスト」の一極になるんです。

 

そこで、聖書からイエスキリストの言葉を学び、その言葉から、どんな状態や出来事の中にも、恵みがあって、学びがあるというふうに受け取れるようになります。

 

そして、その恵みや学びが神の愛に基づくものだと知ることができたら、人生には光が満ちてくるので、必然的に天国に行くことになるんです。

 

そのためにこそ、「み名」ということが重視されているのでしょう。

 

イエスキリストのみ名を生きていると、

 

たとえば「ケンカや争い」の中にも、「どうしたら理解しあえるか」「自分に非はなかったか」「相手の良さを見落としてなかったか」「そもそもなんらかの誤解がお互いにあったのではないか」といった学びが生まれてくるので、ここに恵みが生まれてきて、まさに神の愛によってあるということを再認識できます。

 

こういう二極化から発生する過ちや誘惑にハマりかけていることを知るたびに、神の愛を知っていくことができるんです。

 

なので、「イエスキリストのみ名」によって生きるのです。

「無碍光如来」のみ名も同じ働きをする教えであるはずなのですから!

 

[中神私記]

2022-06-29 05:34:00

名前‼️

古く旧約聖書の時代から、「名前」を受け入れると言うことは、

その「支配を受ける」という意味で、「支配」というとなんだか操作される的なイメージがありますが、

そうではなく「私の主体になってくださる」ということなのだそうです。

 

キリスト教では、神との対話(祈り)の時に「イエスキリストのみ名において」と祈りますが、

私の主体になってくださっているイエスキリストに救われているという意味になるんです。

けど、これって、阿弥陀仏の名号も同じなのではないでしょうか。

 

帰命尽十方無碍光如来も、南无阿弥陀仏も、名前によって自己の主体が、煩悩だらけの愚者である私から、「仏ないしは如来」に変わるということなのですから、同じ構造によって救いを説いています。

こういうことがありながら、浄土教はキリスト教と無関係だとはどうしても思えないのです。

 

歴史的には、大乗仏教という点においては、キリスト教より後になりますから、どっちが本家だとか元祖だとかというよりも、両者否定できないということがここでは申し上げたいのです。

みなさんもキリスト教、主イエスキリストのみ名によって、アーメンという世界を知ってみてはいかがでしょう。

この「アーメン」もほぼ「ナーモ」と同じ意味で、「その通りと受け入れる」といった意味なのですから…

 

 

 

2022-06-28 07:02:00

考える人‼️

 

難しいことを考えずとも、我を張って周囲に迷惑がられようと、周囲の問題に我関せずとしていても、充分に90才以上生きられるんだなぁと思っている今日この頃です。

 

それよりも、思慮深く、周囲に気を配って、迷惑をかけないように生きてる人が、歳をとっていくと、けっこう「脳や心臓疾患を患うひと」が多いもんだなぁと思うんです。

 

まぁストレスの分量の違いといってもいいのかもしれません。

 

逆に「長生きしたくない」という人も現代には多いようですが、とは言っても、50代ぐらいから疾患に悩む人が多いようです。

 

けっきょくそれもストレスなんでしょうね…

そう思うと最近は深く考えるよりも、感覚的にいい感覚を得られるところや、いい感覚を作れそうな人や場所に会ったり行ったりする方がいいなぁと思っています。

 

みなさんキリストってけっこうキツイこと言ってるけど、なんか愛を感じるんです。

 

そう‼️

聖書を読んでると、考えるというよりも、感覚的に入ってくるんです。

 

仏典って、なんだか現実離れしてるから、あれこれ考えなきゃいけないから、私は長年の僧侶生活で「どうしたら理解されるか」って「考える人」だったんです😂

 

いまは、キリストの言葉から、神の言葉から感覚的な愛を感じています。

 

なので、なぜか毎日欠かさず自然と聖書を開き、YouTubeのお話を聞いたり、本を読んだり、すごく落ち着いています。

 

ホントに厳しい言葉に現実的な愛を感じているんです🥰

2022-06-28 03:33:00

人間の姿‼️

神は神の姿に似せて人間を作られた。

 

神っているの?

って、ありきたりの質問は、量子論なんかが広まってる現代に、ナンセンスな質問だと思うんです。

 

量子は、観察すると粒子になり、観察しないと波状になるなんていうへんなヤツだけれど、結局はつかみどころもない。

 

そういう、究極ビッグバンを起こした量子の世界すら、確定的ではない、思考停止「不確定性原理」なのだ。

 

そこで、思考停止しても「神に似せて作られた人間」は神の姿として存在していることはわかるだろう。

 

神は、とことん人間を思考停止させて、「神の姿にあること」を自覚するように諭して、その神の姿に似せた私の中に聖霊が宿り、イエスキリストが神の愛と奇跡を厳しく伝えてくれる。

 

こうした現代の幅広い考察によって、神の実在を実感し、神との対話である祈りが、小さな奇跡から、命が吹き返されるような奇跡を私に見せてくれている。

2022-06-28 03:29:00

非僧非俗と非仏非神⁉️

 

わたしは、クリスチャンだと名乗って、かつ僧侶である。

といういずれの宗教でも認めてもらえないかもしれない立脚点にいることを宣言したのです。

 

これは、仏教がキリスト教に包摂される教えであるといえる。ということと、

バイブルによって、イエスキリストが、親鸞という日本人としてあらわれて、キリスト教の新約聖書と同じ構造でありながら、文言が違うだけという「浄土真宗」という教えにして説かれたと思わざるをえないのです。

古い時代にインドでも中国でも日本でも、東西の交流はあったのですから、まんざら無関係ともいえないでしょう。

いまは隠されているようですが、西本願寺には「世尊不世論(世尊はキリスト)」というマタイ伝が残されていると昭和50年代には多くの人に確認されています。

また「観経」は景教(キリスト教ネストリウス派)を取り込んで中国で作られたとも言います。

 

わたしはあまり用いませんが、歎異抄なんかに出てくる親鸞さんの人格は、新約聖書のイエスキリストの人格によく似ています。

 

そしてこういうことを成し遂げることができるのは、天地創造神でしかありえません。

さらにいうなら、カトリックの系統を受け継いだのが「空海」だったと思えるのですが、もちろん正確には中国の「景教(キリスト教ネストリウス派)」なのかもしれません。

現在、真言宗にキリスト教が入っていることは公認されています!(十字をきられます)

 

いずれにせよ、日本の仏教にイエスキリストも天地創造神も宿っておられるといえるからなのです。

 

しかしこのようなことは、人生の幼少期から青年期をキリスト教福音ルーテル教会教会員として生活し、二十歳から浄土真宗の僧侶としていきてきたから言えるのだと思います。

たまたま両者をそこそこ深く知っているからこそいえるのです。(キリスト教については、この数年神学の通信教育に学び、聖書は全て読み、神の言葉を学ぶ日々に没頭しています)

 

そのたまたまの立場を「クリスチャン僧侶」といっているのですが、ほんとうに神とイエスキリストや真如法性が認めてくださるか明確ではないのです。

 

もし、認めてくださらないようであるなら、いつの日か何らかの形でなにかが私に起こることになるのでしょう。

わたしは、都合よく生きるために、僧侶という立場にいるわけではないのです。

 

そこは誤解なきようにしていただきたいし、もし誤解して批判されるならば、それこそが神が私の問いにくださった解答なのかもしれません。