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2022-06-25 03:49:00
クリスチャン僧侶って都合がいい!
わたしは、クリスチャンだと名乗って、かつ僧侶である。
といういずれの宗教でも認めてもらえないかもしれない立脚点にいることを宣言したのです。
これは、仏教がキリスト教に包摂される教えであるといえる。ということと、
バイブルによって、イエスキリストが、親鸞という日本人としてあらわれて、キリスト教の新約聖書と同じ構造でありながら、文言が違うだけという「浄土真宗」という教えにして説かれたと思わざるをえないのです。
わたしはあまり用いませんが、歎異抄なんかに出てくる親鸞さんの人格は、新約聖書のイエスキリストの人格によく似ています。
そしてこういうことを成し遂げることができるのは、天地創造神でしかありえません。
さらにいうなら、カトリックの系統を受け継いだのが「空海」だったと思えるのですが、もちろん正確には中国の「景教(キリスト教ネストリウス派)」なのかもしれません。
いずれにせよ、日本の仏教にイエスキリストも天地創造神も宿っておられるといえるからなのです。
しかしこのようなことは、人生の幼少期から青年期をキリスト教福音ルーテル教会に学び、二十歳から浄土真宗の僧侶としていきてきたから言えるのだと思います。
たまたま両者をそこそこ深く知っているからこそいえるのです。
そのたまたまの立場を「クリスチャン僧侶」といっているのですが、ほんとうに神とイエスキリストは認めてくださるか明確ではないのです。
もし、認めてくださらないようであるなら、いつの日か何らかの形で僧侶を辞めることになるのでしょう。
わたしは、都合よく生きるために、僧侶という立場にいるわけではないのです。
そこは誤解なきようにしていただきたいし、もし誤解して批判されるならば、それこそが神が私の問いにくださった解答なのかもしれません。
つまりは、僧侶を辞めよというメッセージなのです。
2022-06-24 20:32:00
とくに僧侶歴の若いみなさまへ‼️
とくに、僧侶歴の若いみなさまへ‼️
仏教の基本は「自燈明、法燈明」です。
「教えである法を学び、自らが自らの中で目覚めを繰り返していく」ということです。
だから「善知識燈明」じゃないことを心に据えることが大切だと思うのです。
先生はいろんな人がいて、いろんな学びがあって、個々人で理解にも差があるのですから、「鵜呑み」はよくありませんし、ある一人やあるグループの考え方を絶対視してはいけないのです。
そういうのを「カルト」と言います。
まずは、「教え(法)」をなるべく原典から学び、幅広くいろんな先生やひとの話を聞き、自分に思い込ませるのではなくて、染み込んでくることや、目覚めるような内容に「自分を尋ねていく(自分はどう考えていけばいいのかというふうに自分の方向性を自分が見出していく)ということが大切だと思います。
これが「自燈明、法燈明」の教えであり、「善知識燈明」では「人間頼み」になってしまうという過ちを犯してしまうということなのです。
「人間頼み」になると、けっきょく「セクト」にはまり込んで、狭い世界におちいってしまいます。
こういうセクトにはまり込むことは、争いや競争などのマイナスを生むことの方が多いものなのです。
2022-06-24 19:42:00
サタンと新約聖書‼️
普通、ルーテルなどのプロテスタントで、「サタン」という単語も、「サタンにしたがってはいけない」的な文言もさほど使われることはない。
これは、キリスト教系のカルトがよく使うからだろう。
しかし、時々私はこういうことを書く。
それは、事実、神に反いた権力に振り回されるひとが多く、そのために、こんなに豊かなのに苦しむ人が多いからである。
私は、日本人に、とにかく読みやすい新約聖書からでも、一度は読んで欲しいと思っている。
この内容を深くこの身に引き当てて読まれれば、この内容が真実であることと、どう生きた方が良いのかということが具体的に明確になるからである。
仏教は素晴らしいし、深い哲学や科学性を持っている。
そういう仏教の学びがあったから、余計にわかるのかもしれないとさえ思う時がある。
仏教の思考をもって、読んでみられるのもより良いことだと言えるのではないだろうか‼️
2022-06-22 00:26:00
雑な真宗学‼️
真宗を学んでいくと、あまりにも雑な学問であるとしみじみと思うのです。
たとえば、親鸞さんが重要視している浄土論註も、あくまでも「無量寿仏」なのに、現代語訳で「阿弥陀仏」と訳されたり、「無量寿仏(阿弥陀仏)」なんて当たり前のように書いているけれど、どう読んでも、教行証文類をはじめ、親鸞さんにおいて、「無量寿仏」と阿弥陀仏は別ものなんです。
それを当然だという錯誤が、あらゆる学びのポイントで「ズレた学問」が、意味不明な真宗を生み出していると思うのです。
親鸞さんが「月を指す指」の「指を論じている」と間違いを指摘されているのに、そのまま「指ばかり見ている学問」になっています。
これでは「指」が指し示している「結論」が変わってくるのですから、これをよしとするなら、もはや「なんでもいい」っていうことになるのではないでしょうか…
はじめの「1度のズレが、進んでいくと、大きな角度のズレ」になるようなものです。
これが理数系ならば、0.00001の違いすら認められないということであり、より正確な解答を導き出すことになるのでしょう。
しかし、偶像の阿弥陀仏でも、人格的な阿弥陀さまでも、如来さまでも同じであるとはいえないでしょう。
かつて、灘本という勧学さんが、「阿弥陀」を「弥陀」と略すのは本来的ではない。
「無量が、有量に」なってしまう。
と言われました。
そこで、親鸞さんが、なぜあえてこう言ったことを無視されたか、ということについて考えなさいと言われました。
ここに正解はありませんが、親愛さんは、意図的な経典などの読み替えをされて、阿弥陀仏の教えをより真実真理に近い内容に復活させていると言えるでしょう。
釈尊の仏教や龍樹、天親さんの大乗無上法に阿弥陀仏の教えを戻す、指が指し示している月から離れていっていた教えを、「月へと方向を修正するための読み替え」をされているように思います。
そういうことが大事なのであって、「阿弥陀か弥陀か」ということは、サンスクリット語で学ぶわけではない日本人には、そこはこだわるところではないということだと思うのです。
2022-06-21 01:46:00
仏教は宗教ではない‼️
仏教は、厳密には、宗教ではない‼️
これは「宗教法人法」とか、「宗教学」というような観点ではありません。
「教えのあり方から論じるならば」という観点からのものです。
仏教は、あくまでも生命の本源や存在や現象の本質を探究して、それが「無常、無我、空、唯識、華厳など」であるという「真理」を認知する「智慧」を以って苦を除くという「精神の医学」といった類のものなのです。
つまり、釈迦は「大医王」と言われ、「応病与薬」といい「対機説法」といわれるように、あくまでも「苦を除く教え」であり、「精神や魂の医学」といっていいでしょう‼️
ですから仏教は、キリスト教などの「人間を超えた実在が在り、それは人間が把握できるような存在でもない真理である」というような、物理学や心理学やどのような学問がどう言おうが関係のない「絶対者」を教えている教え、とは異なるのです。
そういう意味で、仏教は「神」に包含される位置にあります。
つまり、仏教は宇宙や人間がいてその教えが存在しうる位置だと言うことです。
だから、仏教をど真剣に説いてきた私が、キリスト教に私の命の存在理由を見出すことができたのです。
「神」は「宇宙や法則を超えて在る」のです。
ゆえに、それこそが究極の絶対なのです。
そこには、どんなチカラも及ぶことはできません。
ですから、バイブルの言葉を、素直にそのままに受け入れて読めば読むほど、そのことを実感できるんです。
だから私は、「クリスチャン僧侶」というバカと思えるような位置付けを、「仏教をど真剣に説いてきたからこそいえる」と思うのです。
親鸞さんが「非僧非俗」(親鸞さんは、僧侶になったけれど、突き詰めれば戒律を守って清貧に生きられないという本音から言えば、「僧侶とは言えない」また、とはいえ、一般の人のように「俗世間の価値観で生きているのではないから俗でもない」から「非僧非俗なのだ」)と言われたように…
これを「異端」だのなんだのと、人間目線で「狭小な場」を生きている人には理解されないと思いますが、申し訳ないのですが、「神」は私にそう言っているのです‼️
〈ご参考〉
「弥陀一仏」にこだわる「仮想現実」を生きるのが仏教ではありません。
弥陀「一仏」の本来の意味は「一即一切智」という「華厳の智慧」から、
「宇宙のあり方と私が生きる智慧の位置付け」を説いていて、
「一仏を通して一切を知る智慧を得る」ということです。
迷いの無明から、悟りの智慧(光明)生きることが「絶対の安穏」を得る道だと教えているのです。
この智慧によって、「この世はすべて幻想である」ということがわかってくるということで、
これは「無常無我、空、唯織、華厳」=「真如」について説いているのです。
ここで、あるYouTubeの「仮想現実論」をご覧ください。
以前、私も、このYouTubeのように量子論と仏教の空を同じとよく言っていました。
けれど、仮想現実だとしても、どう生きてどう死ぬかは、DNAと生まれてから今日までの情報をどう生きて来たかということになる上、いま自分があらゆる事柄において、正確な選別をして生きていくことが重要なのは変わらないんです。
量子だ、仮想現実だと逃げていても仕方がない!
そこに、より正確な選びを与える情報を「教え」というのでしょう‼️
とはいえ、「救われる」ということは、生きる上での目的というよりも、「救われた、大いなる者に信じられている」といった「生きるエネルギー」を生んでくれるものなのでしょう。
ただ、それはこのYouTubeの中にも、一部触れられてあるように、量子という前提を生んだ、なんらかのエネルギー体のような存在があって成立しているということを、「神」というのでしょうか…
阿弥陀如来にせよ、大日如来にせよ、仮想現実の中に於いて存在を定義するしかない、「宇宙の中」での存在定義するしかないストーリーが「仮想現実を超えて」働きかけてくるというのは、救いとして弱いから、事実、仏教のエネルギーは人間界で衰弱しているように思えるのです…