インフォメーション(日々更新中)
2022-07-02 07:22:00
ホントの仏教をみなわかっているか?
仏教というのは、元来「人間の根本的な苦」を解決するために、「悟る」ことを目指す教えなんです。
まぁこんなことは仏教を知ってる人にすれば「当然」だと言えるんでしょう。
ただ、ここで問題なのは、お釈迦さんの出家の動機です。
お釈迦さんは、なんの不自由もなく、「快楽は好き放題」という王子だった時に、人間の「老病死」を垣間見て、「快楽の虚しさ」や生きることの悲しさに心打たれたということなんでしょう。
また、鳥が虫を啄む(ついばむ)ところをみて、「生類は互いに喰みあっている」ということに心を痛めたとも言われています。
こういう点から、そもそもお釈迦さんは、快楽にも贅沢にも満足できない「精神的なポイントを重視するひと」だったのでしょう。
しかし、普通の人間は、こういうことを「当たり前」だとして、「安心安全、命の保障」を求め、さらに「快楽」をも求めている「肉体的ポイントを重視するひと」だと言えるでしょう。
そして、お釈迦さんはそのような人間を「ダメなひと」「罪びと」とはいっていないのです。
単純に「悟ったら」この現世の肉体に意味がないことを知って、「滅度」に入ろうとするということだったんです。
なので、お釈迦さんは「悟った時」に、そのまま涅槃(炎が消える)に入ろうとされたのでしょう。
しかし、5人の修行者に請われて教えを説くようになられ、教化が始まったんです。(初転法輪)
けれど、初期仏教というのは、あくまでも苦悩の解決であり、精神世界の問題への示唆であり、いのちが尊いとか、死んだらどうなるとかいうようなことは説かれていないというよりも、そんなことは「戯論」だ、わからないことを論じることは無意味だとまでいっておられます。
そういうポイントからいうと、初期仏教は、極めて明確な論理だったといえます。
「信じる信じない」というような性質の教えではありません。
当然の「苦悩と苦悩からの解放の論理」だからです。
こういった「苦の解決」と「その方法」という明確な仏教が、大乗仏教になって、「阿弥陀仏」「観音菩薩」「薬師如来」「お不動さん」だのといった、「神的な存在が説かれる」ようになって、現代人には意味不明な教えになってしまったのです。
文字を知らない書けない、抽象概念がわからない、例えば、引力の法則がわからないから、「引っ張る仏様」がいる、といった偶像を設定しなくてはいけなくなったのでしょう。
「引っ張る仏様」はここで私が創作したのですが、こういう創作が多くなされたため、その時代の苦悩に応じた偶像仏や菩薩が生み出されたのでしょう。
しかし、もはや現代において「偶像仏」は必要ないというよりも、「それがあるからわからない」となっているのです。
そして、宗派のセクトにこだわって、ムリクリ説明をしようとするので、余計に意味不明になっているのです。
その点、バイブルは事実が書かれていて、「苦の解決」や「いのちは尊い」といったことが書かれてあるのではありません。
そういう点で、現代の「量子物理学」をも超えた存在や精神的なポイントが説かれているのですから、学べば学ぶほど、その真実に驚きを禁じ得ないのです。
2022-07-01 04:50:00
アーメン‼️
アーメンは、基本的に「その通り」と言う意味だというのは、どこを調べても出てくる内容です。
つまり「神の言葉の通り」という意味が大前提です。
また、祈りの言葉を発した人に「同意する意味のその通り」ということもあるんです。
ただ、伝統的に「アーメン」は、言葉の節目に唱えたり、いつ唱えると決まったものではないと言われます。
そこで、これを「祈った、その通りになるように…」と祈りの成就を願う言葉というのは、微妙に悩ましいんです。
祈った人への同意をもって「アーメン(その通り)」というニュアンスがあって、その延長上に、「その通りになったらいいね」という、このニュアンスもなくはないということですが…
その祈りが、全く祈っている人の「自我丸出しだったり、それはあかんやろ」っていうような場合には、「その通りになってもらっては困る」ということになりますから、全ての祈りに「その通りになるように」とは言い難いと思うんです。
とはいえ、その人の祈りへの同意の意味であるかどうかに関わらず、「アーメン」は使えるんです。
あくまでも、イエスキリストをアーメン(その通り)と受け入れている人間の命は、「神の言葉や教えを伝道するために…健康でありますように!」といった祈りはしても、「自我を自分勝手に元気で生きたいから健康を祈る」というようなことは、その通りではないはずなのです。
とはいえど、その人が、「自我で祈ったことを、その通りと同意すること」で、主(神)と聖霊の力で、その人の生き方が修正されたり、そもそも、その人がそう祈っている理由を理解することができたりすることもあるのですから、あながち「目一杯わがままな自我の祈り」を「その通り」と同意することは間違いではないのでしょう。
主の祈りの深さが感じられる「アーメン」です。
2022-06-29 14:56:00
善悪を知る実‼️
《創世記》から。
「善悪を知る実」について。
こういう二極分別(人間に正しく知る能力がないのに善と悪を分別すること)が人間に間違いを生むということ…
たとえば、「病気は好ましくない状態だ」と思っている人は、
サプリだとか、薬だとか、じつは「金儲けだけで成り立っている商品」に振り回されてしまったり、あっちの医者こっちの医者と走り回ることにもなるんです。
これを「誘惑」と言います。
こういった誘惑の中で病気に苦しむ人は、いま現在から「病気という〈言葉〉が生み出した闇」に住んでいるので、必然的に天国には行きません。
聖書に「はじめに言葉があった」と言われるように、言葉によっていろんな物事が生み出されていきます。
仏教でも「色も形もない真如である[真諦]を伝えるのが、ことばという[俗諦]だ」とされます。
さて、この「ことば」で、「金持ち、貧乏」でもなんでも、二極化することで、そういう状態が生み出されて、そこに誘惑は発生するんです。
じつはこういったことは、仏教の倶舎論に「思慮分別、虚妄分別をするのが人間の過ちのスタートだと書かれています。
「儲かる方法」なんていう言葉に乗ってしまって、かえって騙されているひとも多いものです。
なので、キリストの贖いを受け入れることっていうのは、「善悪を知る実」を「イエスキリストのみ名」に置き換えること、つまり、私の主体が変わることなんです。
私の中にあった善悪の二極化が「イエスキリスト」の一極になるんです。
そこで、聖書からイエスキリストの言葉を学び、その言葉から、どんな状態や出来事の中にも、恵みがあって、学びがあるというふうに受け取れるようになります。
そして、その恵みや学びが神の愛に基づくものだと知ることができたら、人生には光が満ちてくるので、必然的に天国に行くことになるんです。
そのためにこそ、「み名」ということが重視されているのでしょう。
イエスキリストのみ名を生きていると、
たとえば「ケンカや争い」の中にも、「どうしたら理解しあえるか」「自分に非はなかったか」「相手の良さを見落としてなかったか」「そもそもなんらかの誤解がお互いにあったのではないか」といった学びが生まれてくるので、ここに恵みが生まれてきて、まさに神の愛によってあるということを再認識できます。
こういう二極化から発生する過ちや誘惑にハマりかけていることを知るたびに、神の愛を知っていくことができるんです。
なので、「イエスキリストのみ名」によって生きるのです。
「無碍光如来」のみ名も同じ働きをする教えであるはずなのですから!
[中神私記]
2022-06-29 05:34:00
名前‼️
古く旧約聖書の時代から、「名前」を受け入れると言うことは、
その「支配を受ける」という意味で、「支配」というとなんだか操作される的なイメージがありますが、
そうではなく「私の主体になってくださる」ということなのだそうです。
キリスト教では、神との対話(祈り)の時に「イエスキリストのみ名において」と祈りますが、
私の主体になってくださっているイエスキリストに救われているという意味になるんです。
けど、これって、阿弥陀仏の名号も同じなのではないでしょうか。
帰命尽十方無碍光如来も、南无阿弥陀仏も、名前によって自己の主体が、煩悩だらけの愚者である私から、「仏ないしは如来」に変わるということなのですから、同じ構造によって救いを説いています。
こういうことがありながら、浄土教はキリスト教と無関係だとはどうしても思えないのです。
歴史的には、大乗仏教という点においては、キリスト教より後になりますから、どっちが本家だとか元祖だとかというよりも、両者否定できないということがここでは申し上げたいのです。
みなさんもキリスト教、主イエスキリストのみ名によって、アーメンという世界を知ってみてはいかがでしょう。
この「アーメン」もほぼ「ナーモ」と同じ意味で、「その通りと受け入れる」といった意味なのですから…
2022-06-28 07:02:00
考える人‼️
難しいことを考えずとも、我を張って周囲に迷惑がられようと、周囲の問題に我関せずとしていても、充分に90才以上生きられるんだなぁと思っている今日この頃です。
それよりも、思慮深く、周囲に気を配って、迷惑をかけないように生きてる人が、歳をとっていくと、けっこう「脳や心臓疾患を患うひと」が多いもんだなぁと思うんです。
まぁストレスの分量の違いといってもいいのかもしれません。
逆に「長生きしたくない」という人も現代には多いようですが、とは言っても、50代ぐらいから疾患に悩む人が多いようです。
けっきょくそれもストレスなんでしょうね…
そう思うと最近は深く考えるよりも、感覚的にいい感覚を得られるところや、いい感覚を作れそうな人や場所に会ったり行ったりする方がいいなぁと思っています。
みなさんキリストってけっこうキツイこと言ってるけど、なんか愛を感じるんです。
そう‼️
聖書を読んでると、考えるというよりも、感覚的に入ってくるんです。
仏典って、なんだか現実離れしてるから、あれこれ考えなきゃいけないから、私は長年の僧侶生活で「どうしたら理解されるか」って「考える人」だったんです😂
いまは、キリストの言葉から、神の言葉から感覚的な愛を感じています。
なので、なぜか毎日欠かさず自然と聖書を開き、YouTubeのお話を聞いたり、本を読んだり、すごく落ち着いています。
ホントに厳しい言葉に現実的な愛を感じているんです🥰

