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2022-06-28 03:29:00

非僧非俗と非仏非神⁉️

 

わたしは、クリスチャンだと名乗って、かつ僧侶である。

といういずれの宗教でも認めてもらえないかもしれない立脚点にいることを宣言したのです。

 

これは、仏教がキリスト教に包摂される教えであるといえる。ということと、

バイブルによって、イエスキリストが、親鸞という日本人としてあらわれて、キリスト教の新約聖書と同じ構造でありながら、文言が違うだけという「浄土真宗」という教えにして説かれたと思わざるをえないのです。

古い時代にインドでも中国でも日本でも、東西の交流はあったのですから、まんざら無関係ともいえないでしょう。

いまは隠されているようですが、西本願寺には「世尊不世論(世尊はキリスト)」というマタイ伝が残されていると昭和50年代には多くの人に確認されています。

また「観経」は景教(キリスト教ネストリウス派)を取り込んで中国で作られたとも言います。

 

わたしはあまり用いませんが、歎異抄なんかに出てくる親鸞さんの人格は、新約聖書のイエスキリストの人格によく似ています。

 

そしてこういうことを成し遂げることができるのは、天地創造神でしかありえません。

さらにいうなら、カトリックの系統を受け継いだのが「空海」だったと思えるのですが、もちろん正確には中国の「景教(キリスト教ネストリウス派)」なのかもしれません。

現在、真言宗にキリスト教が入っていることは公認されています!(十字をきられます)

 

いずれにせよ、日本の仏教にイエスキリストも天地創造神も宿っておられるといえるからなのです。

 

しかしこのようなことは、人生の幼少期から青年期をキリスト教福音ルーテル教会教会員として生活し、二十歳から浄土真宗の僧侶としていきてきたから言えるのだと思います。

たまたま両者をそこそこ深く知っているからこそいえるのです。(キリスト教については、この数年神学の通信教育に学び、聖書は全て読み、神の言葉を学ぶ日々に没頭しています)

 

そのたまたまの立場を「クリスチャン僧侶」といっているのですが、ほんとうに神とイエスキリストや真如法性が認めてくださるか明確ではないのです。

 

もし、認めてくださらないようであるなら、いつの日か何らかの形でなにかが私に起こることになるのでしょう。

わたしは、都合よく生きるために、僧侶という立場にいるわけではないのです。

 

そこは誤解なきようにしていただきたいし、もし誤解して批判されるならば、それこそが神が私の問いにくださった解答なのかもしれません。

2022-06-25 03:49:00

クリスチャン僧侶って都合がいい!

わたしは、クリスチャンだと名乗って、かつ僧侶である。

といういずれの宗教でも認めてもらえないかもしれない立脚点にいることを宣言したのです。

これは、仏教がキリスト教に包摂される教えであるといえる。ということと、

バイブルによって、イエスキリストが、親鸞という日本人としてあらわれて、キリスト教の新約聖書と同じ構造でありながら、文言が違うだけという「浄土真宗」という教えにして説かれたと思わざるをえないのです。

わたしはあまり用いませんが、歎異抄なんかに出てくる親鸞さんの人格は、新約聖書のイエスキリストの人格によく似ています。

そしてこういうことを成し遂げることができるのは、天地創造神でしかありえません。

さらにいうなら、カトリックの系統を受け継いだのが「空海」だったと思えるのですが、もちろん正確には中国の「景教(キリスト教ネストリウス派)」なのかもしれません。

いずれにせよ、日本の仏教にイエスキリストも天地創造神も宿っておられるといえるからなのです。

しかしこのようなことは、人生の幼少期から青年期をキリスト教福音ルーテル教会に学び、二十歳から浄土真宗の僧侶としていきてきたから言えるのだと思います。

たまたま両者をそこそこ深く知っているからこそいえるのです。

そのたまたまの立場を「クリスチャン僧侶」といっているのですが、ほんとうに神とイエスキリストは認めてくださるか明確ではないのです。

もし、認めてくださらないようであるなら、いつの日か何らかの形で僧侶を辞めることになるのでしょう。

わたしは、都合よく生きるために、僧侶という立場にいるわけではないのです。

そこは誤解なきようにしていただきたいし、もし誤解して批判されるならば、それこそが神が私の問いにくださった解答なのかもしれません。

つまりは、僧侶を辞めよというメッセージなのです。

 

2022-06-24 20:32:00

とくに僧侶歴の若いみなさまへ‼️

 

とくに、僧侶歴の若いみなさまへ‼️

 

仏教の基本は「自燈明、法燈明」です。

「教えである法を学び、自らが自らの中で目覚めを繰り返していく」ということです。

 

だから「善知識燈明」じゃないことを心に据えることが大切だと思うのです。

 

先生はいろんな人がいて、いろんな学びがあって、個々人で理解にも差があるのですから、「鵜呑み」はよくありませんし、ある一人やあるグループの考え方を絶対視してはいけないのです。

 

そういうのを「カルト」と言います。

まずは、「教え(法)」をなるべく原典から学び、幅広くいろんな先生やひとの話を聞き、自分に思い込ませるのではなくて、染み込んでくることや、目覚めるような内容に「自分を尋ねていく(自分はどう考えていけばいいのかというふうに自分の方向性を自分が見出していく)ということが大切だと思います。

 

これが「自燈明、法燈明」の教えであり、「善知識燈明」では「人間頼み」になってしまうという過ちを犯してしまうということなのです。

 

「人間頼み」になると、けっきょく「セクト」にはまり込んで、狭い世界におちいってしまいます。

 

こういうセクトにはまり込むことは、争いや競争などのマイナスを生むことの方が多いものなのです。

2022-06-24 19:42:00

サタンと新約聖書‼️

 

普通、ルーテルなどのプロテスタントで、「サタン」という単語も、「サタンにしたがってはいけない」的な文言もさほど使われることはない。

 

これは、キリスト教系のカルトがよく使うからだろう。

しかし、時々私はこういうことを書く。

 

それは、事実、神に反いた権力に振り回されるひとが多く、そのために、こんなに豊かなのに苦しむ人が多いからである。

 

私は、日本人に、とにかく読みやすい新約聖書からでも、一度は読んで欲しいと思っている。

 

この内容を深くこの身に引き当てて読まれれば、この内容が真実であることと、どう生きた方が良いのかということが具体的に明確になるからである。

 

仏教は素晴らしいし、深い哲学や科学性を持っている。

そういう仏教の学びがあったから、余計にわかるのかもしれないとさえ思う時がある。

 

仏教の思考をもって、読んでみられるのもより良いことだと言えるのではないだろうか‼️

2022-06-22 00:26:00

雑な真宗学‼️

真宗を学んでいくと、あまりにも雑な学問であるとしみじみと思うのです。

 

たとえば、親鸞さんが重要視している浄土論註も、あくまでも「無量寿仏」なのに、現代語訳で「阿弥陀仏」と訳されたり、「無量寿仏(阿弥陀仏)」なんて当たり前のように書いているけれど、どう読んでも、教行証文類をはじめ、親鸞さんにおいて、「無量寿仏」と阿弥陀仏は別ものなんです。

 

それを当然だという錯誤が、あらゆる学びのポイントで「ズレた学問」が、意味不明な真宗を生み出していると思うのです。

 

親鸞さんが「月を指す指」の「指を論じている」と間違いを指摘されているのに、そのまま「指ばかり見ている学問」になっています。

 

これでは「指」が指し示している「結論」が変わってくるのですから、これをよしとするなら、もはや「なんでもいい」っていうことになるのではないでしょうか…

 

はじめの「1度のズレが、進んでいくと、大きな角度のズレ」になるようなものです。

 

これが理数系ならば、0.00001の違いすら認められないということであり、より正確な解答を導き出すことになるのでしょう。

 

しかし、偶像の阿弥陀仏でも、人格的な阿弥陀さまでも、如来さまでも同じであるとはいえないでしょう。

 

かつて、灘本という勧学さんが、「阿弥陀」を「弥陀」と略すのは本来的ではない。

「無量が、有量に」なってしまう。

と言われました。

 

そこで、親鸞さんが、なぜあえてこう言ったことを無視されたか、ということについて考えなさいと言われました。

 

ここに正解はありませんが、親愛さんは、意図的な経典などの読み替えをされて、阿弥陀仏の教えをより真実真理に近い内容に復活させていると言えるでしょう。

 

釈尊の仏教や龍樹、天親さんの大乗無上法に阿弥陀仏の教えを戻す、指が指し示している月から離れていっていた教えを、「月へと方向を修正するための読み替え」をされているように思います。

 

 

そういうことが大事なのであって、「阿弥陀か弥陀か」ということは、サンスクリット語で学ぶわけではない日本人には、そこはこだわるところではないということだと思うのです。