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2021-11-20 23:01:00

ダニエル書。

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2021-11-20 07:02:00

なにをしたいのですか。

《インタビュー》

中神さんは、結局のところなにをされたいんですか?

 

〈中神氏〉

私は、人が人を傷つけたり、争ったりしているのを見るのが辛いんです。

それが政治であっても、納得のできる論争と言うのであればわかるのですけど、争うための争いといった罵倒したり中傷したりといった姿を見ていると、人間って結構酷い生き物だなぁと思うことも多いのです。

 

また、ひがみや妬みといったところから互いに思いもしない言葉を口にしたり、相手が傷ついているのを見てほくそ笑んでいるなんて言うことを冷静には見ていられません。

 

いじめられている人を見ても、いじめる側にも何か心の傷があるんだろうなと思ってみたり、それにも増していじめられる側にも何らかの心の傷があって、さらにいじめられると言うプレッシャーを背負わなければならないと言うような姿は本当に見ていられないものがあります。

 

単純にと言っては怒られるかもしれませんが、差別だとかヘイトだとか、そんな簡単な言葉で語られるようなものではないと思っているのです。

 

そこには、DNAを含む人間の醜い歴史と言うものが見え隠れする時も意外と多いものです。

誰がどうだとか言うつもりはありませんが、DNAの歴史をそのまま何も考えず振り回している人間の姿と言うのは本当に恐ろしいものがあります。

 

私は、こういった歴史を踏まえながら、今における人間がそういった歴史を塗り替える如くに、さらに知性と感性を磨いてよき人間となるように願って生きています。

 

そういう点において、仏陀釈尊の知恵と言う世界と、キリストの愛と言う世界を人間が正しく身に付けることによって理想的な人々が多く生まれてくることを、ただただ願っているのです。

 

私も、自分が正しいとか自分はちゃんと生きていると言えるような清貧な人間ではありませんが、常に仏陀釈尊の教えやバイブルを読みながら、今の自分はこれでいいのだろうかと思いながら日々を過ごすように心がけています。

 

大人と言うようなスタンスの人から見れば、まるでガキの独りよがりのような綺麗事を並べているように思われることも多々あると思っていますが、いたってド真剣にそう思って日々を生きています。

 

単純なことですが、もっとみんな仲良くしようよ、もっとみんな理解しあおうよ、ルールや地域の決め事以上に大事なことを忘れていないか、一人ひとりの違いを画一的に同じ枠の中にはめることができないのだから、あいつはこれができるけど、こういう事は苦手だよなと言った観点から、互いにフォローしあって生きると言う事は不可能ではないと思っています。

 

そういう人が1人でも増えるように、そして自分自身もそういう気持ちを常に高めていけるように、ただ日々を暮らしていると言う、その程度の思いで生きています。

 

だから、私が特に何をしたいかといった大層な考え方は無いのですが、ただ1人でも多くこういった仲間あるいは友が増えていくことを願っているのです。

2021-11-20 07:01:00

音楽。

《録音》

最近私は、長らく聞いていなかった、昔よく聞いた歌を日々改めて聞いています。

 

そういう歌を聴いていると、その時代を思い出すとともに、その当時にはわからなかった歌詞の中身をしみじみと感じることができる人生経験を経てきた中で、改めて自分の心や思いの中に歌詞が染み込んできて、涙したり、歌詞に書かれているような生き方を忘れていたなぁと思って、新鮮な気持ちでそういった世界観を生きていかなきゃいけないなぁなんて思うことが増えています。

 

この20年間以上は、歌や音楽を聴くと言う事はほぼなかったと言っても良い位ですが、改めて久しぶりに音楽に浸る時間を持つことによって、心に染み込んでいく音楽と言うものの素晴らしさを感じつつ、良い音楽を聴き、良い歌を聞き、それが自分の心に染み込んでいくことを感じる中で、理屈を超えた感性が改めて磨かれていくことに驚きを感じながらも音楽や歌を聴く時間の大切さを大事にしているんです。

2021-11-18 04:49:00

自ら飛び込んでいく。

私は鳥取市と言うところに生まれてから、18歳まで住んでいたのですが、意外と劣等生で先生や親戚のおじさんからお前が出来が悪いとよく言われたものです。

しかし私は、自分の好きな本を図書館で借りたり、本屋さんで買ったりと言う中で結構それなりに勉強はしていたんです。ただ、それが必ずしも学校の成績に関わる勉強であったかというとそうではなかったと言うことです。

中学生あたりから哲学だの心理学だのといった本をよく読み、高校になると物理学だの宗教だのといったところまで本を読み漁っていました。

そして、すごい著者だなぁと思う本があると、夏休み何かを利用して、東京へ行ってその著者の方のところに乗り込んでいくと言うような馬鹿な青年でしたね。

どうやったら著者に会えるか考えて、出版社に電話していろいろ言い方を工夫してみたり、出版社が教えてくれなければ、本名を調べて、昔は大きな図書館にあった日本全国の電話帳から住所を探し出してみたりと言うことをやっていましたね。

今でもずっとそうなんですけど、この人に会いたい、この先生に会いたいと思えば、とにかく乗り込む、会いに行くと言ったことが私の人生では大きな収穫や人脈と言っていいのかどうか分かりませんが、そのたびごとに大きなことを学んできたように思うのです。

何かを学びたければ、本を読めばいいし、ネットで検索をしても良いのでしょうが、そこには決められた通りの文章しか書いてありませんし、直接先生などから話を聞けば、本に書いてあること以外のことをお話しくださったり、本にはこう書いたけれど本音はこうなんだと言うようなことも教えてくださったりしていました。

何かを学びたければ、本を読めばいいし、ネットで検索をしても良いのでしょうが、そこには決められた通りの文章しか書いてありませんし、直接先生などから話を聞けば、本に書いてあること以外のことをお話しくださったり、本にはこう書いたけれど本音はこうなんだと言うようなことも教えてくださったりしていました。

私も講演をすることが多いですが、あらかじめ決めた内容を話そうと思っていても、聴衆の方々の雰囲気によって内容が変わっていくこともよくあります。

つまりそれが生の学習と言うことなのでしょう。

こういった生の人間と人間が関わって教えたり教えられたりと言う事は、ズームだとかネットだとかのやり取りではできないことではないかと思っているのです。

学校の授業がねぇ…ネットで行われるようになれば、学校の先生の本来の授業の流れの中にはない、その先生自身の実体験などから話してくれるような、いわば無駄話と言っても良いのかもしれませんが、そういうものが話せなくなるんですよね。

でも、私たち生徒って、本筋の話よりその先生の個性から出てくる無駄話のような、本当はこうなんだぞといった話が今も心に残っている気がします。

どこかでビデオに撮られているかもしれないなんて思いながら先生が話をするとしたら、決まった事しか話せないと言う思いにもなられることでしょうし、親も受験に関係のないような話はしてもらわなくて良いと思うようなことが起こってくるんでしょうねぇ…

けど、教科書をそのまま暗記するような勉強では何も身に付かないと思うのです。

私のように、自分の好きな勉強をその先生の所まで乗り込んでいって勉強するような変わった人間だからそんなふうに思うのかもしれませんが、とにかく学校の授業は先生の熱意も感じられないし、先生も多分つまらないんだろうなぁなんて思って聞いていた時もありました。

やっぱり、こうじゃなければだめだと言うような風潮が日本はつよいですから、偏差値を気にしながら無難に勉強をこなしていい大学に入り、良いところに就職をするなんて言うレールをひかれた人生を大人も子供も歩んでいるんでしょう。

けれど、人間や命には生まれながらのある一定のベクトルと言うと難しいのかもしれませんが、その命がどうしたいかと言う事は、既に与えられてこの世の中に生まれてきているように思うのです。

それが、社会のルールや常識やシステムの中でだんだん見えなくなってきて、ひかれたレールを親子共々に進んでいくと言う以外になくなってしまった時、その命がその命のままでいいのに、無理して着飾った命を生きようとすることになってしまうんじゃないんでしょうか。

そういう命は、どうやって生きたらいいかわからない、何がしたいのかわからないといったふうになっていて、社会が取り入れているものの中に埋没していく、はまり込んでいくと言うことになって息苦しいと言う生き方を強いられてしまうように思うのです。

いくら便利だからといって、生身と生身の人間関係の触れ合いを忘れてしまってはそれこそ人間がアンドロイドやAIとそれほど変わらないものになってしまうように思います。

決して私が良いかどうかではなく、まずは興味のあるところを学び、その人に会ってみると言う事は非常に有益だったなぁと人生を今一旦振り返ってみています。

もちろん現在は、ホンモノのひととニセモノのひとが多いので、どの先生が良いのかと言うことすら判別できなくなっていると言う事は悲しい限りだと思っております。