インフォメーション(日々更新中)
2021-11-26 07:55:00
金持ちになれない理由。
《なぜ、だいたいの人は金持ちになれないのですか?》
そもそも、資本主義はロスチャイルドあたりがシステムを作って、国際通貨基金や連邦準備銀行なんかから、各国にお金を貸し付けるという方法をとったので、スタート段階から資本主義国は「負債国」なんです。つまり、国が借金から始まっているので、起業しようがなにをしようが、「融資や投資」から始まって、たとえ自己資金から何かを始めたとしても、結局どこかの段階で「融資や投資」に頼ることになるんです。
つまり、資本主義は「支配主義」から生まれているので、個人レベルでも「いっときの成功」はあっても、長続きしないか、どこかとM&Aするとか、資本提携をしないとやっていけない「システム」なんです。
アメリカが、イギリスとの関係で「株式会社アメリカ」で、担保が国民の労働力であるといったことは意外と知られていません。
2021-11-25 08:01:00
なぜ生きるのか。(生きることに意味はないからこそ、生きる意味を求めてしまうのでしょうか?)
《生きることに意味はないからこそ、生きる意味を求めてしまうのでしょうか?》
今のところ現代は、資本主義に振り回されて、生きる意味をお金儲けと言うところに設定してしまっていることを自覚していない人が意外に多いと思います。つまり、神は死んだのではなく、神をどのように認識してその存在やバイブルの中から、一人ひとりの生きる理由やなぜここにいるのかと言う理由を見出して生きている人も世界的にはたくさんおられます。生きる意味がないと言うことが科学的、哲学的に語られるのは、神の存在やバイブルに書かれていることをどのように読み込んでいったら良いのか分からなかったり、仏教の経典においてもそこに書かれていることが、人間が感覚器官を使ってとらえるだけの存在でしかないと言う、それらに、教えられている人間の存在理由や個人の存在理由を読み込むことができなくなってしまっているんだと思います。ですから、あなたはなぜ生きるのかと言う質問を投げかけられた時、お金儲けであるとか、何らかの成功を目指しているとかそういった浅い回答しかできない人が現代には多いと思うのです。つまり生きることに理由や意味があるのに、その本質を見失って、世間的に納得されるような生きる意味を知らず知らずに擦り込まれて、そういった生きる意味に振り回されていると言うことではないかと思っています。
2021-11-25 04:32:00
聖書に触れる。
《書き起こし》
日本人には、世界で起こっている事はまるで陰謀論のように思っている方も多いようですし、YouTubeとかネットの世界でもそういったことが語られているように思いますね。
しかしねこれはね、聖書がわからなければこの世界の動きをよく知る事はなかなか難しいんですよ。
今まで、ユダヤが世の中を動かしているなんて言う陰謀論のようなことを書かれている方も多いようですし、外国の方で日本語の本を書かれている人でも、やはり陰謀結社があってと言うような書き方や、裏で動いている利権団体と言うようなことがあるんだといった書き方が多いんですよ。
どうして外国の方が日本語で書かれている本の内容に、なぜ旧約聖書や新約聖書といったことが書かれていないのかと言う点が非常に違和感を感じるんですよ。
世界の動きにはね、聖書っていうのは大きく影響しているんです。例えば、陰謀結社みたいに言われているフリーメースンリーでもホーリーバイブルいわゆるこれも聖書ですが、みんな欧米の組織や人と言うのは聖書抜きでは語れないと言う側面が大きいんです。
まぁその聖書をどう読んだり扱ったりするからと言うことで主義主張が変わってくるわけですが、それが組織や団体を運営している人たちのリーダーがどういった解釈や扱いをするかと言うことが大きな課題なんでしょう。
アメリカの大統領の就任式何かで、やはり聖書に手を置いてと誓いますが、アメリカ大統領と言うのは基本的には、神が選んだ人と言う定義になっているようですね。
だから、日本のような解散と言うのはほぼなくて、中間選挙と言うのことで、その大統領が本当に神に選ばれた人と言っていいかといったことをもう一度国民が考えていくと言うことなのだと思っているんです。
まぁ、中国や日本といった国は、キリスト教と無縁のように考えておられる方が多いと思うんですが、昔中国には、キリスト教のネストリウス派と言ういわゆる景教と言われるやつですが、そういうキリスト教の教えが、道綽さんや善導さんの時代に活発に布教をされていたようです。
どうもこれが、観無量寿経と言う経典の制作に影響与えているように聞いたことがあります。
この景教と言う教えから引っ張ってきたんじゃないかと言うような内容が見られると言うことなのです。
そういう意味で、キリスト教と言うのは、日本にも古くから入っていて、仏教に混じっているので日本人はよくわかっていないようですが、やはり世界中にキリスト教と言うのは根付いていると言っていいと思うのです。
特にこれからは、新約聖書の時代に入っていくと言われれているようですから、福音書と言われている新約聖書の内容ぐらいは、お坊さんでも認識しておく方が良いのではないかと思うのです。
そういえば、真言宗で十字を切ったりしますが、高野山の中には中国の景教の 碑文のレプリカがありますし、この十字を切ると言うのは、キリスト教の十字架からそのような儀礼ができたと聞いたことがあります。
そういう点で、昔の方が宗教や思想等において、日本なんかでもけっこうなグローバリズムの中で宗教が発展してきたように考えることができると思っているのです。
さて、これから新約聖書の時代に入っていく中で大きな役割をされる大統領が予期世界を実現すると言う大事業をされるのでしょうから、宗教が違うとか、キリスト教なんか日本人には関係ないなどと思っていると、世界の動きに置いていかれるように思うんです。
そういう意味で、お坊さんに限らず多くの日本人が聖書に触れていくと言うことをやってみると言うことが大事なのではないかと思っているんです。
まぁ、この場合カトリックではなく、プロテスタントのキリスト教と言うことになるとは思うんですが…
2021-11-21 14:07:00
張り合う。
《聞き取り》
関東の人と関わっていてわかったことなんですが…
例えば「この人は〇〇と言う肩書きの人です」と紹介したら、相手方が「私は肩書にこだわらず誰とでも同じように接します」といった表現を使われることが多いように思います。
このこと自体に問題は感じませんが、関東の方は「その相手方の肩書と張り合おうとしている」ように思うんですね。
「肩書にこだわりません」と言っている時点でこだわっておられるように思うんです。
これが大概関西ならば、「じゃぁその人の知っていることやその肩書に関することから何かを得ていこう」と考えるんです。
私は、相手がどういう人であろうと同じ様に接します。
と言った事は、あえて口にする必要もないぐらい当たり前のことでなので、なぜこの人はあえてこんなことを言うんだろうと思って聞いていたんです。
そこで、よく聞いているとやはり「張り合おうとしている」と言うことを感じたんです。
これが関東の人と言う限定をしてしまってはいけないのかもしれませんが、関西人ならば、「じゃぁその人脈もらっちゃうか、といったようなことも含めて得るものがある」と考えるものです。
逆に、相手の肩書がわからなくても、どんなに何の肩書もなさそうな人であっても、何かしら得るものは必ずあると言う前提で人と関わっていくことが大切ではないかと思うんです。