インフォメーション(日々更新中)

2021-10-22 03:58:00

ヒトラー‼️

【浄土系仏教に詳しい方に質問です。『歎異抄』には悪人正機という言葉がありますが、ヒトラーのような極悪人は浄土に生まれ変われると思いますか?もし彼が極楽往生したらホロコースト被虐殺者の人々が怒りませんか?】

 

親鸞と言う人の教えについて、浄土往生を死後のこととするのは、西本願寺の巨大勢力による教義で、親鸞の教行証文類が明確になっていない時代の権力闘争に勝った勢力によります。しかし、その学派以外の諸学派は往生を現生として、死後は悟り(滅度)であると教行証文類によって理解されています。この巨大学派は、阿弥陀如来を一神教のように崇拝して、とにかく信じろと感謝しろという「封建社会」に貢献する内容なので、封建主義国家において都合がよかったのです。その他の学派は救われるのは救うものになることで、無量寿経という経典にある法蔵菩薩道を歩むことをメインにしており、きわめて現実的な論によっています。また歎異抄自体が実際には出自不明なので、高田派という親鸞直弟子の派では用いられていません。また、ヒトラーのホロコーストは、ヒトラーの案ではなく、側近がやったことをヒトラーがやったと歴史に刻んだのが、ヒトラーが狙ったイギリスのロスチャイルド勢力によります。ヒトラーもロスチャイルド家の末裔ですが、南アメリカに移住して、家系の中で不遇な中にいましたが、ヒトラー自身が、演説以外に能力はなかったなどとFOXが盛んに報じています。CSナショジオTVでヒトラーについて、不遇な子どもということから、多くの資料映像でヒトラーのイメージを本来のものに変えていっています。ヒトラーの幼児期については「ヒトラーのセックスライフ」などで明確にされて、「女性について苦手意識」があり、これは幼児期の父親からのDVの影響で母親を求めていたといったことや「私はドイツと結婚した」と演説で述べているから、と言っていたなどのように、本来のヒトラーがどういうひとだったかを報道しています。このようにヒトラーのイメージさえ、プロパガンダによって虐殺者にされていますが、よほどスターリンやその他の指導者の方が虐殺者です。仏教で言っているように、私たちは無明ですから、なにが正しいなんて言える立場にないのです。これが親鸞の教行証文類に明確にされているポイントでもあります。

2021-10-21 18:57:00

ひとり子‼️

「一子地」を「ひとりご」といって、真宗では一般的に「親子の関係による子ども」という意味で使われますが、、

 

この「一子」の語源は、あくまでも限定的に「シャカとラゴラ」の親子関係におけることを指しており、各経典では「一子羅睺羅」と表現されることが多いのです。

 

シャカは「妻」と子どもである「ラゴラ」を残して出家し、ラゴラに「地獄の苦」を味わわせて、ついには「ラゴラ」は「さとりを得る」ことになりますが、、

 

ラゴラが「地獄の苦」のなかにいるときに、あえてシャカは手を差し伸べてはいません。

 

しかも「ラゴラ」は、シャカの弟子として「仏教教団」に入ったため「世俗の親子の情」のなかに「ラゴラ」を置くことはなかったのです。

 

そういう意味では「法」は「あくまでも《教え》のなかに内在して」おり、直接「阿弥陀仏がなにかをしてくれる」ということはないのです。

 

「ラゴラ」も「師であるシャカの《教え》」からさとりを得たのであり、「シャカ」が息子だからといって「何かをした」ということではないのです。

 

「阿弥陀仏」がわたしたちを「一子のように哀れむ」という場合、あくまでもその「教え」をよりどころとせよという意味であると解釈する方が、より仏教として適切といえます。

2021-10-20 06:38:00

遊び戯れる‼️

【本願は命の願い】

教行証文類の「教文類」には、「無量寿経」という経典が真実であると書かれています。

この経典に「阿弥陀如来」という文言は出て来ません。

無量寿という「命の願い」が真実だと記述されていると思っていいでしょう。

つまり、「自分の命の願いに嘘をつかない」という命のあり方を教えていると思うのです。

「私の命に授かった願いは、計らうことなき素直な気持ち」だということです。

「どうしたらいいか?」は命が教えてくれるのです。

人間は「計らって、企てて生きよう」とします。

そこで「悩んだり、感情に流されて」しまうのです。

教行証文類の信文類に「私に真実心はない」という教えがある。

と、教学者はいうでしょう。

それは「我執心」にとらわれて苦しんでいるということを教えられているのだといえるでしょう。

純粋に世の中を生きていこうという命のあり方で言えば、「自己に湧き出す願いに嘘をつかない」ということが、「仏性、如来」を生きる「命の本願」の世界感を生きることになると言えるでしょう。

仏教は「教条や倫理」ではありません。

つまり「ねばならない」を教えているのではありません。

真実心に生きることで、「我執による、怖れや苦悩がなくなって生きていけること」を教えているのです。

教えを生きることで、「煩悩の林の中を、遊ぶが如く、戯れる如くに生きられる」ことを教えてくれているのです。

 

2021-10-20 06:19:00

五念門を楽しむ‼️

今日はお久しぶりにお目にかかれてうれしく思いました。

今日お話が途中になりましたが、五念門の具体的事例として、

まずは、おっしゃっていたように家族と共にお仏壇で礼拝すると言うことをやっていただき、その延長線であったり、ご家族との夕食の時間でもどのようなシーンでも良いので、まずは仏陀釈尊の無常無我の教えによって思うことなどを語り合っていただいたり、日々の中でご自身が病気などを通してどういうところで怖れを感じて自分自身にプレッシャーをかけていたかといった実体験に基づくことを話題にしていただくと言うのも良いと思います。

それが、法蔵菩薩の行である五念門の真理への屈服礼拝から、阿弥陀の光明によって知らされた自ら作り出したプレッシャーに自らが振り回されていたことに目覚めさせられた。

と言ったことを讃嘆として語っていかれたり、ご家族のご意見を聞いてみられたりするのも良いでしょう。

そして、〇〇様の命がどのように動こうとしているかと言うことを計らいなく純粋に見つめて、その〇〇さんの命の願いについても、話題にされて行かれたら良いかと思います。

そして、人間観察などをするなかで、世の中の状況や情勢をも観察の対象として、その中で感じたり思うことも話題にされたら良いかと思います。

そういった礼拝、讃嘆、作願、観察から自分の日々の歩みと願い(命の目的)を明確にしていきながら、それを実行していくと言う回向発願の歩みをスタートされると良いかと思います。

それは、人間の楽しみの中で行うこともできると思いますし、仏教は単純に真理を明確にし、迷う事は無いですよ、パニックになることも、不安に怖れることもありませんよと言う教えです。

こうであらねばならないと言うことを教えているものではありません。

ねばならないと言うありがとう歩んでしまうと、教条主義になって本来苦から解放される教えが、そうであらねばならないという新しい苦を生んでしまいます。

煩悩の林に遊ぶが如く、戯れるが如く、〇〇さんの命が仏教によって、より楽しくなっていく姿をご家族に見ていただくと言うことが、大会衆を導いていくようになっていくことでしょう。

大乗仏教の根幹とも言える華厳経を親鸞さんも根幹にしておられると思いますが、華厳経の善財童子が53人の人を訪ねていって人間と命のあり方と悟りと言うことを明確にしているのですが、この善財童子は、遊女なども訪ねて学びをされています。

そんなふうに、すごい人とか偉い人とかそんな人に学ぶと言うよりもどんな人でもどんなシーンでも観察すると言う事は大きな学びや知恵になるものです。この観察と言うことを難しく考える必要もなく、人間観察ウオッチングという気軽な感覚で取りくまれる方が良いものです。

2021-10-17 20:05:00

仏教3テーマ‼️

「無為」ただ在るのみ。。以上‼️

 

「仏教の本義とさとった状態」

 

「在る」というところに「苦はない」

 

じゃあなぜ「利他」るか。。「在るという状態がいいと思える人を増やす」ことを、

 

【「在る」になった方が「楽」だよ】と「在る状態」から「遊び」として行なう❣️

 

「遊煩悩林。。。」である‼️

 

ーーーーーー

 

脳は電気とホルモンによって成り立っていて、電磁波を出している。

電磁波の多いところでは、ノンレム睡眠に入りにくくなる。

脳は電磁波を受け止めてもいるのだから、少なくとも良い電磁波のところにいる方がいい。

ケンカしてるとかトラブっているような人のところや電話でケンカしてっるとかっていう電磁波などのあるところは避けたほうがいい。

実際私はそれらを感じ取る能力が強いので、都会の人には気をつけていただくことをお勧めします。

 

東京行くと、新幹線あたりから、かなり電磁波を感じ、東京にいる間はかなり疲れます。

電磁波で。。

 

電磁波も穏やかな電磁波であればとても安定します。

寺にいても、近隣の人の脳波を感じて時には疲れます。

 

皆さん何か考えたり感じる時には、前頭葉に意識を集中させ、

扁桃体(間脳や延髄に近いので動物脳に近いのでおよそ論理的ではなく感情的になる部分)に、脳の電流が流れるのを抑制した方がいいですよ!

 

ご参考に。。

 

ーーーーー

 

仏教は科学か?

 

仏教はもともと真理を求めたブッダに始まり、大乗仏教に至っても、存在論や時間論、宇宙論などと、現代物理学と同じテーマを探求しています。

 

この量子論に書かれている内容が、大乗仏教の祖とされる龍樹という人の「空論」いわゆる「般若経」についての論にある時間論、そして龍樹に次ぐ大乗仏教のもう一人の祖である世親(ともにインドの人)の唯識論(存在の全てが認識によるというもの)など、仏教の論と合致します。

 

そういう意味で本来の仏教を一般の方は、宗教という枠にくくりますが、まともな僧侶は科学とはいかずとも哲学として捉えていますし、事実仏教は東大でも、京大でも「インド哲学」とあつかわれます。

 

ですから〇〇仏、〇〇菩薩っていうのは、現代のように教育を受けている人がいない時代に、どう説明すれば、多くの人々が真理を探究できるかということから考え出された方便なんです。

 

そして、人々がその方便を通して個々の我執が捨てられることになり、多くの人が真理をさとり、苦悩が滅して、真理と一体化した境地を生きることができる。

という、科学であり哲学、心理学なんです。

 

ですから仏教の説く内容は、量子論の量子の組み合わせが存在であるという基本と、シュレーディンガーの猫や不確定性原理、多元世界(パラレルワールド)などとさほどかわらないのです。

 

ただ哲学の領域を出ないのは、数値化しないからです。

だれかめんどくさがらず、仏教に説かれることを物理学のように数値化すればいいのですが、医学でも多くの人が興味を持たない、生死にもかかわらない病気を研究する医学者が少ないように、仏教学者も仏教を数値化しようと試みる必要もなければ、したところで人の生死や仏教自体が変わるわけでもない。

だからする必要がない。

 

量子論だって興味のない人が多いので、多くの人は「量子ってなに?」という領域を超えようとしませんが、物理学というくくりですから、その業界では認められますが、仏教界で、仏教を数値化したところで、理解しようとする人は少ないし、それにかかる経費や人材がない。

 

でも仏教は数式化できる内容であり、物理学や心理学、宇宙論など、全ての総合理論として、単なる科学以上の学問になるでしょう。

 

仏教と現代科学で、理想的な人間のモデルとなるアンドロイドも作れるでしょう。

 

プログラムの内容をさとりというゼロへの1と0(ONとOFF)のプログラミングをして、アンドロイドの向かう意思をゼロへ向かうための意思(智慧)として組み込みます。

 

そしてアンドロイドに「数式化」した「慈悲」のプログラムを組み込み、多くの人をさとりのゼロへ、ともに向かうようにすればいいのです。

 

この智慧と慈悲について、まずさまざまな統計を取ることから数値化は始まるでしょう。

どういう見方があるか、どういう時にどういう感情になるか、そういったことを多くの前提を元に数値化します。

 

そしてそれらがどうアプローチすれば、智慧と慈悲という(知と情)になり、さとりへ歩み出すかということを数式化します。。。

 

とはいえ現在の仏教学者がこんなめんどくさいことをするわけがありません。

しかしこれをやることができれば、仏教は科学になるんです。

そういう意味では科学者の方が「仏教は理解できる」とよくおっしゃいます。

 

しかし仏教の智慧(智慧という字は、雑草を払い明らかに見るという意味で、雑草は煩悩を意味しますから、仏教はこの文字を使います。)と慈悲による輪廻の解脱という側面まで数式化することは「臨死体験のデータ」の収集など困難を極めます。

 

そういう意味では仏教は、科学が今後証明するであろう世界を先取りしていると思っています。

ということは仏教は仏教でしかあり得ず。

科学でも哲学でも宗教でもない、「仏教」なのでしょう。

 

ちなみに最近の「宗教」という言語は「訳の分からないことをも信じる」とか「怪しい」というニュアンスがあるので、「仏教は宗教でもない」とここでは定義しています。

 

 

ですから〇〇仏、〇〇菩薩っていうのは、現代のように教育を受けている人がいない時代に、どう説明すれば、多くの人々が真理を探究できるかということから考え出された方便なんです。

 

そして、人々がその方便を通して個々の我執が捨てられることになり、多くの人が真理をさとり、苦悩が滅して、真理と一体化した境地を生きることができる。

という、科学であり哲学、心理学なんです。

 

ですから仏教の説く内容は、量子論の量子の組み合わせが存在であるという基本と、シュレーディンガーの猫や不確定性原理、多元世界(パラレルワールド)などとさほどかわらないのです。

 

ただ哲学の領域を出ないのは、数値化しないからです。

だれかめんどくさがらず、仏教に説かれることを物理学のように数値化すればいいのですが、医学でも多くの人が興味を持たない、生死にもかかわらない病気を研究する医学者が少ないように、仏教学者も仏教を数値化しようと試みる必要もなければ、したところで人の生死や仏教自体が変わるわけでもない。

だからする必要がない。

 

量子論だって興味のない人が多いので、多くの人は「量子ってなに?」という領域を超えようとしませんが、物理学というくくりですから、その業界では認められますが、仏教界で、仏教を数値化したところで、理解しようとする人は少ないし、それにかかる経費や人材がない。

 

でも仏教は数式化できる内容であり、物理学や心理学、宇宙論など、全ての総合理論として、単なる科学以上の学問になるでしょう。

 

仏教と現代科学で、理想的な人間のモデルとなるアンドロイドも作れるでしょう。

 

プログラムの内容をさとりというゼロへの1と0(ONとOFF)のプログラミングをして、アンドロイドの向かう意思をゼロへ向かうための意思(智慧)として組み込みます。

 

そしてアンドロイドに「数式化」した「慈悲」のプログラムを組み込み、多くの人をさとりのゼロへ、ともに向かうようにすればいいのです。

 

この智慧と慈悲について、まずさまざまな統計を取ることから数値化は始まるでしょう。

どういう見方があるか、どういう時にどういう感情になるか、そういったことを多くの前提を元に数値化します。

 

そしてそれらがどうアプローチすれば、智慧と慈悲という(知と情)になり、さとりへ歩み出すかということを数式化します。。。

 

とはいえ現在の仏教学者がこんなめんどくさいことをするわけがありません。

しかしこれをやることができれば、仏教は科学になるんです。

そういう意味では科学者の方が「仏教は理解できる」とよくおっしゃいます。

 

しかし仏教の智慧(智慧という字は、雑草を払い明らかに見るという意味で、雑草は煩悩を意味しますから、仏教はこの文字を使います。)と慈悲による輪廻の解脱という側面まで数式化することは「臨死体験のデータ」の収集など困難を極めます。

 

そういう意味では仏教は、科学が今後証明するであろう世界を先取りしていると思っています。

ということは仏教は仏教でしかあり得ず。

科学でも哲学でも宗教でもない、「仏教」なのでしょう。

 

ちなみに最近の「宗教」という言語は「訳の分からないことをも信じる」とか「怪しい」というニュアンスがあるので、「仏教は宗教でもない」とここでは定義しています。