インフォメーション(日々更新中)
2021-09-12 20:33:00
親鸞とトランプさん
親鸞さんは真宗の教えは「悪を転じて徳と成す正しい智慧」であると言っています。
ものごとに「悪いこと」を悪いことと定義する前に、このものごとがなにか変化できるキッカケではないかと思って、変化させる智慧を持つことで、人生で起こることが、なかなか「イケる」ってなると思うのです。
あのトランプさんは、負けたのではなく、負けたことで「裏切り者や寝返るひと」を炙り出せると考えたようです。
だから、かえって負けて、さらによかったと言うふうになっているようです。
そういう意味でトランプさんは終わっていないのです。
やはり、人は強い人がいたり弱い人がいると言うことではなく、思考を転換できるクセをつけていれば、どんな状況でも切り替えが早くなって、状況を好ましい方向に転じることができるようになるものです。
それができるかできないかと言うことだろうと思うのです。
わたしも会社を倒産させたことで、多くを学びそれが新しい道になっていく経験があります。
負けたと言う状態も勝ったと言う状態もないのです。
その出来事を「どう転じることができるのか」ということです。
転じる智慧を磨いていくと、絶対的な状態というのはありません。
みなさんにもそう言うご経験があると思うものなのです。
2021-09-11 04:48:00
いまさら‼️
ここまでさまざまなことが明らかになってきているのに、いまさら「唯物論」だの「唯心論」だのと分ける意味があるのかどうか疑問を持っています。
すべてが素粒子の集合体だというところから、人間やいのちを考察することは唯物論で、そう言った素粒子などを考慮せずに人間やいのちについて考えるのは唯心論であり、その両方からのアプローチが必要かどうかなんていうことすら、現代の定義には当てはまらないと考えています。
認知症になれば認知に異常が出てくるのは確かであり、それがその認知症の人を見ている「わたしの認識によってある」といった見方には無理があると思われます。
もちろん「統合失調症の人」のいうことにもなんらかの意味があるという観点で、統合失調症の人が表現している意味内容を理解することは可能です。
こういった姿勢は「ユング」という精神分析学の開拓者が持っていたものですが、とはいえ、そこには必ずと言っていいほど「分析者の意図や無意識の観点」はそこに入っていると言えます。
つまり相手がどんな人であれ、対象者を正確に知ることは不可能と言えますし、自分自身を知ることも同じだと言えるでしょう。
だからといって、正確に知ることは不可能なのだから、そういう努力をやめるのではなく、不可能であれ可能であれ、その努力をする過程の中で起こってくる現象や意味について、それまでと異なった目覚めや発見があると言えると思うのです。
こういったことが、唯物論なのか唯心論なのかなんてどうでもいいことであり、どういった方面からにおいても可能な限り人間やいのちへの理解というのは行われるべきでしょう。
またそれらはすべてにおいて、人間やいのちにとって根本的な不利益になっては危険であるという認識も必要です。
便利だからといって、環境破壊をするようでは困るのです。
「地球といういのち」を人間が破壊することは、「人間といのち」について大いなる不利益でしかないのですから、危険だという認識は必要です。
ひとは、それが唯物論か唯心論かなんていう議論よりも、目の前のいのちとどう関わるかということを大事にせねばなりません。
2021-09-11 02:08:00
布教使不要‼️
エジプトの文化は紀元前2500年以上前からあるという。
クフ王のピラミッドがその頃のものだということだから、エジプト文化は、旧約聖書において「出エジプト記」なんていう時代よりもかなり昔から文化があったのでしょう。
そもそも人間がエジプトあたりから発生したという説もあるようです。
わたしたちは、そんな古いことまで思いも及ばないけれど、さまざまな民族が発生して、そのお互いの文化の交流はかなり古いのでしょう。
そういう意味で、ユダヤ教やキリスト教が政治や権力とともに大きくなっていったことにはすごいことだと思うのです。
なぜなら、王や権力者は「神を信じた」ということが言えるからなのです。
豊臣秀吉が、日本でそれ以前にチカラを持っていた本願寺の勢力を抱きこんで、天下統一をしたことは事実でしょう。
しかしこれは、必ずしも秀吉が「真宗(本願寺)のメンバーだった」ということではないのです。
チカラを利用したにすぎません。
それ以前に「摂政だの関白だの」という役職にこだわった時点で「天皇」という神のもとにあったのですから、それを越えて真宗(本願寺)を信仰したとはいえないでしょう。
しかし西洋においては、いままで「ローマ法皇」が権力を持っていたことは、為政者はほぼ、エセであれなんであれ「クリスチャン」だったと言えると思うのです。
もちろんローマにバチカン市国ができるまでの、出エジプト記以降もおよそ「王たる人」は「唯一のGod」を信仰していたからこそ「唯一のGod」を潰す勢力が消えていったのでしょう。
それはまるで日本の「天皇」のようだったと言えると思うのです。
わたしはこう言ったことを鑑みて、東西の交流はじつはかなり古く、シルクロードの紀元前2世紀を越えるのではないかと思うのです。
そういう意味で、仏教とキリスト教の交流やそれ以前の宗教文化の交流はあったと言えるでしょう。
だからといっていいかどうかは不明ですが「聖書と経典」には似通った例え話や教えがあります。
もとエジプトで太陽神「ラー」に似た仏が阿弥陀仏であったりします。
古くから太陽の存在とその昇りや下がりに意味を感じていたのは、エジプトもインドも同じだったのです。
太陽というのは、およそ天体において「不思議な存在」だったのは、当時なら当然のことでしょう。
また、同様に「月」も同じように神秘であったといえます。
こう言った、古代宗教と仏教の関係やキリスト教と仏教の関係といったことは、昭和の書物にはよく書かれていましたが、現代の真宗の本などにおいて、ほぼこう言ったことに触れられることがなく、「とにかく阿弥陀仏唯一が重要だ」と言った論調がほとんどであることは、「真宗カルト化」に注意せねばならないと危険視しているのです。
それは「自滅の危険」なのです。
僧侶であっても世界の動きを知る上でも、キリスト教の基礎知識ぐらいは知っておくほうが、現代には必要だと思うのです。
現代の知識層は「坊さんよりわしの方がよく知ってる」と思っている人も多く、「アホらしくて無知な坊さんの話なんかにお礼を出せるわけがない」という役員さんから「布教使不要」という意見が各所出ているようです。
そういう意味でわたしは「コロナ」が終わった後に、以前と同じように布教が行えるとは思っていません。
どんどん「お経だけの先祖供養法要」が増えて、日本の良き教えまでもが失われていくでしょう。
わたしはそれを案じているのです。
2021-09-10 04:21:00
キミのいのちじゃない‼️
そういえばいつか「キミは自分のことをアホという」けれど、そもそも「無我」なのだから「キミがキミのいのちにアホというのはおかしい」んじゃないか!
キミのいのちと「キミ」とは違うだろ!
と言われたのを思い出した。
「いのちを自分の持ち物」のように思うのは理法にかなわないことになる。
まだまだ修行が足りませぬぞ!
と仏陀とJesus Christにいわれそうである。
「わたしのいのちはあるがままでアホなのだ」って。。
まだいうか、わからんアホやなぁ(笑)
ただひたすらに「仏陀とJesus Christ」に、このいのちがなすべきことを尋ねるのみなのです。