インフォメーション(日々更新中)

2021-09-15 03:39:00

野生の鳥と畜生‼️

お金があって、事業を成功させて、贅沢な暮らしをしていれば、そのひとは絶対的に「不幸」だと言えるのじゃないのかなぁと思うのです。

こういう状態を維持することってけっこう大変だし、家族と過ごす時間もなくなって、子どもや家族もお金持ちという錯覚を持って生きていくと、いざという時になにもできない人になるものなのです。

日本って、親や社会通念で大学までのレールを引かれて、なに学部でもいいから大学に行きなさいって、その学部は自分に合わないと思っても「偏差値」だとかなんだとかで、勝手に決められてしまうのは「不幸」としか言えないものです。

その時点でかなり「カゴの鳥」だからです。

野生のように自由に空で羽ばたいたり、餌のある時もない時もあるけれど、自由で自然に沿って生きていると、そういう感性や知性や知恵が自然と身につくものです。

野生の仲間の絆は強いものです。

いい大学からいい会社のサラリーマンは、けっきょくビジネス上の付き合いでしかないので、簡単に壊れるように思うのです。

人脈っていっても、ホントにいい人脈をサラリーマンさんには紹介できません。

仲間を利用するようなことになるからです。

畜生という言葉があります。

畜されて生きているもののことですが、もしあなたが「サラリーマンであっても、自己確立していない愚痴の人」ならば、そういうことになるかもしれません。

サラリーマンさんを、バカにしているのではないことはみなさんわかっていただけると思います。

親に魂を売り、大学行くのに借金して、返済しながら大学の仕組みに魂を売り、会社に魂を売るようなひとが多いと愚痴の世界になります。

「不満分子」ということなのです。

みなさん、みなさんが幾つであっても、自己確立して野生の自然のいのちを生きていかれるようにしたら、とくになにも持ち物は必要ありません。

どっちにしても「安心安全」で生涯を終えられません。

それよりも怖れを抱きながら生きることの方がシンドイと思うのです。

2021-09-13 21:31:00

教行証文類についてお尋ねに回答を載せました‼️

以下、専門的ですが、よろしければご覧ください!

ラストに、一般の方にも読んでいただきたい記述があります。

(コロナ後のこと)

 

https://r.goope.jp/sainenji/free/imadasan

2021-09-12 20:33:00

親鸞とトランプさん

親鸞さんは真宗の教えは「悪を転じて徳と成す正しい智慧」であると言っています。

ものごとに「悪いこと」を悪いことと定義する前に、このものごとがなにか変化できるキッカケではないかと思って、変化させる智慧を持つことで、人生で起こることが、なかなか「イケる」ってなると思うのです。

 

あのトランプさんは、負けたのではなく、負けたことで「裏切り者や寝返るひと」を炙り出せると考えたようです。

だから、かえって負けて、さらによかったと言うふうになっているようです。

そういう意味でトランプさんは終わっていないのです。

 

やはり、人は強い人がいたり弱い人がいると言うことではなく、思考を転換できるクセをつけていれば、どんな状況でも切り替えが早くなって、状況を好ましい方向に転じることができるようになるものです。

それができるかできないかと言うことだろうと思うのです。

 

わたしも会社を倒産させたことで、多くを学びそれが新しい道になっていく経験があります。

負けたと言う状態も勝ったと言う状態もないのです。

その出来事を「どう転じることができるのか」ということです。

転じる智慧を磨いていくと、絶対的な状態というのはありません。

みなさんにもそう言うご経験があると思うものなのです。

2021-09-11 04:48:00

いまさら‼️

ここまでさまざまなことが明らかになってきているのに、いまさら「唯物論」だの「唯心論」だのと分ける意味があるのかどうか疑問を持っています。

 

すべてが素粒子の集合体だというところから、人間やいのちを考察することは唯物論で、そう言った素粒子などを考慮せずに人間やいのちについて考えるのは唯心論であり、その両方からのアプローチが必要かどうかなんていうことすら、現代の定義には当てはまらないと考えています。

 

認知症になれば認知に異常が出てくるのは確かであり、それがその認知症の人を見ている「わたしの認識によってある」といった見方には無理があると思われます。

 

もちろん「統合失調症の人」のいうことにもなんらかの意味があるという観点で、統合失調症の人が表現している意味内容を理解することは可能です。

 

こういった姿勢は「ユング」という精神分析学の開拓者が持っていたものですが、とはいえ、そこには必ずと言っていいほど「分析者の意図や無意識の観点」はそこに入っていると言えます。

 

つまり相手がどんな人であれ、対象者を正確に知ることは不可能と言えますし、自分自身を知ることも同じだと言えるでしょう。

 

だからといって、正確に知ることは不可能なのだから、そういう努力をやめるのではなく、不可能であれ可能であれ、その努力をする過程の中で起こってくる現象や意味について、それまでと異なった目覚めや発見があると言えると思うのです。

 

こういったことが、唯物論なのか唯心論なのかなんてどうでもいいことであり、どういった方面からにおいても可能な限り人間やいのちへの理解というのは行われるべきでしょう。

 

またそれらはすべてにおいて、人間やいのちにとって根本的な不利益になっては危険であるという認識も必要です。

 

便利だからといって、環境破壊をするようでは困るのです。

「地球といういのち」を人間が破壊することは、「人間といのち」について大いなる不利益でしかないのですから、危険だという認識は必要です。

 

ひとは、それが唯物論か唯心論かなんていう議論よりも、目の前のいのちとどう関わるかということを大事にせねばなりません。

2021-09-11 02:09:00

911‼️

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今日は911です。

この雲はなんなのでしょう?