インフォメーション(日々更新中)
2019-09-15 23:40:00
五果門が出門なワケ‼️
五果門の「薗林遊戯地門」が「出門」の結論なら、「如来の家(宅門、屋門)」から出て「自在に教化する」ということなら。。
「阿弥陀の世界」から出て、「セクトを出る」という意味であるといえるでしょう。
十牛図の内容のようなもので、「利他教化」する上で「セクト意識はジャマになり」ます。
「阿弥陀如来」の世界観に「入門」して、「阿弥陀」から出て「如来、菩薩」などとして「教化する」。。
ここに「重要な意味」があると思うに至っています。
2019-09-13 00:25:00
在るけど有るではない‼️
「有ると在る」は違う。
「有る」は「実体としてある」を意味して、「在る」は現象や、概念、認識という次元において「在る」を意味するので、
「仏は在る」「自在」という表現において、ただ「在る」のです。
「神は在る」のであり「有る」のではない、という次元理解がないとわかりにくいかもしれません。
「わたしやあなたも」ただ「在る」のであり「有る」という次元においては「無我」なのです。
2019-09-11 22:31:00
なぜ宇宙になったではなく「如来や神」なのか❣️
「亡くなったら宇宙になるということでしょうか?」について❣️
少し砕いたほうがいいと思ったので、追記します。
亡くなったひとが、「宇宙になった」という「漠然とした表現」では、漠然としたままで、次元を定義できないのです。
だから「智慧の教え」を伴った「仏(如来)になって」or「神(主)とともに」という「高次元の位置から」わたしの「次元を上げる存在になった」という意味なんです❣️