インフォメーション(日々更新中)
2019-09-11 18:53:00
現生往生か来世か、ここがポイント‼️
「往生が現生か来世か」なんていう議論は、「浅いところをなぞった議論だ」とよくわかってきました。
教えを聞くということ、教えに生きるということは、「時間論」と「次元論」を根底にして聞けば、
どんどん「深く広く」なっていくので、「過去法を見つめて」至らない次元を考えて「未来する世界観」を「憶念しながら」「現在する法」のなかに「さらに多くの次元を観ていると、「現に在する法」が変わって行くのがわかります。
「自然法爾」に「任運」にそのように観ていると「そうなっている」のが、よくわかりました。
このたび「実母の死」において、「正直、自分はそれを目の当たりにしたらどうなるか」と思っていましたが、
この「自然法爾」のなかで、キリスト教のよき「牧師」さまとも語り合えて、そこから「真宗」を見つめなおし。。
能美さんの法話を聞いていて「阿弥陀さま」という「人格性」に込められた「真実」が伝わってきて、
有為法のような「阿弥陀さま」がほんとに「能美さんの世界観」の中に如来を生きておられる明確な「さとりへの歩み」を感じて、
また、Quoraの回答を通して、いろんな角度からの問いに触れ、
そういうなかで、周囲に起こってきていることが変化して、「曹洞宗の住職さん」と「牧師さん」「そしてわたしたちが真宗僧侶」として「葬儀」をしたという、
ありえないような「宗教者」の一体感の中での「お勤めの時間と次元」の深さと広さは、「曹洞宗住職」さんも「牧師さん」も同じ感覚でおられている。
この「次元」は「如来の世界観」そのもので、キリストの「神」&「如来」のなし得た「自然」だという「実感」が。。
さらに、親族間でも、いままで以上に「義兄」が「アニキ」になり、
叔父も「おもしろい討論相手になって」いままでの、ボンヤリしたものだった「実家における人間関係」が、
「オカン」の葬儀に携わるなかで「楽しく深く広く」なって行き、「明確な関係」になった‼️
いままで「無碍光如来」のなかで「功徳荘厳」を観るように「行じてきた」ことが、
こうやって「深く広くなる」ということを、「実母の死」が明確に定義してくれた。
「仏の世界観」を広く明確な内容に定義してくれたことで、
「時間論と次元論」を観て行くことが「教えを聞くポイントだ」という学びになったのです。
2019-09-09 01:40:00
輪廻についてさすがな回答‼️(わたしの回答ではありません❣️)
ここでは、輪廻が存在すると仮定して、考えてみます。
ヒトは、ヒトである以前に動物でもあります。生命という基本的な機能は、動物としての共通パーツですから、 人が死んだら輪廻するとすれば、犬が死んでも牛が死んでも、当然輪廻するはずですね。
微生物まで、その範囲に入れると、どうなるでしょうか。
産総研によると、地球上に存在する微生物の総数は、415〜615×10の28乗匹と推定されます。[1]一方で人間の総数は60億人ていど?なので、比で言えば、10の20乗:1の割合で、微生物になるほうが多いことになります。
つまり、人間が死んで輪廻する場合、1つの個体が次の一生で、完全にランダムに次のカラダを得ると考えると、ほぼ確実に微生物になります。一日ごとに微生物の一生を終えてサイコロを振るとして、人間にふたたびなれるには、期待値として2兆年かかる計算になります(10の20乗/365)。
『すべての生命を同列に考える』と、輪廻のシステムはフィットしにくいのです。
『人間だけが特別』という前提がないと、成立しにくいシステム・・これは、天動説と同じ、『シンプルでない説明』であり、何かが間違っているサインだと思います。
さて、ここで新しい考え方を加えましょう。
『多細胞生物は、個体を1つの生命とカウントせず、細胞1つごとに1つの生命とカウントする』+『細胞ごとに輪廻転生する』
そうすると、人間の細胞は数十兆個[2]なので、人口の60億を掛けると、10の23乗個くらい、やや近しいオーダーになってきます。100万:1くらい?
これなら、人間が死んで、細胞が分解し、それぞれ新しい生命として生まれ直す、という事になります。あるものは単細胞生物として、あるものは植物の細胞のひとつとして、またあるものは人間の細胞のひとつとして、生命をリスタートします。
数十兆個のサイコロを振るなら、かなりの分量が、多細胞生物の細胞として生まれ変わることができるでしょう。
つまり、散り散りになった自分が、それぞれ新しい個体の一部として最構成されるのです。これなら、比較的説明が付きやすいでしょう。
とはいえ、自分が死んだ後に、体や意識が分解して数十兆のかけらになる現象は、ひとりの個体として生きている間には、想像しにくいです。主観の軸が増え、次元が変わるからです。
死ぬという事は、具体的な存在からより抽象的な存在へ、次元を上がる事かも知れません。
この考え方なら、少しは整合性が取れる気がしますね。
別の想像ですが、生命というのは、車などのエンジンが回っている物理現象によく似ている気がしませんか?
すなわち、生命の物理的・科学的反応によって、反応の恒常性が保たれている状態です。
このように考えると、生命というものは、ひとつの『存在』というよりは、むしろ『状態』なのではないかという考え方も成り立ちます。
つまり、生命があるから生命活動が起きる、という順序ではなく、生命活動が起きている状態を『生きている』と便宜上呼んでいるのかも知れません。
いずれにせよ、『ひとりの人間が、死語、その性質を保ったままで、違う肉体を渡り歩く』という想像は、人間にとって想像しやすい反面、『なぜそうなるか』という説明の面で、少し乱暴な気がしています。
早い話が、『死んでまた生まれ変わるという想像は、想像よりむしろ願望に近いのでは?』と思うわけです。