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2019-09-23 01:06:00

あまり知られていない、宗教についての真実をお聞かせください?

宗教団体の定義は。。「宗教法人法」によれば、

(宗教団体の定義)

第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。

一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体

二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体

とありますが、「宗教」の定義はありません。Wikiれば、宗教(しゅうきょう、: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、

また、その観念体系にもとづく教義儀礼施設組織などをそなえた社会集団のことである。

を基本として、さまざまな説が記述されています。

ここに「人間の力や自然の力を超えた存在」とありますが、「仏教」は「自然」を説いており、「超えた」ものを説いていません。

また「存在」については「量子力学の不確定性原理」と同じように「空(くう)」を説くので「存在」は説きません。

じつはこのことは「仏教の究極な結論」である「さとり」の内容なので、仏教の浅いレベルの話を聞いても「わかりません」から「一般常識的仏教」を仏教だと思っている人には、

「?」になります。

また、キリスト教でも「牧師さん」などによって「深い話し」をされる方と「決まりきった話し」をされる方では、その牧師さんの深まりによって「レベルの差」があるようです。

そういう意味で、「宗教についての真実」というお尋ねの文言を「宗教が説いている真実」と定義して回答いたしますと、「表面的な真実」ならば「仏教は、修行において無常無我空を悟ることが真実」であり「キリスト教は神の愛を信じて生きること」となるでしょう。

仏教は「出家者への教え方」と「在家者への教え方」が違いますので「〇〇仏を信じて生きる」という在家者向けの内容が「日本では《大乗仏教》として普及しており」こちらのイメージが大きいかと思います。

しかし結果「いずれを生きる人も深まっていくに従って、同じ状態になる」のです。

この点は、誤解されるほど「ことばにしにくい境界」ですが、あえて記述しますと、

結果、「人間の揺らぎや不安定を修正し、自然という大きな動きに含まれつつ流れるように生きることができるようになって、人間的な《損得、貪りのような欲、世俗の幻想》などに振り回されることがなくなり、まるで量子のように《自在に動けて》《自我ではなくなり》どのような状況も《受け入れられていける》ようになり、そういう仲間が《陽子と中性子を核として電子が飛んでいる原子》のようになり、《ほかの次元の原子と結合》できたら《違う原子(元素)》同士が《分子》になるように、受け入れあえて、止揚されていく関係となり、これが《宇宙レベル以上に広がっていく》という状態を体感できるということ」になります。

親鸞は「仏というのは《自然》であることを知らせる手段であり、本来すべてが《色も形もない、ことばも絶えた法則によること》を教えていて、《自我を捨てた智慧》により《慈悲の心で生きる》ようになるということ」を説いていますが、これは「智慧も慈悲も《自我滅=無我》を促し、他者を生かすことで《原子か分子のようになる》こと」を教えているので、

浅いレベルでいうと「仏の救いの心を信じて、仏の智慧をいただいて、他のために慈悲を生きましょう」ということになるから、「キレイゴト」に聞こえたり、「よくわからない」といわれるのです。

しかし、「智慧も慈悲も」結果「無常無我空」になって、宇宙レベル以上の一体感のなかに溶け込むような状態になることを意味しています。

そういう点で「不確定性原理」や「パラレルワールド論」がわかると「仏教も理解しやすい」のです。

キリスト教のように「神の意思に任す」も「人間を同じ状態」にもっていくように思います。

この点で「仏教原子」と「キリスト教原子」が止揚しあって「新しい分子」になるというような状態になれます。

宗教もそのセクトを超えて行けるまで「次元が深まる」と自我滅状態になるので、「生死」「富や貧しさ」「健康や病気」にもとらわれません。

つまり「生死もともに自然の中であり、生命の背景にある次元との一体感が得られるので、今の中に永遠があり、今の中に宇宙以上の広さがある」のです。

わかりにくいニュアンスだったらすみません。。

 

2019-09-22 19:47:00

原子と因果同時❗️

因果同時っていうのは、物理学的に、原子という1(イチ)に、陽子(+)と電子(–)と中性子が構成しているという、二極が同時にあるのに似ています。

 

+と–は二ではなくて、「イチ」が包含する「多」を意味しています。

磁石のN極とS極も同じで、「イチ」に包含されるのです。

つまり、どちらが欠けても成り立たない。

 

華厳経の「一即一切」「一切即一」と同じです。

 

 

人間は「それらの根源がイチであり、多に広がっていること」をなかなか理解しようとしませんが、真如が一如であるということに帰結します‼️ 

 

2019-09-22 17:42:00

五念門五果門因果同時の深み❣️

五念門のひとつひとつが、五果門のひとつひとつに対応して、

 

礼拝→近門

讃嘆→大会衆門

作願→宅門

観察→屋門

回向発願→薗林遊戯地門

 

となっているのが、この因果が同時に起こっていることを証明していると実感しています。

 

そして「入出二門」なのは、五念門五果門の「ラスト」の薗林遊戯地門で「遊煩悩林現神通」となることをいっていると思われますが、

 

「五念門と五果門」を対象した時に、礼拝→近門からスタートし、「如来の家や部屋」において「大会衆とともにこれらを生きること」

そして「薗林遊戯地門」において「如来の家に入ること」と「如来の家から《さとりのもの》として「遊煩悩林現神通」(出)することが「因果同時」であり、

 

「阿弥陀の法を歩む」「法蔵菩薩の菩薩道を歩む」ことが「五念門五果門を因果同時」に歩むことだということを「実感して」います。

 

やはり「入門」して、「セクトにこだわって歩む」のではなく、「出門」して「他利利他」を歩むことが「同時にあれば」常に「菩薩道を歩む」ことと「自己を通して広く深い(高い)次元のなかで、自然に教化が行われていること」を実感します。(自利ではなく他利)

 

「阿弥陀の法の広大無辺」という実感がここにあります。

2019-09-22 06:28:00

宗教は思い込みですか?

先の方が適切なご回答をされていると思いますので(偉そうに聞こえたらごめんなさい🙏)

わたしは別の角度から記述します。

そもそも「宗教」というカテゴリーを「別世界」と思っている方が多いのですが、「思想信条」という用語にあてはめると、

なんらかの「信念」でも「世間の常識」でも「思想信条」に当てはまると思います。

この観点で見ると、「資本主義」に踊っていて、この「水準を維持したい」という事情、信念のなかで、

「お金や数字に追いまくられる」というあり方こそ「思いこみ」だといえます。

「社会のルール」「モラル」など、現在の日本では「敏感」すぎるように思います。

「木登り」などを自由にやっていた時代のように、たとえ「子どもであっても」どの枝に足をかければ折れるかどうかという「判断能力」があると考えられれば、

「安心安全な」遊びのなかだけで生かさなくてもいい、と「子ども」に知恵を体得させることができるでしょう。

「安心安全」だけの環境にいると「危険」を意識できなくなる「危機管理」を「人任せで生きられる」という「錯覚」を生きることになります。

これは一例ですが、「このように社会常識という錯覚」こそ「思いこみ」と言えるでしょう。

逆に「信仰」を持つことで、誤った「価値観」を生きなくても「問題ない」という「目覚め」を生きられる事実があります。

こういったことは「宗教」であるかどうかという「カテゴリー」に関係なく、「どのステージ」を生きていても、

より「1」に近づく「0.99999。。。」の正確性を「人間種」として「追求体得できるか」という次元にあれば、

「誤った思いこみ」から「脱出」できて、より広い観点や真の意味での「知恵による受容や理解」よく言われる「寛容性」を身につけることができるでしょう。

それは必ずしも「宗教」というカテゴリーでなければできない性質のことではありません。

「思いこみ」はどこにでもある。

ということに「気づく」ことは、「人間としてのサイズ」が大きくなることといえます。

 

2019-09-22 06:26:00

動物は催眠術にかかるでしょうか?

催眠術を、基本的に「脳」が他者によって「操作される」こと。

と定義するなら、人間は「言語」で動かされるので、「操作」できる(される)ということになります。

「動物」は、感覚によるので「触りかた、触る部分」によって、「ごく限定した状態のみ」に持っていけます。

しかし「動物」のなかでも「限定された動物」にのみ、「おとなしくなる、眠ったようになる」「訓練されたように動く」という操作ができるだけなので、

「人間がかかる催眠状態」よりも、「種類と可能な操作」は狭いものに限定されます。

そもそも「催眠状態」(トランス状態)は、「脳がパワーバランス」によって「各固有の特性」に応じた「優劣」を勝手に判断することで起こります。

くだいていうと「ひとが感覚器官でどの感覚器官が優劣をもつか」という点は、ひとごとに違います。

主に「視覚」「聴覚」「感覚」に分類すると「見ることが優なひと」は、「見たことを優先に脳が情報処理」します。

たとえば「キレイなお店」という具合です。

「聴覚優位」なひとは「いい音楽が流れてる」ね。

「感覚優位」なひとは「あたたかい雰囲気」ということです。

ここで「これら」を「論理優位と感情優位」に分類します。

(視覚優位前提で例えると)

「このお店は、ものの置き方が動線を確保してるね」(論理)

「ここのお店ってキレイな装飾ですね」(感情)

という具合です。

このなかで、「どの感覚器官優位でも、催眠術にかかりやすいのは、視覚優位で感情タイプ」です。

このようなひとに向かって「あなたの後ろから、霊的なパワーがあなたの身体を押しています」というと、前に倒れてきます。

また、「脳のどういう機能が反応するか」については、「運動機能」が反応しやすいので、「前に倒れる」が反応しやすいのです。

つぎに反応しやすいのは、「感覚機能」なので、「あなたはいま太陽の光に照らされて暖かくなっていきます」や「この霊のパワーで痛みがやわらいでいきます」「いまは水のように思っているこの飲み物がオレンジジュースの味になります」などに反応します。

またその次に「記憶領域が反応します」から、ひとによっては「自分の名前さえ忘れます」悪用禁止事項になるので具体的記述は控えますが、このように、「脳が勝手に情報処理をして」反応が出るのは、「催眠術をかける方がパワーバランスにおいて優位」なケースが基本です。

「このひとはすごいパワーを持っている」「霊能力がある」「尊敬している」などの優位性を感じると「脳は自分の意思を差し置いて」術者のことばに反応します。

優秀な術者(メンタリスト)は「肩書き」「演出」「表現」などを使って、「相手は無意識な状態で、自分を優位なステージ」に持って行きます。

「催眠商法、霊感商法、悪意なマルチ商法などのセミナー、宗教団体」などがよく使っています。

また、「プロパガンダ」も同じ原理で「集団催眠状態」を作ります。催眠術は「集団になる方がかけやすい」のです。

「同調意識が機能」するからです。

逆に「自己催眠は難しい」のです。無意識な自己暗示は「金縛り」などの「霊的」と言われるような状態を作ります。

「自己暗示」は「不安」のベクトルに弱いのです。

以上、ザッと書きましたが、結果「動物にかける」は「他者に脳が動かされるという定義」ならば「ごく限定した動物に、限定したことのみ可能」となります。

「訓練やトレーニング」も「自分の意思に寄らなければ」催眠状態と定義します。

「ムリクリ親に言われて勉強する」のも同じなので、「慣らされる」までは「ストレス」になりますが、そのように動きます。

子どもが環境的に「塾に行くのが当然」と思うのも「じつは催眠状態」といえます。

ニュースなどによる「プロパガンダ」も同じ構造です。気をつけてください!

なお、人間でも「知らない言語には反応しません」が、通訳がいれば「反応」します。

 

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