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2019-09-11 21:25:00

梵我一如であるなら、なぜ人は解脱や至福を求めるのでしょうか?人はいつでも梵と一体であり、迷いも苦しみも怒りも憎しみも、そこから逃れることを求め苦悩する心さえ梵の範疇では?への回答❣️

梵我一如は「バラモン教」の思想で、「輪廻」や「実在」を説きます。

梵も我も「我」ですから、「無我、非我」を説く仏教は、そこを「ミス」だと言っています。

質問者さまが「わたしは宇宙と一体だから、ひとを傷つけ、殺そうとも、宇宙がやっていること」です。

というひとと出会い、だから「わたしはなんの抵抗もなく、あなたを殺します」と言われたら、

そうですねぇ❣️「オッケー」ってならないとは思いませんか?

たとえば「人間がアンドロイドを作って、そのアンドロイドが人間を殺し始めたら」作った人間は、

「そこまでになったアンドロイドは不要」って思うのでは無いでしょうか。

ブッダは「殺してはならない」という戒律に「理屈」はない、「殺されたく無いものを殺すべきでは無い」という「論理」で教えを説いています。

だからと言って「殺したひとを不要」ともいいません。

仏教は「世俗の価値」ではないからです。

すべてが「宇宙発祥」でも「宇宙ゴミ」を人間が作り、「不要な存在」と「重要な存在」という価値はあくまでも人間の価値「世俗の価値」であり、

人間が生み出すものや意思までもが「宇宙が作ったのではない」ということです。

「梵我一如」においても、「梵と我」は根源的「一如」と言っているだけで、「我の苦悩や意思」までも「一如」と言っているのではありません。

「一如」の論点を間違えたら、バラモン教すら解釈をミスります。

だからこそ「ブッダ」が「無我や非我」を説き、「明確に、宇宙つまり梵にすら我はない」と言っているのです。

 

2019-09-11 21:23:00

三法印の解釈についての回答❣️

釈迦の時代のこの「無常、無我、寂静&一切苦」の仏教としての法印は、その細部においては、部派仏教になった時点で「解釈」が細部において「分かれて」います。

しかしながら、現存して「完全なかたちで残っている」のは「説一切有部(せついっさいうぶ)」という部派で、「倶舎論(くしゃろん)」という「ヴァスバンドゥ(世親)」という学僧が書き残した「中国での翻訳本」と「サンスクリット原典」です。

この中に、批判の対象として「犢子部(とくしぶ)」の論が出てくるので、犢子部の論は、そこで確認できる程度です。

この「倶舎論」において、「無我、非我」について「三世実有、法体恒有」という「過去、未来、現在」の三世において、「法体」は「有」であると論じていて、「我空法有」という「無我の我は空であるが法は有である」という説を論じています。

この「有」の法というのは、「五位七十五法」のことをいい、これは、「色、心王、心所、不相応、無為」の五位と、それぞれに関する七十五の「法」を指します。この「五位」について、「色法」は「肉体や物体の元素的な内容のこと」をいい、あとは「心の動き」であり、「無為法」が「さとりの法」ということになります。

ここでなぜ「我空法有」なのかというと、「なにかが存在する以上、その構成要素があって然りではないか」という、現代の「素粒子」のような「実在」があるはずである。という論理になっているからです。

だから「構成要素」は有るけれど、人間などの存在は「構成要素の集合体」なので「我は空」という論理展開です。

このように「無我」の解釈が「細部に論じられ」、大乗仏教の「ナーガールジュナ(龍樹)」というひとが「我空法空」を説くに至って、「どっちにも実体はない」と論じて、「空は非空であるから、存在のような仮の和合した状態があり」これを「有」とは言わず「非空」として、「非空は非非空で、非非非空で。。。」と永遠に続きます。

このように「無我、非我 」を徹底して「空」とした「中観派」を確立したのです。

そこで、部派だった、ヴァスバンドゥは、「倶舎論」を発展させて「唯識派」を確立します。

これは、我空法空をさらに深めて、「我空法空」ならば、「なぜ存在があるのか」という疑問を立てて「すべては認識による」という認識による「存在のあり方」を論じて、その認識主体になっている「阿頼耶識(あらやしき)」自体は「空」であるという「大乗仏教の観点から」論理を確立しました。

このように「無我、非我 」については「細部において、論理展開」があり、「華厳経の法界縁起説」「法華経など」さまざまな「経典」から「真如論による真如縁起説」「如来蔵縁起説」「諸法実相」などのさまざまな「無我と存在の関係性」が「無常原則」を根本にして論じられています。

興味がお有りであれば、いろいろと探求されると「現代物理学」にも劣らない、「宗教というより科学だ」と感じられるかもしれません。

しかし「あくまでもこれらの論理は、さとるための論理」であり、これを体得する「行」が伴なうことは切り離せません!

 

2019-09-11 21:20:00

次元って?

次元というのは、基本的には「線」を「1次元」、「面」を「2次元」、「立体」を「3次元」というようにいいます。

 

しかしこれを深く広くいうと、

 

たとえば「目の前に《りんご》がある」とします。

これを「りんごがある」と認識する次元があります。

 

そしてこの「りんごはどこの産地か?」という次元もあります。

さらに「どういうひとがどのように作ったか」という次元もあります。

 

また「このりんごは誰がどのようにここへ移動させた(持ってきた)か」という次元もあります。

 

そして「このりんごの成分は?」という次元もあります。

 

広げてみると「このりんごの産地はどのような環境か?」という見方もあります。

 

「このりんごは、誰が開発したか」という見方もあります。

 

「このりんごは輸出入しているのか」という見方もあります。

 

「このりんごを美味しいというのは、甘味か食感か?」という見方もあります。

 

「このりんごを美味しいという人は世界人口の何%か」という見方もあります。

 

このように「りんご一個」を見てもさまざまば要素や背景があり、「どこまで掘り下げたり、高い視野で見るか、広げて見られるか」ということで、見える世界が変わるということです。

 

単純そうなことにも、多くのファクター(要素)が、計り知れないぐらいあるということなのです。

 

仏教の十如是をお調べください。

関西風仏教解説から

②十如是

十如是(じゅうにょぜ)ってのは、『法華経』方便品に説かれる因果律で、意外と《実用性》のあるものの見方(観察テクニック)ですわ。

この「十」ってのは、

  • 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等
  • (そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとう)

っていうて、

こういう角度からものごとを見たら、ものごとの本質がわかりまっせ!

っていう智慧を生むテクニックですねん!

ものごとの、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)

を見たら、諸法の実相っていう、存在の真実の在り方がわかりやすうなりますねん。

わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法をいう。

如是ってのは、是(かく)の如(ごと)し(そのようである、という意)のことですやん。。

 

これって結構いけてて、日常の出来事や人間関係をこういう視点で見たら、分析しやすくって、

「智慧」になりまっせ!

こういうポイントは「浄土教」やと「四十八願」とか「荘厳功徳」に「内在」しますねんけど、

現代やし、こういう「論理」で理解する方がはっきりしますやろ!!

 

 

2019-09-11 21:19:00

浄土の次元❣️

浄土が「西方」なのは、「スペース(空間)」のことではなく、「次元をあらわしている」と論じる方が適切だと言えるでしょう。

当時は「東方」はオリエンタルな「俗世」をあらわして、

「西方」は「出世のさとり」を意味していたという論文を読んだことがあります。

 

このことと「太陽が沈む、大自然でしか感じ得ないこと」が一体になって、「西方定義」があるとしたら、

 

これは、もはや「スペース」ではなく「次元」を意味している、深くかつ高度な思考による世界観です。

 

そういう意味で、往生が現生か来世かという議論は「戯論」であり、人間が「高度で深い思考のさとりを観じる」には、「場」の問題ではなく、「次元」の問題が「場」のあり方や「観えかた」を変えるのである。

 

と「現実的に変化が起こること」を親鸞は論じているといえます。

事実、「如来を行じていく中で、いろんなことにおいて次元の変化が起こっている」ことを、日常の中で観じるようになります。

2019-09-11 21:14:00

見た目で判断できないなと思ったことは?への回答❗️

「見た目で判断する」という文言において「見た目でなにをどのように判断する」かという定義ができません。

つまり「いろいろな現象や人間における行動など」は、多くの次元を「含んでいるので」どこをどう判断するかが明確になりません。

また単純に「いい人か?」ということでも、「ひとりの人にはさまざまな側面があり、かつ、《いい人》の定義もできない」のです。

「なににとってどのようにあること」がいい人なのか、ということは「確定定義できません」から、「見た目でなにかを判断すること」自体が不確定なのです。

わたしは、「善悪の判断」をいちいちしないで、自然の流れの中で「観ている次元」が上がるように生きています。

以下ご参考にしてください。

次元というのは、基本的には「線」を「1次元」、「面」を「2次元」、「立体」を「3次元」というようにいいます。

しかしこれを深く広くいうと、

たとえば「目の前に《りんご》がある」とします。

これを「りんごがある」と認識する次元があります。

そしてこの「りんごはどこの産地か?」という次元もあります。

さらに「どういうひとがどのように作ったか」という次元もあります。

また「このりんごは誰がどのようにここへ移動させた(持ってきた)か」という次元もあります。

そして「このりんごの成分は?」という次元もあります。

広げてみると「このりんごの産地はどのような環境か?」という見方もあります。

「このりんごは、誰が開発したか」という見方もあります。

「このりんごは輸出入しているのか」という見方もあります。

「このりんごを美味しいというのは、甘味か食感か?」という見方もあります。

「このりんごを美味しいという人は世界人口の何%か」という見方もあります。

このように「りんご一個」を見てもさまざまば要素や背景があり、「どこまで掘り下げたり、高い視野で見るか、広げて見られるか」ということで、見える世界が変わるということです。

単純そうなことにも、多くのファクター(要素)が、計り知れないぐらいあるということなのです。

仏教に「十如是(じゅうにょぜ)」という次元の見方が説かれているので、wikiって見てくださいませ!

 

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