インフォメーション(日々更新中)
2020-02-11 00:51:00
現代抽象論的説明‼️
【試作的説明法】
論理的に「仏教論理」でいうと、
「神(God)」は「絶対」にならない。
なぜなら、「神と人間」という対極が存在する以上、
「相対する」からである。
しかし「西洋的論理」でいうと、この「仏教論理」は、
「命題や前提」によっており、
「絶対」を「相対する存在を認めない」という「前提定義して」語られるものであり、「前提定義」を変えると成り立たないといえる。
つまり「絶対」の英語は、じつは「Absolute」であって「解き放たれた」という意味になる。
これを「前提定義」としたなら、「神(God)」が「解き放ったかどうか」であって、「相対するかどうか」ではない。
これを前提にしたなら「仏教の絶対」は「完全一致」しない。
ここで理解いただきたいのは、
《じつは「世界観」が違うのに、同じ日本語で定義しても意味がない》ということである。
英語圏で、「仏は絶対」と英訳するなら、Buddha is absolute.になって、
「仏=解き放たれた状態である」と理解されても仕方がない。
そして次に「何を」ということを「問われる」であろう。
英語圏で「神の絶対性を語るなら」→God is absolute for humans.
「神は人間にとって絶対である」という英語になるだろうからである。
仏は、なにを解き放ったのか?
「人間そのもの」ではないであろう。
「煩悩を」でもないであろう。
つまり、仏は「なにかを」解き放つのではない。
「目的語」では語れないのである。
Humans are released from anguish.←これは、
「人間は煩悩から解き放たれた」という日本語を英訳した文章であるが、
「主語、述語関係」でいうと「人間は解き放たれた」になってしまうので、
「仏は、解き放つ主語にはなれない」といえる。
つまり「英語圏で仏を絶対と語るなら、《仏=絶対》となって、結論そのものになる」のである。
ここが「重要」であるが、
「仏は解き放たれた状態」を意味するので、
「人間は(煩悩から)解き放たれた」=「仏」となるので、
この方が「本来的意味の成仏に符号する」のである。
カッコの部分に「自我」や「他我」を入れてもいい。
ここで「わたしは〇〇仏を信じています」という文章をはめるとするなら、
「人間」の部分に「わたし」を入れて、
「信じる」の部分に「解き放たれた」を入れると、
「わたしは(〇〇仏に)解き放たれた」となるので、
「わたしの自我と共に〇〇仏も解き放たれた」という論がたち、
「わたしも〇〇仏も滅する」ことを意味する。
つまり「仏教でいう《仏=無為法》であるから」これで本来的意味の成仏に符号する。
このように「現代的な論法とほぼ国際語」を使って論じてみると、
より明確であるけれど、
あなたが「仏教行者」であるということは、
「このような状態にある」という「絶対的な世界観を生きていること」が、
「仏教行者であることを意味する」と結論づけられる。
この場合「このような世界観を生きていない」ならば「仏教行者ではない」ということを定義づけることにもなるだろう‼️
2020-02-10 21:37:00
苦って現実逃避なんや‼️
「苦って現実逃避なんや」と、、
早速友人から「感想が来ました」が、そういうことで、、
「無常無我の現実」を受け入れるための「乗託」であり、
「無常無我」の智慧に基づく「慈悲」だから、
「歓喜和合し合える」ということになります。
「精神世界」による救いはそこにあると「Buddha」は教えたのです‼️
2020-02-10 21:22:00
「我の強い」他我依存苦‼️
【他我依存苦】
「我が強い」は「他が強い」ということであるといえよう。
「我の強いひと」は「なんらかの他」に「任せる」のではなく「依存」しているといえる。
「依存」と「任す」の違いは、、
「我を守るために依存に安心感を得る」か「そもそも無我(非我 )であるから、自我を放棄する(屈服)」という「大きな違い」がある。
「〇〇先生のファン」という場合、その「〇〇先生の我」が依存をさせている可能性がある。
和上でも教授でも布教使でも「〇〇先生のファン」という場合、2パターンある。
ひとつは「その〇〇先生崇拝以上にならない」「〇〇先生を真似ようとする」「その先生の世界観を生きようとする」というケースである。
(教祖や占い師に見られるようなあり方である)
二つ目は「〇〇先生の《言われる》ように生きて、発信しようとする」、
また「〇〇先生の生き方に学んで、自我ではなく自己(自己の分限を智慧と慈悲に生きる)という独立者になる」「それぞれの世界観を大事にする」というケースである。
以前は「金魚のフンのようなファン」を作る先生は少なかった。
しかし、平成あたりから「そういう先生」が増えてきた。
前者のように「金魚のフンのようなファンを作らない先生」には「卒業」がある。「師」からの自立が訪れる。
後者のように「金魚のフンのようなファンを作る先生」には「卒業がないから、師に依存したまま離れられない」のである。
「先生が弟子に依存して、自己実現している」からである。
これは「カウンセリング」でも同じであって「カウンセラーから卒業できないようでは困る」というのが、ホンモノのカウンセリングであり、
いつまでも通い続けるカウンセリングは「教祖」への依存でしかないし、「教祖が弟子に依存している」ようなものである。
あなたが「〇〇如来」や「〇〇神」を信じているとして、、
「その〇〇如来や神」からの卒業があって、《広大世界に一体感》を感じて「智慧と慈悲や愛」という「歓喜」を生きられたら、それこそが「ホンモノの精神世界」である。
今後はこの「ホンモノ」を求めるひとを増やすようにしなければ《依存苦》を生きるひとを増やすだけになる。
「他の我」に救いを求めて「返って苦に落ち込んでいくひと」が増えるであろう❗️
そもそも「仏教」は「自らを灯火とし、法を灯火とする」「中道の教え」であるから、、
仏教には「絶対的な如来」はいない。
論でいえば「絶対」という状態には「自他の相対があっては矛盾になる」のであり「すべてがイチであるから、イチがすべてである」という「相対を超えなければ絶対にはならない」のである。
もとい「我が強い」のではない「他への依存が強い先生」と、その先生の話しをファンのように聞く「弟子という他への依存が強い生徒」との《共依存》の中で「卒業(出門)」のない「苦にハマって、出られないまま」聴聞聴聞と走っているひとが居る」ことをよく感じる❗️
「他我依存の苦」である。
「聴聞聴聞」と走ることを「素晴らしいこと」と見ていられない。
智慧も慈悲もなく「歓喜も和合もないまま」聴聞への逃避行をしているようにしか観えない。
《現実逃避聴聞》は危険であることを知るべきである。
これが「親鸞は弟子一人もない」の意味である‼️
2020-02-10 04:18:00
「行間」「語間」の深さと《心理戦》‼️
【akio独語】
「亡くなった父と母は成仏しているでしょうか?」
こういった問いを投げかけられたら。。
「ハイ」と即答するのもありだろうが、
『なぜこの問いが出たか?』をまずは探る方がいいだろう。
よく知る相手ならまだしも、ほとんどお初の相手に聞かれたら。。
とりあえず「どうされましたか?」と聞き返してみよう。。
「いえ、両親とも仲が良かったので、、」
『あ〜そうなんですか!』と急いでは間違うだろう。。
この「いえ、」がなにを意味しているのか?
「いえ、なにごともないのですが。。」ということか?
「いえ、、じつは、、」と「行間」ならぬ「語間」になにかあるのか。。
「いえ、じつは、残された兄弟で《相続争い》をしているけれど、仲が良かった両親がどう思うのか。。」
といった「語間」が隠れているかもしれないからである。
「両親」ならぬ「良心」がいわせているといえるかもしれないので、
このようなひとは「たとえ相続争いをしていても《まだ良い》」といえるだろう。
わたしたち「僧侶」は、葬儀などにおいて、「隠されている親族争い」を「体感すること」がある。
あんなに財産があるのに。。と他人には見えるかもしれない。
けれど、「抵当権」がついている。しかも「根、抵当権」だったりする。。
なんてことも、たくさんある。。
この「根」については、みなさんも知っておいた方がいいだろうと思うけれど、みなさんご自身で「ググって」くださいませ!
また「法務局の共同担保」がついてたりといったことも。。
とにかく「そこには[根]深い《煩悩》が炎上していたり」するから、注意して「問いを聞くこと」である。
「両親は成仏して、ここにまだ居ますか?」
なんていう問いの「語間」にそういうことがあるのを知らずに、、
『そうです。成仏してみなさんを見ておられますよ』
なんて言おうものなら。。あとの親族会議で、、
「お坊さんが、ここにお父さんとお母さんがいるといっていたから、この家は売れない」なんて「武器」にされるかもしれません❣️
この例文のように、「僧侶」は「成仏して、見ている」といっているだけで、「ここに居る」といっていないとしても、そういわれてしまうかもしれない。
ここで、『お浄土で成仏しておられますよ』といったとしても、
「じゃあここには居ないんですか?」と聞き返されたら、、
『イエイエ還相回向と言いまして、帰って(還って)きておられるんです』
なんて言おうものなら、、
「よっしゃいうてくれた」なんて思いつつ、、
「ありがたいことです😭」というかもしれないのです。
だから「宗教は不要」なのではなく「重要」なのです!
「宗教者はそこまで深く、智慧をもって関わること」が重要であり、
思慮深いところから出てくる「宗教者のことば」には、《相続争い》があったとしても、
その「煩悩の炎」を鎮火させる「はたらき」があるからなのです。
ここにこそ「真の法のはたらき(効用)」があるといえるでしょう!
「精神世界」に働きかけるには、「俗世の泥々」をも知る(観察する)ことが、
「教人信」のために必要なのです。
「機の真実(人間の煩悩のありさま)」は「他人事」ではなく、「目の前の現実にもある」のであり、「わたしひとりの問題」ではすまない。。
だから「法の真実」が、智慧と慈悲を与え、「争い」を「鎮静化して」やがて「その関係を和合に転換する」のだといえる。
「真実を生きる宗教者」は、こういった「深い洞察や観察」ができるような「プロフェッショナル」であれ!(馴染まない表現かもしれないけれど)
と、世間は望んでいるのだろう。。
そうであれば「僧侶は要らない」となるべくもなく、、
「僧侶に精神世界を埋めてもらいたい」と思うのではなのでしょうか。
そういう意味でも「わたしもそういった菩薩道を歩む日々」であるといえます‼️
2020-02-08 17:26:00
DNAレベルの儀礼‼️
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000053592.html
「僧侶のいない葬儀」
について。。
ーーー↓↓
これは「名古屋の本願寺派岡林俊希住職」(千種区西念寺さま)の文章ですが、
「記事」だけがシェアされたので、
岡林俊希住職の文章は「コピぺ」しておきます。
【DNAレベル】について言及された問題定義だと重要視いたします❗️
------------------------------------
愛知県の企業が「お坊さんのいないお葬式」を提案し、サービス開始に向けてテレビ、新聞等で広告うっています。少し話題になりそうなので、この際、一般家庭から僧侶となって、葬儀に関わるようになり感じたこと、考えたことを言わせていただきます。
まず日本人は無宗教であるということについて。特定の宗派等には帰属意識のない方がおられて、それで自分は無宗教だと自覚されておられる方が多いのだろうと思いますが、ほとんどの方は無宗教ではない。
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
と西行が詠んだように、日本人にははっきりとはしなくても自然の中に仏や神々や霊を感じる感性を濃厚に持っています。お骨を大切にするのも、そういった感覚があるからだと思います。幽霊や霊障などを気にされる方も多い。不動産の事故物件などが、そのことを証明しています。
宗教的感性は非常に豊かだけど、それを自覚し意識化し論理化している人は非常に少ない。こういった状態を無宗教と考え、人為的な非宗教的な儀式を行うことは非常に危険です。
日本人の敏感な霊性、感性が不安になる葬送の場面で、その不安にアクセスされると容易にダマされてしまう可能性があります。昔から、病人や死人がでると変な宗教者がよってくると言われています。感性のみあって、明確な世界観がないので、おかしな宗教観であっても受け入れてしまう可能性があるのです。
それをある程度防ぎ、一定の安定した宗教的世界観を提示して、場をつかさどって守ってきたのが、既成宗教の宗教者なのです。先人たちが、必ずしもその宗派の信仰に篤くなくても、既成宗教の葬儀を継続してきたということには先人の知恵があるようにおもいます。
しかも宗派によって異なることはありますが、日本の既成宗教の役割は先祖や故人を大切に祀り、感謝したり思い出したりする場と機会を与えることでしょう。
子どもに心配かけたくないから、既成宗教とのつながりを断つ方が増えてきましたが、子どものためを思うならそれは逆効果です。先祖や両親のことを弔い、感謝する機会のない人は、幸せになる感性を減らします。また、なにかの不幸の時には霊的な防御がきかないので、おかしな宗教者やスピリチュアル系にダマされてしまう可能性が増加します。
私は家の宗教を否定して自分の考えを持つことは大切だと思います。私自身がそのようにしてきましたから。しかし、人生や死についてしっかりと考えた上で踏み出さないと危険なことが多いです。そういった危険を減らし、自分の考えを持つための踏み台にするためにも既成宗教は役に立ちます。
もう一つ感じることは、死後の葬送や埋葬などは宗教的領域として行政が立ち入れないことです。医療や福祉のように最低限を補完するサービスがない。そこは、今のところ宗教者の良心にゆだねられています。悪い宗教者もいる、お金を節約したいというのは分かりますが、宗教を排除して出てくるのは資本主義の論理です。
お葬儀代を節約すれば最後はどうなるでしょう。司会をカットすると僧侶が行うことになります。火葬式などでケアがなくてとまどう人をたくさん見ました。その後の相談や説明などは私が行いました。費用が少ないと、葬儀社は最低限のことしかしません。時には、ひどい扱いも見受けられます。しかし、それは資本主義なので仕方がありません。そこで僧侶が金額には関係なく、故人をしっかりと送り出すという精神を維持している面があるのです。本当にお困りであれば、金額に関わらず丁重に葬儀をして下さる宗教者は必ずいるはずです。
日本の文化、日本の精神を守るというなら、どんな人であっても、経済的にはめぐまれなくても、1人の大切な人間として丁重に弔う。先祖として大切にする。これが文化の基盤ではないでしょうか。こういったものが急速に失われている気がします。それをみんなで維持していくという意識も大切な気がします。