インフォメーション(日々更新中)
2020-02-04 19:29:00
捨てるか受け入れるか?
スピリチュアルという言葉を「正確に知って欲しい」。。
辞書を見ると、
研究社 新和英中辞典での「精神」の英訳
せいしん2 精神
1
〈肉体に対する〉 spirit; mind(心); soul (魂); will (意志); a motive (動機)
精神の[的な]
mental
spiritual
moral
精神的愛
platonic love
精神的支持[圧迫]
moral support [pressure]
精神的打撃
a mental blow
a shock
精神的に疲れている
be mentally exhausted [tired out]
精神的に自立する
【形式ばった表現】 achieve emotional autonomy
精神的動揺
emotional upset(s)
精神的に動揺している
be emotionally disturbed [upset]
精神を打ち込む
put one's heart (and soul) into 《one's work》
throw oneself wholeheartedly into 《the task》
do 《a job》 with (all one's) heart and soul
精神を集中する
concentrate one's attention on something
精神に異常をきたす
be mentally deranged [unbalanced]; have a mental breakdown
〈気が狂う〉 go [【形式ばった表現】 become] insane; go mad [out of one's mind]
彼女はひどい精神的打撃を受けた. She received a severe mental blow [emotional shock].
2
〈心のもち方〉
国際的な精神
an international spirit [mentality]
スポーツ精神
sportsmanship
ボランティア精神
a volunteer spirit
a spirit of volunteerism
この運動は若者の間にボランティア精神を育てることを目的に始まった. This movement was initiated to foster the spirit of volunteerism among young people.
3
〈物事の根本的意義〉
法の精神
the spirit of the law
法の条文にこだわらず, その精神をとれ. Don't stick to the letter of the law but observe its spirit.
精神安定剤
a tranquilizer
精神医学
psychiatry
精神異常
mental derangement [disorder]
psychosis
精神衛生
mental health
精神鑑定
a psychiatric test
精神構造
one's mental make‐up [structure]
精神修養
mental training
【形式ばった表現】 moral cultivation
精神修養をする
discipline one's mind
精神主義
spiritualism
idealism
精神主義者
a spiritualist
an idealist
と言った具合だけれど、
「スピリチュアル」ないし「スピリット」は普通に使われます。
「真宗」では、この言葉を「毛嫌いをします」が、
国際的には「嫌う方がへん」なのです。
たとえば「東京で寺カフェ」を作った時に、
どこの物件も「宗教団体」にはテナントを貸さない。
と言われて「本願寺だろうがなんだろうが、宗教でしょ❗️」というのが、
「東京原則」です。
いくら説明しても「門前払い」だったのですが、
ようやく見つかったのが、「代官山」だったということです。
この「東京原則」のように、「スピリチュアル」だから「低俗」と考えているのは「真宗」だけではないかと思います。
「葬儀に塩は要らない」と真宗教団が言ってもなくならなかったけれど、
「部落問題の中で、解放運動団体が《汚れ思想》になる」と言ってなくなっていったのです。
決して真宗の手柄ではありません❗️
つまり「一宗教団体」と日本人が錯覚していることを「わかってない」というならば、「スピリチュアル」という文言を理解することは大きいことです。
わたしは最近布教先で「いままで迷信俗信を批判してきましたが、間違っていました」ということがあります。
これは「化身土文類」によれば、
「良し悪しを問わず摂取する」とラストに書かれていることや「世の中の現実を見て、迷信俗信でしか生きられない人もある」ということからの言葉です。
「真宗も《阿弥陀さまが居る》といえば、スピリチュアルです」が、なぜ違うと言いたがるのか。。
「レベルが違う」と言いたいのなら「高次元のスピリチュアル」といえばいいけれど、「高い低い」を言いたくないという「こだわり」によって、自由に「場に応じた言葉」を使えなくなっているのではないでしょうか?
こんな「狭いこだわり」振り回す宗派は「真宗」だけです。
日本最大の信者数を持った宗教がいまや「幸福の科学」だというデータがあります。
そこには理由がありますが、真宗の僧侶さまの多くは「その理由」を知ることはないでしょう。
わたしはいままで「真宗僧侶」のみなさまの意識が変われば「今後の日本において大事にされる」と思い、「嫌われるのは仕方がない」けれど、
「横着をせず、学びと教化されますようにと願って」書いてきました。。
「廃立」にこだわる「真宗」
「破邪顕正」にこだわる「日蓮正宗」というイメージです。
仏教も真宗も「摂取」です。
とはいえ、どうも「意識の高い人以外の方からの反応はなく」
今後はどうしようかと考えています。
このままでは「確実に寺も法も滅びます」から、
そういう危機感を持っていただければと思います❗️
2020-02-04 03:02:00
生きて欲しい‼️(by 宇宙)
「互いの慈愛を感じて深めて生きるために生きて欲しい」というのが、
「自然の意思」だという「自論」が生まれてきた(!)
「どうせ死ぬから、懸命に賢明に生きるのである(!)」(アキオちゃん)
「自然は生きる理由がそこにある」と言っているという「論」が生まれてきた。。
2020-02-04 02:53:00
幸福になって欲しい‼️(再記載)
以前ホムペに載せたけど。。
人間が「障がい」と名付けている「同じ人間」がいる。
また、障がいでなくとも「能力が劣っている」と思っている人もいる。
こういうひとを「生命対生命」として「助けること」が、
人間種に自然(仏界や God)が与えた義務である。
自分がどちらに該当するのかは、常に入れ替わっている。
そもそも自我は、勘違い以外に存在しないから、
《自他の別はない》
だから、助ける行為が助かる行為であり[因果同時]である。
ここで各個体が共に感じ合う感動意外に歓喜はない。
いわゆる「幸福」は、この状態にのみ存在しうる。
『ここがポイント』
つまりは「和合や友愛」が成立することにのみ「歓喜と幸福感」があり、
それこそが「人間が存在しうる理由」である。
これは「対人間」のみではない。
自然界のあらゆる有機的存在との「融和」において感じうる「歓喜と幸福感」である。
人間種のDNAはそのためにある。
「経典やHolyバイブル」は、それを教えているのに、、
そもそも人間がここまで愚かになるまで「明確にそこを理解する段階には至らない」という前提が「経典やHolyバイブル」には暗示されていたのかもしれない。
「末法」「黙示録」という教えが、示していたのは「終末」ではなく、、
ほんとうの人間になる「始まり」を示していたといえるだろう‼️
2020-02-04 02:48:00
生きるために生きる‼️
人間の精神について。
英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。
人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?
宇宙に「人格的意思はない」としても、
「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、
そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。
現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、
なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。
「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?
「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、
「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、
じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?
わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、
「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、
その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、
《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。
高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。
ーーー
愛別離苦は、愛別離悲といえる。
苦というよりも情的であろう。
人間でなくとも「哺乳類」は「泣く」という。。
「苦」は「知性」によって解決できることも多い。
「悲」は「情的」であるから「インパクト強く残り引きづる」といえるだろう。
案ずるに、人間種の「苦」に「知性により解決可能な苦」と「情的な苦」そして「知と情が絡んだ《悲》」があるといえよう。
この「悲」をサンスクリット語では「カルナー(うめき)」という。
そしてこの呻き(うめき)を埋めるのは「慈」(マイトリー=親友)とされている。
「親友」には「パワーバランス」がない。
また「見返りを求めること」もない。
《無条件の摂取不捨である》
《そこには「和合」のみある》
「和合」は「わかりあい、受け止め合う」まさに「無色無形絶言」の関係である。(色も形もなくことばも絶えてあらわすこともできない関係性)
「愛別離悲」いわんや「生老病死の悲」を埋める「慈悲」をもって関わることができる「和合関係を広めるもの」になることこそ、「大乗菩薩道の行者」である。
ここにおいて「怨憎会、求不得、五蘊盛の苦」については、内容によって「悲」とはいいがたいものもあると思えるけれど。。
「心の奥には《悲》がある」といえるだろう‼️
ーーー
人間の精神について。
英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。
人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?
宇宙に「人格的意思はない」としても、
「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、
そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。
現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、
なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。
「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?
「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、
「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、
じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?
わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、
「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、
その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、
《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。
高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。
ーーー
人間が「障がい」と名付けている「同じ人間」がいる。
また、障がいでなくとも「能力が劣っている」と思っている人もいる。
こういうひとを「生命対生命」として「助けること」が、
人間種に自然(仏界や God)が与えた義務である。
自分がどちらに該当するのかは、常に入れ替わっている。
そもそも自我は、勘違い以外に存在しないから、
《自他の別はない》
だから、助ける行為が助かる行為であり[因果同時]である。
ここで各個体が共に感じ合う感動意外に歓喜はない。
いわゆる「幸福」は、この状態にのみ存在しうる。
つまりは「和合や友愛」が成立することにのみ「歓喜と幸福感」があり、
それこそが「人間が存在しうる理由」である。
これは「対人間」のみではない。
自然界のあらゆる有機的存在との「融和」において感じうる「歓喜と幸福感」である。
人間種のDNAはそのためにある。
「経典やHolyバイブル」は、それを教えているのに、、
そもそも人間がここまで愚かになるまで「明確にそこを理解する段階には至らない」という前提が「経典やHolyバイブル」には暗示されていたのかもしれない。
「末法」「黙示録」という教えが、示していたのは「終末」ではなく、、
ほんとうの人間になる「始まり」を示していたといえるだろう‼️
2020-02-04 02:39:00
生きて欲しい‼️
人間は他の動物とは違う。
知性理性と感性感情を下の角にした△の頂点に論があります。
これが二等辺三角形でも、正三角形でもいいのですが、
三角定規のような📐形ではアンバランスになります。
知性理性の角と感性感情の角によって「智慧と慈悲」が生まれます。
そこには「論」をもった関係性が生まれます。
キリスト教より仏教が論理的なのは、このバランスを取るためでしょう。
キリスト教はよほど「情的」であり、論のない教条性が強いのです。
だから「阿弥陀如来」のようになる。
と言えても、「阿弥陀如来は居る」とは言えません。
あなたが「この論(三角形の頂点)に住した時」、
愛する人は「生きる力を持ちます」が、同情した時に、
生きる力を失うでしょう。
重病のひとを理解をしてあげることができるから「キミは死ぬ」といえる。
「死ぬのが怖いのは息子が心配なんだろ!」ということもいえる。
《ここが知性です》
そこで「だから生きろ」といえば、《情になる》から「生きなければ」と思うようになって「自己治癒力」が出る。
ステージ4でも同じである。
だれかが病床の愛する人に「お前は死ぬ」と言っていた時に、
意外にも太り始めて「元気になっていた」ということがある。
その後どういうやりとりがあっても、、
この論に「ブレ」を出してはならない。
あなたが「愛するひと」「お子さんのこと」などを抱えて、
やがて「孤独になる」と思うようなことになるかもしれない。
しかし、どんなに「愛するひとから悪態をつかれても」愛する以上「ブレてはいけない」のである。
そこには、「生きなければいけない」という「論」がある。
わたしも化身土文類を読んでいく中で成長して、
「生きることに意味がある」と思っている。
たとえ人間が素粒子の塊でも「人間に論がある理由は、論を生かすことに使うためだ」
とわかったからである。
こういう文章を硬く書いていても
感情いっぱいにいまこれを書いている。
やってはいけないのは「ブレること」だから「心を仏地に樹てる」のである。。
振り切って前進せよ‼️