インフォメーション(日々更新中)
2020-02-08 04:33:00
人生は歓喜なり❣️
生まれは「苦」である。
だから《智慧に基づく慈悲、慈愛》があれば「生が歓喜に変化」して、
真の楽を生きる「生命の集合体という《和合衆》」になる。
(歓は身をよろこばしむる、喜はこころをよろこばしむる)
「人生は苦なり」を「人生は歓喜なり」に転換するポイントは、
《智慧に基づく慈悲、慈愛》
であろう‼️
「解り合えた」「助けられた」「助けることができた」といったことに、
ひとは「歓喜の感動を覚える」のだから。。
それが「अमिताभ、Amitābha」(アミターバ)の「摂取不捨」である❣️
2020-02-08 01:15:00
悪くない国‼️
【akio独語つづき】
昨日は国の議員さんと飲んでいた。
このひとは、人生を本気で政治に捧げている。
ひいきはしないし、「先生」とも呼ばない。
ふつうに同じ人間である。
思うことを話し、現状を聞く。
「日本の政治」は「じつは意外に悪くない」
国民にグチをいわせる「情報」を流すひとたちに、
ずいぶんと国民は「踊らされている」といえるだろう。
問題は「国政に関する」誤解と理解であろう❗️
だから、こういう「魂を込めて」打ち込んでいるひととは、
「ふつうにキチンとした話」ができるし、聞ける。
以前『世界事情のウラにまで詳しいひと』(Best friend)からも聞いているが、、
「こんなに平和でこんなに恵まれた国はない」と。。
わたしも「なんだかんだとありながらも」55年が過ぎようとしている。。
「取り越し苦労民族」といわれるからなのか、
「将来どうなるか」ということばかりを憂いて「今」恵まれていることに目を向けられないのだろうか?
諸外国を見たときに「日本人はホントにこれ以上のなにを望むのか」と思うが、、
重要な課題がある、、
平和すぎて《問題意識をもって能力を生かす人材不足》という点である。
わたしも「この子はスゴイ能力を秘めてるなぁ」と思うことがよくある。
それは「障がいと定義されているひと」であっても、、
であるが、「普通に国語、算数、理科、社会、英語」といった、お決まりのコースに収まっていくんだろうなぁと「残念に思うこと」は多い。。
「人事」であろうが「精神鑑定」であろうが、「テストのようなことによる判断」がほとんどで、「眼力(知識、経験値、知恵など)で個別の能力を見抜くひと」が少なすぎる。
「今後の日本で平和を壊す」のは「個人的なわがままによるトラブルなどの頻発」といった、「国レベル」ではなく「個人やコミュニティレベル」からではないかと思う。
「精神的不安定や不満足」による「破壊」である。
故に「これからは《精神世界》を重視する時代」であるといえるだろう‼️
あくまでも「独語」である‼️
ーーー
【akio独語】
先ほどの独語を読んで、
「問題は多い」と思う人もいるだろう。
「問題は問題と定義すれば、問題になる」が、、
それを解決する方法で、100%ということはない❗️
「問題を、自らの挑戦課題」だと定義すれば、
自分なりの「解決」はある❗️
「責任をとって辞める」「土下座する」ことで「許される国」。。
「要領よく悪意で保護を受けて生きる」ひともいるようである。。
たとえ「刑務所」に入っても矯正教育が基本である。
「老後を刑務所で」というひともいる。。
「問題や課題」についても「進化している」けれど、、
100%を「政治に求める」のは、無理というものである。。
そもそも「無常、無我」前提の生命を「いかに和合して生きるか」ということが、「人間に課せられた課題」だといえるだろう‼️
2020-02-07 05:13:00
グチのひとたち❗️
【akio独語】
昭和初期の政治家は、政治貧乏といわれるぐらい、個人の資財を投げ売ってでも、魂は売らなかった❣️
いまの政治家は、給料欲しさになるひとが、とくに地方議員には多く、次期当選を考えるから、役人になにも言えず、舐められている。
溝ブタひとつ直せない。
こんな状態で国民と一緒に、国や党にグチばかりいう。。
国民が、政治家をダメにしているように見える❗️
政治信条もなんもない。
国民も政治の深い部分を知ろうともせず、情的報道に踊る!
知性や論で、冷静に考え政治家に、冷静な意見を言えるひとがいない!
役人もグチだらけであるのは、自分の意見がそもそもないからとも言える。。
平和はボケを生む。。
危機感のない、問題意識の低い人は、政治、とくに行政に関わるべきではないと思うけれど、、
その自覚もない。
日本はどこに守ってもらって、平和なのか、きっちり知るべきであり、次期当選関係なく、言うべきは言える政治家が必要である‼️
これは、宗教家にも言えることであるといえよう‼️
2020-02-05 00:35:00
アビダルマする‼️
ご存知のように、わたしの師である「武田宏道師」は「倶舎論」研究に生涯をかけていて、
今年の本山報恩講の特別講演をされました。
この倶舎論は「アビダルマ仏教」や「部派仏教」と言われています。
最近わたしに「倶舎論」を教えて欲しいという人が数名いて、昨日も当院で講義をしました。
そこでこの「アビダルマ」という言葉は「法」についての「考察、研究」ということを意味するので、
部派仏教の特に「倶舎論の説一切有部」のことだけではなく、
悟りへ向かう「対向」と悟りへ向かって「対観」することだから「仏道を歩むことは全て、アビダルマ」ですと解説をしていたら、受講者さんが、「じゃあ称名讃嘆の生活もアビダルマですか⁉️」っておっしゃり、、
「そうそう」っていうきっかけから、
「あなたはアビダルマしてる?」っていう表現が私たちの合言葉のようになりました。
皆さんも、ともに「アビダルマ」しましょう‼️
【武田宏道師の特別講演】
2020-02-04 23:46:00
Made in Chaina ❗️
「南无阿弥陀仏」といういわゆる名号は、
そもそも「観無量寿経」という経典にありますが、インドの経典に「南无」と「阿弥陀仏」は出てきますが、
「この両方がつながって」南无阿弥陀仏と説かれているのは、「観無量寿経」だけなのですが、
この経典が「中国製」と言われていて、もともと「インドの経典ではない」と言われています。
つまり「南无阿弥陀仏」は「Maid in Chaina」ということになります。
そして、現代に於いて「南无阿弥陀仏」をいただくと言った方法ではなく、
「南无阿弥陀仏」を普遍的「名字」として、人間が存在を認識して確定する「名色」という状態において、
すべての存在は「南无阿弥陀仏」という名字なのだと総合的な名前とし、
あなたもわたしも何もかも「南无阿弥陀仏」です。
というところで「無我を実現させる」という「行文類」に書かれているような理解をすれば有意義な名字になります。
「阿弥陀さまの喚び声です」といった「ストーリー」では、受け入れられない時代であるという認識のもと、
教行証文類に書かれている本来的意味を取り戻す必要があると思うのです‼️