インフォメーション(日々更新中)
2020-08-28 01:42:00
浄土宗と真宗の違いは。。
西山派は「観経」により「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」を「阿弥陀仏の光明は遍く照らし、念仏衆生を摂取不捨する」と読みます。
ここで「念仏する衆生」は鎮西派で、西山派は「念仏衆生」つまり「私たちの救いは十劫というとてつもない昔から決定しており、生まれるままが念仏衆生」であるから、
「念仏をするのは当然だ」という理解です。
浄土真宗の「西本願寺」(本願寺派)は、まず「大経」の第十八願により、「あなたを無条件に救う」という「阿弥陀仏の真実心(至心)」を「疑いなく受け入れ(信楽)」て、わたしが願う前に「阿弥陀仏の真実心」により「わたしが浄土に生まれることがすでに決定している(欲生)」という救いの中にあったことを喜ぶという解釈をします。
そして、そのうえの称名念仏は「阿弥陀仏がわたしの往生を決定してくださっていたことへの報恩」であるから「称えることに重点を置き」ません。
しかし、浄土真宗の教義理解は、「お東」さんや「その他学ぶひとによっても様々」です。
浄土真宗の親鸞さんほど、著述を残しているひとは少なく、多くの解釈が可能なのです。
2020-08-27 02:25:00
教えの二面性!
石泉の「法相の表裡」は「無色無形絶言」の「無為法」が釈迦の言説(広讃=大経)あるいは諸仏の讃嘆という「善巧方便」に現れるという意味を表しています。
言い換えると、、
法相は、現象や人間の本質「無常、無我、空、認識(唯識)」をいい、これを「真如」として、、
表裡は、そのことを「善巧方便」として表している。
ことをいいます。
2020-08-26 23:55:00
余りの教え?
【信心正因称名報恩のミス】
教行証文類を読めば、「行文類」において、信力は「増上」とあり「諸仏の讃嘆から起こる増上縁」と定義されていて、因ではありません。
親鸞さんが「倶舎」を学んでいればわかります(もちろん学んでおられます)が、
増上縁に相応する因は「能作因」になり、これは「なにもしない因」になり、「果」は「増上果」を引きます。
そういう点で「能入」と言われるのは「讃嘆を受けて」能作因になって「讃嘆に能作」(疑蓋無雑)になることですから、「信心が因にはならない」のです。
「信心正因」は信心が諸仏の讃嘆という無為法である以上「無為法は因にならない原則」に反しています。
そういう意味で善巧方便を解釈している「信文類」に「体がない(出体釈がない)」のです。
浄土論(註)においても「三不信」がメインです。
そういうところから「信心正因、称名〇〇」という説自体が、仏教の基礎を無視しているので、蓮如さん由来になります。
いつから「仏教学」を「余乗」として無視した教学になったのでしょう。。
親鸞さんは、基礎学は当たり前前提で「教行証文類」を記述されているというのは、あくまでも「専門書」だからです。
和讃は「讃嘆の書」!
御消息は「対機説法」の書!
その他は「部分的思考」の書!
といえるでしょう。