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2020-09-14 21:07:00

天国と地獄の観念はキリスト教でも仏教でも同じ様な表現だと感じるのですが、これは元々何か一つの考えから発生したものなのですか?

世紀0年前後でも、人類の文化交流はあったといいますが、

純粋なお釈迦さんの時代の仏教には、「地獄や浄土(天国)」という死後の対立概念は採用されていないといえます。

あくまでもそういう死後の話などの「明確に不確定」なことは、お釈迦さんは「無記(論じない)」という姿勢を持って「戯論」とされました。

また厳密には「天国」と「浄土」ではその内容(意味するところ)は異なっています。

天国は「神による楽園」、浄土は「人間が成仏することによる悟りという楽」というように、前者は「自己以外に神が絶対者として存在している場」

後者は「自己が成仏することによる状態」といえます。

このように、天国と地獄といった似たような教えは、古くからさまざまな宗教などにあるようですが、

厳密には「宗教ごと」に異なっているので、単純に同じようなことと考えない方が良いと思います。

2020-09-14 21:05:00

観音菩薩は仏教が伝播するにつれ東アジアでは女性化されたのに、何故阿弥陀如来は非常に母性的であるにも関わらず女性化されなかったのですか?

阿弥陀如来が母性的というお話から考えて、仏教にはお詳しいと思いますが、

改めて記述しますと「菩薩」には、「求道者」「仏が変化した」「仏の性質をあらわしている」などの種類があります。

そこで「阿弥陀如来」の慈悲の性質をあらわしているのが「観音菩薩」とされ、「勢至菩薩」は智慧をあらわしているという意味で、

阿弥陀如来の両脇に観音菩薩と勢至菩薩が並んでいる「三尊像」もあります。

しかし「阿弥陀如来」に限らず、「仏=如来」は「分別を超えた性質」というのが、基本ですから「男性でも女性」でもなく、

「絶対でもなく、相対でもない」「存在でもなく、非存在でもない」といった性質を「無我、空」といいますが、

そういう性質上、なんらかのポイントに定義されないのです。

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2020-09-12 23:59:00

読み手によって文章はより真実を語る!

仏教経典は「どうにでも理解できる」と思われる「記述」が多いため、親鸞は「読み換え」ができたのです。

 

「至心回向」を「至心に回向して」を「至心に回向したまへり」と「至心を回向する」から「至心が回向されている」という主語を「わたし」から「如来」に180度換えられたのです。

 

そこで、より次元の高い解釈が生まれたのです。

 

阿弥陀経に「西方世界有《無量寿仏》。。」とあるこの「無量寿仏は阿弥陀如来かどうか?」という議論がありますが、これも「別とも同じ」ともいえます。

 

キリスト教でも、「聖書」は「神のことば」とするか「あくまでも神のことばを預かった者(預言者)のことば」とするかによって、扱いが変わります。

 

いずれにせよ、どう読むほうが「次元が上がるのか」という観点で解釈すべきであると言えるため、解釈が「正しいかどうか」という読み方よりも「より高次元かどうか」という方が適切な読み方といえます。

2020-09-10 00:49:00

信行両座のミス。。

「信行両座」ってそもそも設定をミスってました。

 

念仏の重要ポイントは「称える行なのか」、「本願を聞くことでいただく信」なのかという問答が「御伝抄」などにあります。

これはそもそも設定がおかしいのです。

「行」と「信」は対立概念ではないのです。

「行」に内在することを分析したのです。

親鸞は、悟りへのポイントが「信」にあったことを、「発見」したということです。

 

それまで、悟りへのプロセスは、教行証だと思い込んでいた仏教者の中で、

「法然門下」に事実、《菩薩道》があり、「なぜ念仏でそうなるのか?」と

考えたところに「浮かんできた」のが「心の転換」という「信」であったのでしょう。

であれば、《これは無意識の意識化》ですから、

 

「行」がポイントか?「信」がポイントか?という議論そのものについて、

ほぼ「親鸞が何を言っているのか?」わからない人も多かったでしょう。

《現代でも!》

 

「発見」や「無意識の意識化」という言語や概念がない時代ですから表現に限界があったのです。

 

ここにある問題点は、「行」の内容を《分析して言語化する》という概念がない時代、

《無意識》や《脳内データ》を「無表色(業)」というような〈曖昧な言語〉で理解している時代に、

 

「心に何かが起こって、凡夫が菩薩道を歩むようになった。」

「そのキッカケが〈念仏行〉だった」ということを分析して、《心の転換というプロセスを発見した》親鸞が、それを「信」に定義して、一生懸命に「真実や方便」を論じて理解をうながしている。

 

しかし理解されない。

 

結果、現代のように「言語化する」「無意識の意識化」などといった「概念がない」ことが、

「わかりにくい状態を作ってしまった」のだと推察できます。

 

《時代による表現の限界》ということです。

 

親鸞は「行」と「信」を対立させたのではなく、《「行」に内在するできごと(心理状態)を分析して論じた》のです。

 

法然さんは「諸行と念仏行」の違いを明確にして、

親鸞さんは「念仏行と信心」の違いを論じたということではないといえるでしょう。

 

だから「行文類」の中に「信」を論じ、教行証の間に「信」を入れたのでしょう。

「賜わりたる信心だからなにもしなくていい」のではなく、

「賜わりたる信心(=行)だからこそ、わたしが変化する」のです。

 

信心に「出体釈」がない以上、「行信」を分離して論じることは不可能なことになるのです。

教行証の「行=信」だと理解しなければ、理解不能になります。

2020-09-09 04:49:00

これって宗教でしょうか?

そもそも「お釈迦さん」の仏教から、インドにおける仏教と、中国の仏教、日本仏教と変遷する中で、仏陀が特別な存在、礼拝の対象になって、

「宗教チック」になりましたが、元来「釈迦」に「礼拝する」というのは「尊敬」を意味しており、時代や地域の変遷のなかで、

その他の仏に「救われた、救われたい」といって、礼拝するいう性質のものではありませんでした。

つまり仏教は元来、いまで言う「宗教」と基本概念が違うので、「哲学や思想」にカテゴライズされるものといえるでしょう。

その点「特殊な宗教」といえるでしょう。

また、こないだまで「宗教だった」団体が、現代は「宗教を嫌がる日本人が多い」ので、セミナーにしていたり、

教育団体としている宗教団体も増えており、このケースと仏教は、流れは逆ですが、いずれも「宗教という枠組み」でなくとも、

不自然ではありません!