インフォメーション(日々更新中)

2020-09-09 01:42:00

【基本中の基本】

八正道の「正思惟」について、スマナサーラ長老は、

・無害心 

・無瞋恚 

・無貪欲

といわれています。

 

最初の無害心は、生きとし生けるものに対して害を与えないと。どうやったら助けてあげられますかと命を守ることを大事に考えて、慈しみの心に基づいた考え方をするということ。

 

無瞋恚は、怒らないことです。怒りの基は、結局自分のしたいことを邪魔されるから怒る、つまり底に欲望というものがあります。自分の都合に悪いもの、自分に好ましくない人々をなんとか倒そう、なんとか害を与えようと、怒りをもって暴力をふるうんです。そうすることで本当に世の中生き辛い世の中に変わってきます。そうではなくて自分の怒りをコントロールして、考えるときは怒りをなくして考えて欲しい。そういう考え方なんですね。

 

無貪欲は「余計な欲」と解釈したほうがよいですね。この世を生きていくは、物が必要になります。私たちは余計なものまで、いっぱいものを欲しいと思うんですね。切りがないんです。「お金はいくらでも欲しい」とか、「クルマは何台あってもいい」というように際限なく欲望をつのらせてしまいます。貪欲は余分な欲という意味です。その余分な欲のために人間は大変な苦労や悩みを背負いこんでいるのです。貪欲を離れることです。

 

真実から離れた幻覚のような三つから離れた思考が正思惟です。

2020-09-09 00:18:00

初地からの歩み‼️(法蔵菩薩道)

正定聚。

これを初地ではなく

「等覚」に定義する論は「行文類やそれ以外」にもほぼ出てきません。

 

なのに、正信念仏偈に、「成等覚証大涅槃」といきなり《初地=等覚》とでてきます。

 

これは、「初地から十地」をすっ飛ばして、等覚に至るということですが、

十信、十住、十行、十回向から十地の初地である第41ランク目を

第51ランクに「等しい」と定義しているのです。

 

それは、初地は「不退転」だから「等覚」に等しいということだ

と推察されるのですが、

 

これが、この講義の[2–19]のなかほどに記述した、

 

親鸞においては「夕べからだんだんと《フェードアウト》して滅度に至る」と

書いた理由でもあります。

 

「初地から等覚への歩み」こそ《念仏行者》のすがたであるといえましょう。

 

そういう意味では、「いまのわたしは7地ぐらいかなぁ」という風に

念仏行者として歩むことが、「行」の《現実論》といえます。

 

もちろん煩悩を所有する「肉体」が滅せば、「無条件で正覚」であることは、

すべての存在が等価(平等・同じ)です。

 

また弥勒は、あえて五十六億7千万年のちまで、成仏しないという菩薩です。

 

そういう意味では、法蔵菩薩の「不取正覚」と同じかもしれないのです。

 

つまり「わたし」が成仏するまで成仏しないという《菩薩のあり方》です。

 

法蔵菩薩は「垂迹」でいすから《元は仏、如来》であり、

十界でいえば、菩薩は〈第9ランク〉ですから、

 

真如より来生した「法蔵菩薩」が、

 

わたしが「諸仏称名からわたしの称名」になった正定聚に至った時点で、

「法蔵菩薩の願行の道を歩むもの」となって、

「等覚」に誘導されることになるのである。

 

と推論できます。

 

ここで、弥勒菩薩は「一生補処」という五十六億7千万年のちに

最後の生を終わって、正覚という完全なさとりに至るのですが、

 

「正覚」に至った時点では、そもそも《正覚=すべて一如》ですから、

この時点では、もはや「わたしもあなた」も同じでしかあり得ません。

 

ですから、【現実的には等覚に至ることが、今のわたしの究極】になります。

そういう点でわたしが「今、一生補処(浄土住在)であって、

このいのちが入滅することで正覚となる」のです。

 

ここを「死ねば」と表現するのは不適切です。

なぜなら「等覚に至るようになるということ」は、

 

「生死を無分別智で生きる身になり、どちらも同じ、

大宇宙(真如)における状態の変化でしかない」といのちのありようが

見えてくることなのです。

 

このことを「生死出づべき道」と言われています。

 

この文言の「生死」の問題は、「生きるか死ぬかの問題ではなく、

生死分断する煩悩思考《虚妄分別》の問題だ」と

仏智によってわかるようになるからです。

 

生死を分断する、《二元的思考が苦を生む》ということです。

 

[健康と病気」「勝つか負けるか」「金持ちか貧乏か」etc.

 

どういう状況でも分別を超えた

「さとりが《観察》できるようになっていく」のです。

 

また、「草木国土」(唯信鈔文意)も「蜎飛蠕動(虫)」(異訳の大経)

も真如であると見えてくるのです。

 

 ですから、現実的には、この現生において、初地から”いかに等覚に至る”

【念仏行者になるか】ということが【重要ポイント】です。

 

この点で、親鸞は《正信念仏偈》に「行者の究極」を示して、

「初地から等覚へのプロセスの重要性」を述べています。

 

しかし、教行証文類以外を見ても、それほど、《弥勒と同じように等覚である》

ということには、触れておられないのです。

 

あくまでも「生死を分別せず」今、念仏行者として、

「方便の無碍光如来の法に生きて、究極のさとりである

《空性、真如》に至るまたは《近づく》=《ウパーヤ(方便)》か」

 

ということが【重要な実践】なのです。

 

従来のように「名号のはたらきにより、初地なんだけど等覚」です。

といった論を無視したうえに、現実から遊離したファンタジックまたは

スピリチュアルな教えではなく、

かなりな《現実論》であるといえます。

 

☆ただ地球の寿命は、地球が地球として存在できるのは、

17億5000万年後という説ですから、

弥勒菩薩さんはどこに現れるんでしょうね(≧∀≦)

2020-09-08 01:56:00

意外に知られてないこと。

国旗をあげたりするときに「胸に手をあてる動作」はフリーメーソン式だって、

大概の人は知らないでしょう。

2020-09-06 23:56:00

神仏は存在するか?

神仏は「それらが存在するかどうか」ではなく、それらはわたしにとってどういう存在か、そしてそれらの教えによって、わたしがどうあるべきか、わたしは「どう存在しうるか」という点が重要です。

2020-09-06 03:54:00

ニセモノさえ摂取する❣️

教行証文類の化身土文類をよんでいくうちに、

「廃立」ではなく「摂取」だとわかりました。

 

人間の機根には「占いなどをこえられないひともいる」

つまり19、20願と同じで「自我行」「自我執」を超えられないひとに、

「にせもの」だと教えつつ、

 

とはいえ、そこを超えられないひとをも「(法蔵)菩薩」は摂取する。。

とラストに結んであります。

 

そういう機根、資質のひとは「空華から抜けられない人のようにいる」けれど、

菩薩を行じるものは「そのようなひとを理解して受け入れる」

という前提がなければ「無碍光如来」の甲斐がありません。

 

わたしが法蔵菩薩道を歩むにあたり、なぜ超えられないのかと智慧をもって、

慈悲心のなかで関わるということです!

 

親鸞さんは「対機根」を考えて、おられるということです!

だから「和讃」でも「悲嘆」という「なげき」であっても、排除の論理ではないのです。

 

真宗僧侶がいかなる法を説いても、多くの布教使は「法礼目当ての資本主義の法」を説いているのです‼️