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2020-06-22 02:04:00
禅が欧米に広まった事情‼️
わたしが知る範囲で回答いたします。
日本の仏教における禅という意味なら、およそ「日系アメリカ人一世」が定着したころに、
在米日本人のために、各宗派がアメリカ(とくに西海岸)に寺を作りました。
日本にも「朝鮮、韓国人」のための「基督教会」があるようなイメージです。
そこで「日系二世、三世」になる中で、欧米に「東洋の神秘」が流行っていきました。
そのなかで最も仏教をイメージしやすく「宗教」ではなく、メンタルを整える「思想またはメソッド(行)」として、
「禅」が広まったといえるでしょう。
このように、欧米では「禅」は「宗教」という概念でとらえることはほぼないといえます。
「ヨガ」も本来は宗教ですが、今や日本や欧米でヨガを宗教と思わないひとのほうが多いのと同じことです。
しかし、欧米で「浄土真宗」のような教えは「阿弥陀如来の救い」といったメソッドというよりも宗教的側面が強いので、
流行ってはいません。
ただ、欧米での「日曜礼拝」は、キリスト教にならって「浄土真宗」でも行われてきたのです。
浄土真宗では「サンデースクール」といって、子ども時代から「仏教の基礎」から教えているので、
結果、欧米では「仏教は思想、哲学の範疇」と捉えられており、
浄土真宗でも、いまは「純粋な欧米人」も寺院に通うひとが少しずつ増えているようです。
こういった欧米人の間では、意外と日本人より「本来の仏教」を理解しているひとが増えており、
なかでも「禅」は、釈迦をイメージするメソッドとして気軽に取り入れられてきたようです。
以前、日本の禅宗で真剣に「悟り」を得ようとしていた白人さんが、「どうしても悟れない」といって、
たまたまわたしどもの寺院に来られた時に「浄土真宗」というか「親鸞」がいいといって、
「親鸞の哲学」として、帰米後も「英語の仏教書」で学ばれて、いまでもアメリカの真宗寺院に通っておられる方がおられます。
日本で仏教が正確に伝わらないのは、かえって歴史や既成概念がジャマをするからだといえるでしょう。
どの宗派であれ、もう一度「素」から学んだら、欧米のように「宗教定義」にならず、
「深奥なメンタルを整えるメソッド」と現代人も捉えて「その叡智」を学ぶことができるといえるのではないかと思うのです!
そもそも欧米にある「神智学」も同じような叡智を説いていますから、宗教から「そのエッセンス」を抜き出した智慧の学びというイメージと同じなのかもしれません。
2020-06-21 23:22:00
無我を生きるとは❣️
あなたが「無欲」で「企むことなく」自然で純粋な思いで「行為」を行うということがある場合、、
たとえそれが「他人から見て」誤解されようと、あなたの「生命」が思考以上のチカラをもってそうしようという「ベクトル」を持っているならば、、
それは「無我」である生命体が、自然にすることなので、「誤解や批判を受けようとも」行なって行くことで、シンクロニシティなどが起こり、、
成果を出すでしょう。
それは「あなたであってあなたではない自己」が行なっていることですから、無我なる生き方と言えるでしょう。
わたしの経験からいっても、「企んで利益を得よう」としても「上手くいかない」ことが多く、
「無私無欲」で行うことが成果を出すということの方が多いものです。
「他人がどういうか、どう思われるか」なんていう気持ちで行うことは、自然の動きに「ブレーキ」をかけてしまいます。
あなたの生命が自然に「こうしよう」と思う生き方をすることで、「バカにされようと嘲られようと」自然が動き始めるものです。
そこから起こるさまざまな動きに目を向けると、成果に向かって行く多くの要素が見えてくるようになります!
こういうあり方は、現代のように「計画、企画重視」の社会に慣れていると「体得すること」が難しいかもしれませんが、
自己の生命が、自己を超えて思考する、動こうとすることに目を向けられるようにクセ付けて見てください!
2020-06-21 22:22:00
嫉妬する自分をどうしたらいいか。。⁉️
人間の脳は「扁桃体」で感情がコントロールされ、「前頭葉」で「理性、知性」がコントロールされますが、
これらは関連し合っています。
たとえば、「妻がほかの人と仲良くすると嫉妬する」という場合、、
扁桃体の仕業というだけではないのです。
前頭葉が脳にすりこまれたデータを処理することに関わっています。
つまり「浮気はいけないこと」といったことを前頭葉が理性(倫理)として処理すると同時に、。
扁桃体が「所有欲」を並行処理します。
また、扁桃体で「欲しい人や物が手に入らないと嫉妬に悩む場合」にも、、
前頭葉が「平等だからわたしも所有していいハズ」というなにかの「言い訳論理」を立てています。
よく「国家」に不満をいうひとがいますが、、
ここにも「不満」という「情」に、「平等ではないか」という「論や倫理」を立てて、
「合理的意見」として表現することが多いものです。
つまり「嫉妬」という感情の原則には、こういった「情と理屈」が絡んで「セロトニンが過剰分泌されている状態」があります。
そこでこの状態を脱出するためには、「なぜ欲しいのか」「なぜ羨むのか」など「すりこまれた理論」を排除すること、、
また「嫉妬の中」に、自信がないから「欲しい人や物を得ることができない」という思いはないか。。
嫉妬に振り回されていることで「なんの得があるのか」というふうに、前頭葉で「自分に起こっていること」を分析することが有益です。
日本は「心理分析」などを普段しませんし、「前頭葉で考えるクセ」がないので、このようなことは「進んでやる方が仕事などほかのこと」にも活かせるのです。
また「生育歴」のなかで「ほかの子どもや兄弟」などは、物を与えてもらえるのに、自分は与えられなかったといった経験や、、
「自分は成績が劣っていたから、いつも思い通りにならない」といった思いを引きずっているのかもしれません。
とはいえこういったことも「前頭葉」で「なぜそうなったか」を分析追求することは有益です。
「バカな過去に引きずられている〈現在〉の自分」を知って、いつまでもこんな状態では、一生バカらしいことに嫉妬しなければいけない人生になる。
ということに目覚めて、「すりこまれた過去、すりこまれたルールや倫理、いつもと同じパターンの思考」を変えていかなければ、、
あなたはズッとそのままです。。
「恋愛」でやきもちを焼くのなら、「互いに浮気ありの契約をする」というカップルもいるようです。
「付き合いたい目的のひとを得られない」という場合でも、「なぜそのひとでなければならないか」と自問自答してください。
そのお目当てのひとは、あなたが思っているほど「いいひとではない」ということは、頻繁にありますから。。
わたしは、かなり「クール、ドライ」だと言われますが、いくら「キレイでも魅力的でも」めんどくさいひとが多いことを知っているからです。
これは「男女を問いません」が、わたしは相手がどれだけ「前頭葉派」でプロファイルできる人かどうかを見極めています。
そういう意味で「イヤなヤツ」ですが、そう思うひとはわたしにとって「イヤなヤツ」というか「どうしようもないかた」になるんです。
いずれにせよ「情も理も」社会の中での刷り込みに「惑わされているひと」が多いものです。
もし、どうしようもなければ、医者に行き「抗セロトニン薬」をもらうといいかもしれません。
2020-06-20 21:14:00
個人と社会‼️
社会のため、国のために犠牲になるか。。
個人を尊重して、社会保障を徹底するか。。
個人が大事か、全体(社会)を大事にするか?
よくある問いでしょう。
家族や町内すら、ひとが複数いれば「全体」となるかもしれません。
「妻が大事か、親が大事か?」なんていう問いもありますよね。。
全体を見ると「ルールだの契約だの」といったことが出てきます。
夫婦ですら契約をするひともあるようですし、社会にはそういう「決めごと」が必要なのかもしれません。
そういう点で、「政治」はそういう部分を担うのでしょう。
しかしながら、沢山の社会ルールのなかで、いろんなひとがいて、ルールの世界だけではどうにもならない「個人の問題」があります。
そこを担っていくのが「宗教、思想、哲学」という「理念」といった思考の世界ではないかと思うのです。
「そういったものに頼らない」というひとが日本にはおられます。
そういうかたには、是非とも「なにかの叡智」に触れていただけたらと思うのです。
「長年培われた叡智」には「個人にとって利益になる内容が深くて多い」ものです。
全体的な「社会」に取り組むにせよ、そういう叡智があってこそ、より良い社会が実現するでしょう。
「社会のために個人が犠牲になる」
「個人の身勝手が社会を崩す」
そういったことをより軽減するには、本能や情報や、まして「意味不明な伝統」ということだけで個人が生きていても、社会は愚かになる一方でしょう。
また、政治による社会が愚かであれば、個人も愚かになるでしょう。
そういう意味で、「個人を担う〈宗教者など〉」は確かな叡智を学び実践することは大切なことでしょう。
また「社会を担う〈政治家〉」も叡智の中で全体を見ていくプロであることを追求すべきでしょう。
またすべてのひとがこういった「叡智を学ぶこと」を普通に行うことが、この理想の実現に大切なことだと思うのです。
これを「理想」と言わなくてもいい状況になることを願って、日々の精進を重ねています。
2020-06-19 11:00:00
事実と真実はどちらが重要か?という問いに‼️
便宜上「事実、現実、真実」にわけてご説明をいたします。
「事実」は「現象やことがら」ですが、私たちはその「現象」に「意味や解釈」を無意識または意識的につけています。
たとえば、「誰かからプレゼントをもらった」という「現実」は、「AがらBにCが移動した」という「事実(現象、出来事」です。
これを、相手は「要らないものを、ただ処分のつもりであげた」と意味づけしているかも知れません。
ここの違いが、それぞれの「現実」ということです。
「仏がプリントされた絵像」があるとします。
「こんな紙にプリントされたもののなにがありがたいのか」という人もいれば、
「ありがたい仏さま」と思って礼拝する人もいます。
ここで「こんなプリントされた紙のなにがありがたいのか」という人も、
同じ状態の「紙幣」はありがたいというでしょう。
つまり「現象に対する意味づけ」がそれぞれ違うので、見ている「現実が違う」といえるのです。
「紙幣も仏教の絵像も〈信用〉」で成り立っています。
意味づけの背景には、そのひとのものの見方という課題があるのです。
そこでその「事実+意味づけ=現実』が、「ひとにとって有益な実を結ぶ意味づけ」ならばこれを「真実」といいます。
仏教でいう「真実」というサンスクリット語の原点では、「真実」の意味を「果実が実を結ぶ」という意味で使われており、
「果実を枯らせてしまう事実+意味づけは〈不実〉」といいます。
こういったことから、「事象である事実に、互いが実りある意味づけ」をすることを「真実」といい、
「事実と真実は異なる内容」なのです。
ここで「日本語では、お前が殺したというのが真実だ!」といった使い方をしたりしていますが、
「お前が殺したのは事実だ!」といえば、より正確だといえます。
ちなみに「不実」は、互いを傷つけ合う「意味づけ」なので、「実を結ばない〈不真実〉」ということです。
みなさんが「現象をより良い意味づけで真実の実を結ぶ」ようになれば良い社会になることでしょう!