インフォメーション(日々更新中)
2020-02-24 21:30:00
DNAって。。。
DNAって結構あいまいだった‼️
In fact, DNA testing is not accurate!
實際上,DNA測試不准確!
https://news.yahoo.co.jp/byline/nakayamayujiro/20161130-00064707/
http://www.m.chiba-u.ac.jp/class/houi/topics/topics-3.html
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h20/honbun/html/kd320000.html
2020-02-22 03:41:00
救われない布教‼️
前回の引用から。。
ーーー
なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・
「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。
ーーー
この部分で、「概念の固定化」とある部分が大きなポイントだと思います。
「同じ文章を読んでも、同じ概念を持つことはほぼないといえます」
理由は「いわずもがな」で略しますが、
真宗の法話を聞いて、、
「阿弥陀さんが死んだらええとこに行かせてくれる」という概念化から、、
「阿弥陀如来によって悟りへ至る」という概念もあり、
「名号なるものが、浄土へ行かせてくれるねん」と言った概念もあるでしょう。
ここに正しさはあるでしょうか。
釈尊にとって「正しさ」ということは、「苦悩のもの苦を根源的な部分から除くこと」であり、「それ以上でも以下でもない」でしょう。
英語の「正義=justice」は、「公平、バランス、ある定義においてそれ以上でも以下でもない」と言った意味を持つようです。
また、釈尊は「教団や組織」を率いていたという意識はあったのでしょうか?
つまり「セクト意識があって」わたしでなければ救えない。
と思っていたのでしょうか?
この「釈尊に関する概念」も固定化できるのでしょうか?
だからといって、誰にでも「なんでもいい」という姿勢であったかどうかもわかりません。
《わからない過去を論じる意味はない》
これが真実ではないでしょうか!
ならば《明確になる未来を現在させて生きる方が有意義ではないのでしょうか!》
釈迦がどう言ったかではなく「釈迦などの先人の智慧を得て、「いま苦しむものを(自己を含めて)救う」という現実に意味があることを論じることこそ、人間種にとって意味があるのではないでしょうか!
偉いひとや悟ったひとが言ったことを「概念化」して伝えてみても、
その概念が「ひとを救うことがどこまで可能」なのでしょう。
少なくとも「ほんとうに〈ある概念〉によって救われた事実があって伝えられることなら、意味はあるかもしれません」が、、
「阿弥陀如来」の信心をいただいて「称名」していて、どうにもなっていないならば、「救われるそうですが、いまわたしは実体験中でまだわかりません」という方が「正確」で、かえって「共感は得られる」でしょう。
しかし、僧侶や布教使が、「世俗で苦しんでいる人にあらかじめ設定された場所で、阿弥陀さまの救いが云々」といってみたところで、
その僧侶や布教使が「名誉やお金」のために「なりもしない話をしている」と聴衆は思っているようです。
(事実お礼が安いのどうのと、ウラではいっている布教使も多いものです)
これでは「共感すら得られません」から、「門徒(檀家)の役員さんはめんどくさそうに聞いている」のです。
「こんな話になんでこんなにお金を払うねん」と思っているのは「出資者」である門徒さんであり役員さんなのですから。。(わたしのエリアでは報恩講は特にそうです)
そこが納得しない以上「無意味な概念」を話していると「自省しなければならない」でしょう。
「それ以上でも以下でもない」適正な救いを伝えなければ無意味であり、社会から「葬儀を含めて不要」と思われても仕方がありません。
しかし、こういうFBで問題提起をしている僧侶方は、もはやそう思っておられるのでしょう。
何にもしていない「僧侶方」が問題なのかもしれません。
これは「キリスト教」にもいえることで、わたしもいろいろ「キリスト教会」を尋ねてみましたが、僧侶事情と大差ない感は否めません。
また「古くなった新興宗教」も同じ状態のようです!
2020-02-21 03:55:00
宗教のM&A‼️
遡っても、シルクロードの時代から「貿易や文化交流」はあった。
いまでは「当然のこと」であり「技術交流」もある。
また「M & A」もあり、多くの分野では垣根を超えて交流がある。
いわずもがな、「シークレット」について、それはそれであるだろう。
しかし最も「交流されない」のが宗教である。
日本では「会話にすら出てこない」のは、宗教の垣根が高いからではないのだろうか?
それは「宗教団体に所属していない一般人にも及ぶ」といえる。
日本語の用法というお堅いことは置いといて「お寺は敷居が高い」というのも、しきたりや地域による「縄張り」という要素が垣間見えるからかもしれない。
わたしは「布教使」という役目によって「いろんな寺院」に行くけれど、その寺院の檀家さん(門徒さん)の雰囲気は「住職さん」の雰囲気を見ているとよくわかる。
「お堅い住職さんの寺院は檀家(門徒)さんもお堅い雰囲気である」
「柔軟な住職さん寺院は、柔軟な雰囲気がする」というのは、多くの布教使は体験しているであろう。
わたしのような者は「住職さんがウエルカム」な寺院が多いけれど、
何かの間違いでわたしのようなものが「お堅いところへ行く」と二度とご縁はないものである。
「ガードが堅いのはなぜなのだろうか?」
「摂取不捨」の世界観の中にいながら「選取廃捨」されている感がある。
こういった「風潮は日本語における仏は絶対にして軽んずべからず」という「本末転倒した堅さ」がある。
最近は「以前の新宗教団体が礼拝の対象物を持たずにスピリットを変える」というような「絶対者を持たない智慧のセミナーや教育団体」に変化しているところもある。
そういうところは「どんな宗教に入っていても、ウエルカムである」が、いかんせん「宗教団体」は「うちの教えが絶対である」という姿勢を崩さないために、「ちょっと立ち寄ってみようか」とも思えない。
今後は、世界レベルで見ると「宗教のM & Aがあってもおかしくない」と思えるけれど、日本は「小さな世界で収まっているところが多い」と感じる。
それは、さながら鎖国のようでもあり、篤信者は丁寧に扱われて、新参者は混ざりにくい雰囲気に満ちている。
そろそろ「2020年」なのだから「グローバルな交流があってもいい」のではないか、意味不明な「宗教サミット」では、一般人にはなにも届かないし、「パフォーマンス」にしか見えない。
「真宗の僧侶が、キリスト教の牧師さん」に「昔は交流があったから、似通った部分があるようですね」なんていう声をかけて、「交流をすれば和合できるハズ」である。
悪魔崇拝なんていう「フリーメーソン」では、そういう垣根を超えて、それぞれを尊重しながら「友愛」を守っている。
この組織は「多くの日本人は知らないうえ、多くの誤解をしている」からあえて書いているけれど、見習うべき理想像がある。
セクトの壁を越えようではありませんか?
そうしたからといって、「自分の信仰を曲げることにはならない」のですから。。
どの宗教も「神や仏」のためにあるのではなく、「苦しむ人間のためにある」のですから。。
2020-02-20 23:50:00
お盆や数珠は仏教じゃなかった、、かも❗️
【ご参照ください】
①お盆と先祖供養
仏教にはもともとお盆という風習はありません。お盆は盂蘭盆(ウラボン)の略ですが、これは「死者の霊魂」を意味するペルシャ系のソグド語「ウルバン(URVAN)」からきたというのです(仏教学者・岩本裕博士の説)。
ソグド人には家に祖霊を迎え、供え物を共に楽しむという風習がありました。中国のお盆はこれを取り入れたモノだというのです。
また景教徒にも、「じつは先祖の霊魂の慰安を祈る風習」があったと言います。
ユダヤ人は昔から、死者の慰安のために祈る風習を持っていました。ラビ・トケイヤーにお聞きしたところ、今日でもユダヤ教においては、ユダヤ暦七月一五日の「仮庵の祭」のときをはじめ、年に数回、先祖の霊のために祈る特別なときがあるそうです(イズコル)。
じつは中国には、ソグド人や景教徒がやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としてのお盆の風習は、ありませんでした。意外に思われるかもしれませんが、インド仏教にも中国仏教にも当初、お盆や、死者のための供養の行事はなかったのです。
しかし、中国は祖先というものを大切にする所です。その中国において、景教徒たちは勢心に、神の憐れみに満ちた取り扱いが先祖の霊魂にあるように祈りました。そうやって先祖を大切にする景教徒たちの態度は、中国社会でたいへん歓迎されたのです。そのために景教は、非常な勢いで人々の間に広まりつつありました。
一方、仏教は「先祖や親を大切にしない教え」として、儒教徒などから攻撃を受けていました。仏教は出家王義ですし、もともと、親を捨てないと救われないとする教えです。また先祖に執着心を持っていては修行できないとする考えですから、先祖や親への孝行を説く儒教の人たちから、さんざんに非難を受けていたのです。
それで、仏教でも先祖や親を大切にする態度を見せる必要がありました。中国の仏教僧たちは、景教徒たちに対抗し、「彼らに負けないだけの死者を弔う行事を仏教でも持とう」、と計画しました。そうやって、景教徒が中国へやって来た七世紀頃から、中国や、また日本でも、お盆の風習が始まるようになったのです。
ソグド人とインド人の混血として生まれ、長安の都で景教教会のすぐ近くに住んでいた密教僧・不空金剛(アモガ・ヴァジラ)はまた、西暦七六六年に、仏教徒らを集めて盛大な「死者のための供養祭」を行ないました。七月一五日のことです。これは道教の「中元」の日でもあったからです。
彼らはこうして、様々な宗教概念を仏教的な概念に編成し直し、景教徒への対抗意識から、歴代の中国皇帝の慰霊のために祈りました。このようにして、中国における「お盆」の風習が、仏教行事として定着したのです。この風習は、さらに唐の時代の中国にわたった空海や最澄らを通して、日本にも輸入されました。日本でもこうして、今日見られるような「お盆」の風習が定着したのです。(『日本・ユダヤ封印の古代史2-仏教・景教編』)
② 【ご参照くださいの2】
数珠と焼香
僧侶の必需品であり、私たち一般の者でも葬式には必ず持参する数珠、これもキリスト教のコンタツ(数珠)が元になっているようです。ケン・ジョセフ氏は「一般に、仏教における数珠の発案者は、中国、随・唐時代の僧、道綽(どうしゃく 五六二~六四五)だったと言われています。しかし、これはちょうど中国に初めて景教が入った時代で、景教徒の風習であった数珠が、仏教にも取り入れられた」のだろうと述べておられます。
この時代、『大秦景教流行中国碑』にあるように、中国において景教が全盛であったことと考えあわせると、なるほどと頷けるモノがあります。
また、焼香という風習についても、仏教には元々なかったモノです。これについても、ケン・ジョセフ氏は、「じつは線香とか焼香の風習は、もともと仏教の風習と思うかもしれませんが、そうではありません。仏教にははじめ、そうした風習はありませんでした。一方、インドや中国、日本にやって来た東方キリスト教徒たちはみな、香炉などによって香をたく風習をはじめから持っていました。ユダヤ人も、礼拝のために香をたく風習を、モーセの「幕屋」(神殿の原型)の時代から持っていました。(中略)また、景教の教会では、ろうそくを立て、あかりを灯しています。祈りたい人はろうそくを買い、それをろうそく立てに立てて祈るのです。これも、仏教の寺院に同じ風習があります」と述べておられます。
このように、葬儀と供養という面から、日本の文化というモノをみてきましたが、仏教とは違う日本の顔が表面に浮かび上がってきました。
生活の面、言葉の面、また神道の世界からアプローチしていけば、我々が思いもつかなかった日本が浮かび上がってくるはずです。
まとめ
今、仏教でいう常識について、ちょっと偏った見方かもしれませんが、一つの観点をあげてきました。こういった作業を敢えておこなったのは、それは仏教がどうとかキリスト教がどうとかいう問題でなく、葬儀が必要なものかどうかという切り口から、自分にとって「死」とは何か、「生」とは何かということを自由に考えてみて欲しかったかからです。今まで纏っていた「宗教」とか「常識」とか「世間」とかいう鎧を脱ぎ捨てて、自由になって、この問題を考えてみて欲しかったからです。
「仏教では」とか、「キリスト教では」とか、「世間では」という発想ではなく、自分はどう思っているか、裸になって考えてみることから本当の答えが出てくるような気がしてならないからです。
(以上引用)
2020-02-20 23:43:00
なにが仏教なのかなんてどうでもいい‼️
なにが仏教やキリスト教なのか?
なんて「問題じゃない‼️」
「人類にとって、なにが精神を充して、精神的向上し合う関係を構築できるか」
ということ以外は「戯論」でしかないうえ、逆にいろいろな「疑念やセクトの壁を生むだけである」
(John Watson)
ーーー
あるいくつかのブログから。。
その1
外に偽経があるんじゃない
人間は悟れる人はお経でなくても悟れるものです。
庭掃除をしていて竹に石コロがカツンと当たって大悟した香厳和尚。
咳して血交じりの痰を吐いて大悟した盤珪禅師。
経典や真の師匠がいなくても本当に悟り抜ける人も、実際に類まれとはいえ、いるものです。
私も父母恩重経などの偽経とされるものを「ナンダ、偽経だったんかい」と、一時期嫌いになったものです。
ですが、正しい法の眼を以ってそれを読めば、そのお経の持つ力だけは純粋に摂取できるものです。
ディズニーのアニメや日本のアニメだって、偽経といえば偽経ですわいの。
ところが、こちら側に正しい法を見極める眼があれば、日本のアニメですらネット情報ですら、活きた経典、活きた600の金文となる。
学者さんたちが「これは偽経だ、これは(三)四法印が説かれているから真の経だ」と分類なさる。
たとえそこに四法印が説かれている経典であっても、読んだ当の本人がいくら読んでも悟れないのは、偽経であるか、偽経ではないからではない。
自らの我見によって、ものを枉げて読んでいれば、それこそが偽経以上の偽マナコ。
賢者は偽経であってもそこから大悟ある醍醐を抽出する。
この世から一切の経巻が消え去っても、天地山河という経典に偽経真経の隔てはない。
目前は常に如是の経が転ぜられている。
そこを読まずして、経典は読むことはできない。読むこと「が」できない。
文字を読もうとするマナコがすでに、経典をピックアップする頭脳モードではないからです。
その2
正直なところ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったため、後世に文字にて表されて伝えられている経典というものは、誤解を恐れずに申せば、釈尊のそのままの真意なる教えとして捉えて良いものかどうかは、非常に疑わしく、また、文字で表されたものは、釈尊の教えでないとするならば、全て「偽経」と言ってしまっても、ある意味において過言ではありません。
なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・
拙私見ですが、「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。
また、文字化の否定のことを「言語道断」、「戯論寂滅」、「離戯論」、「離言真如」などと概念化してしまっても同様なことになりかねず、やはり、宜しくないものとなってしまいます。
しかし、それでは、一体どのようにして釈尊の教え、仏教を修学・修習していくべきであるのか、となりますと、如来が不在である以上、やはり、私たちは経典を頼りにしていく他に、その教えを学び修していく術はないのであります。
もちろん、経典は、何も根拠のない教えというわけではありません。八万四千とも言われる釈尊の善巧方便による無数の教えにおける、ある一面であったり、要約や公約されたものであったりと、それぞれの経典における方便的な立場があると考えることができます。
アサンガ大師は「摂大乗論」にて、「最清浄法界等流」というお言葉を使われておりますが、まさに、清浄なる真理の世界から流れ出ている教えであるとして、経典の内容について、慎重に吟味して扱う必要があると存じております。
問題は、では、どの経典やその中の教えが、(自分やそれぞれの衆生に対して)頼りになり、あるいは頼りとすべきかということについては、それも慎重に判断していくことが必要となります。このことにつきましては、下記の拙回答もご参照を頂けましたらと存じます。
その3
「浄土真宗は仏教なのか?」 浄土真宗誓教寺住職 藤本晃氏著 サンガ出版
もう、タイトル名からして興味深々です。
浄土真宗のお坊さんからのぶっちゃけ、というのもすごいですw
そして、仏教をそこまで知らなかったわたしには内容がまた衝撃的です。
20p
「法華経」「観音経」「維摩経」「般若経」「華厳経」
これら大乗仏教経典は、お釈迦様滅後、500年してインドでだれぞがお釈迦様とは無関係に作って発展させてきた「偽経(偽もののお経)」であったことがあきらかになった。と、あります。
浄土三部経典である、
「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」も、インド北西部で創作された「偽経」である、とあります。
そして日本に伝わった仏教はほぼ、この「偽経」のみ。
では、その問題点は?
大乗経典は、
500年後の人たちが次々に創作しておいて、「お釈迦様が説いた仏説だ」と『嘘』ついているのだと。
仏教では、嘘ついてはいけませんよ。と説いているくせに、大乗経典は嘘ぶっこいているのです。大問題ですw
大乗経典の問題点はまだまだ続きます。
お釈迦様の説かれた教えを「小乗仏教」と呼び(そう呼び始めたのは大乗仏教を製作した人たちだそうです)、
自分たちの造った仏説に説得力をもたせるために小乗仏教の内容を「引用」もしくは単純に「盗作」しているわけですが、
そのうち、自分たちのつくった仏説こそが「正しい教え」である、と言い出して流布させた、ということです。
それは、「阿羅漢」と「仏陀」を混同させてしまったことにある、とあります。
「阿羅漢」とは、お釈迦様が、何万回、何億回、と人生を輪廻転生する中で大変な修行を行ってついに到達した最高の悟りの境地のことです。
「仏陀」とは、「無師独悟」師匠も教科書も何もない状態でたった一人で阿羅漢に至った唯一の人「覚者・目覚めた者」という特別の尊称のこと。
お釈迦様が阿羅漢になって、そのお弟子さんに教えをもたらし、お弟子さんも阿羅漢になりました。が、お弟子さんは仏陀ではない。
それを大乗経典製作者は、30p
「阿羅漢の悟りは小乗の悟りであって、まだまだLVが低い。大乗の、仏陀の悟りでないといけない。
そしてこの大乗経典こそが、大乗の、仏陀の悟りを説く教典である。
仏陀であるわたしが言うのだから間違いはない」
と、やってしまった。
わたしなりに例えていうなら、大乗論語というものを作って「誰でもこの大乗論語を読めば孔子様と同じになれますよ」
と言い出すようなもんです。
孔子様は、誰も真似できないLVで学問されましたし、苦労もされました。だからこそあそこまで素直に心に染み渡る教えになったのです。これはお釈迦様とて同じこと。
それを、どこの馬の骨ともわからん輩とその仲間たちが特別な称号である、ブッダ、を使って自分の経典の宣伝に使ってしまったのだといいます。
また、44p
とある大乗経典には「これは仏説である。ゆめゆめ疑うことなかれ。この経典を疑いそしり、焼き捨てたりするものは地獄に落ちるであろう」などと、脅し文句をつけるものまであったそうです。
あこぎな商売してますねぇw
こう聞きますと、大乗仏教、大丈夫?w といいたくなりますね。
しかし、日本に仏教が入ってきたとき、それはすでに大乗ばっかで、その当時の僧侶はこれこそ仏教の教え、と真摯に真面目に修行に取り組んだのだといいます。
大乗仏教経典とはいえ、初期の、小乗仏教の教えを「引用」してありますから、まったくの別物、偽者というわけではない。
それがなんであれ、真面目に学問する人にとっては大切なお釈迦様の教えであったわけですね。
さらに62pでは、阿弥陀仏は架空のブッダである。と書かれてあります。これもまた衝撃的w
そもそも「ブッダ」とは、「その世界で始めて、無師独悟した、人々を教え導ける師」という意味がこめられているそうで、
ひとつの世界に「ブッダ」はひとりしかいない。
にもかかわらず、大乗経典乱立と同時に観音菩薩や大日如来など様々な架空の仏や菩薩がわんさかつくられたそうな。
しかし、この世界にブッダはおひとりだけですから、どうやって説明したか。
この世界ではない、はるか西方の極楽世界というところのブッダでありまする~。と登場したのだそうな。
よそ様のブッダのおわすところなので「他方仏国土」これは、いうなればパラレルワールド。
いわゆる並行世界。
あるかも知れないけど、あるかどうかわかるはずがない世界。
この世界ではない、と単純にいいますが、つまりはどこにあるんだかわからん、みたことも聞いたこともない世界のブッダが、わざわざしゃしゃり出て我々を救ってくださる、というわけですから、これを考え出した人は、どういう思考の持ち主なのでしょうね。
そして「浄土真宗」は「極楽浄土」を説く宗派ですが、その極楽浄土も、当然ながらまったくの架空の空間。
お釈迦様は、輪廻の世界として六道輪廻を説かれましたが、当然、極楽浄土なんて六道輪廻の世界にあるわけがない。
極楽浄土は、仏教のいいとこどりをしまくって糊塗してつくりあげた概念なため逆にややこしくしてしまっている、と書かれています。
極楽浄土では、お釈迦様の説かれた六道輪廻の、地獄、畜生、阿修羅、餓鬼、の四世界と阿修羅抜きの三世界がない、ということになっております。
つまり、仏教では根幹として因果応報が説かれます。悪いことをすれば地獄へおちるぞ~! なわけですが、極楽浄土では地獄がないわけで、死んでそこへ往けば、悪を犯すという考えすらなくなりますよ~、と言うわけですね。
そして、極楽浄土へ往って「悟りを得る」んだそうな。
お釈迦様が生きて、ものすごい学問と修行の果てで得た「悟り」を、死んで極楽浄土へ往って「悟りを得る」わけです。どんどん簡単になってゆくようなw
死んだらどうなるか誰もわからないわけで、そういうことを言い出せばなんとでも言えるじゃんw と思います。
さらに50年ほど前から発生した「往生即成仏」なるトンデモ説まで現れたそうな。
「往生」したら輪廻の輪にゆくのに、いきなり「成仏」してしまったら、もはや輪廻から外れて完全に涅槃に入ります。
そうなると、お盆、という考えまでなくなる。死んでそっこう仏になるならお盆に誰が何のために帰る必要があるのか? ということです。
ましてや、死んですぐ仏になれるのなら、葬式で坊さんはなにしに来るのか? ということにまでなる。
そんな単純な考えでは、仏教の根幹をなす「因果応報」までなくなってしまいます。
では、お釈迦様の説く「悟り」とは何なのか。
115p
悟りには四段階あるとされます。四沙門果という。
まず「預流果(よるか)」
悟りの大いなる流れの一端に預かった果報、ということ。無常、苦、無我ということがはっきりとわかり、何が正しい生き方か、悪かが明確にわかる。ここではまだ輪廻の中ですが、転生しても地獄、餓鬼、畜生の三悪道には堕ちません。人間界か、天界のみに生まれます。そして七回転生する間に必ず阿羅漢という最高の悟りにいたります。
次に「一来果」
欲と、怒りがほぼなくなり、転生しても当然、三悪道はない。もう一度転生する間に阿羅漢に至ります。
三番目は「不還果」
一来果まで悟り、禅定に通暁していれば不還果にいたります。ここまでくると、転生することにすら興味がなくなるそうな。
そして、天界でも高位の禅定したものだけが至れる梵天界という天界に転生して、禅定の清らかな心のみになるそうな。そして梵天界でなくなるとそのまま阿羅漢に至る。もはや人間界に戻ることがないので不還果。
最後が「阿羅漢果」
お釈迦様が至られた最高の悟りにして、成仏。亡くなるとそのまま涅槃に入る。仏になるので完全に輪廻の輪から解き放たれます。
329p
「預流果」で滅する煩悩三つ
「有身見」余計な自我意識、「疑」、「戒禁取見」無駄なこだわり、の三つだそうです。
一瞬の悟り「滅」の瞬間に自我意識が消え去り心までもなくなってしまう。しかし、一瞬のことなのでその後の生活ではまた欲はでることはでるけども、以前ほど主張する気が失せてしまうのです。これが「有身見」
そうなると、次に疑いがなくなってしまう。この生き方で大丈夫だろうか? という疑いが悟りにいたることによって確信にいたる。安心するのです。心がすっかり落ち着いて自分の生き方に満足できる。これが「疑」
そこまでいくとほぼ自動的に、戒律やらしきたりやら無意味なこだわりが消えてしまう。世の俗人たちはなんでこんな無駄なことしてるんだろう? と不思議に思うことがあります。たとえば、わたしならタバコとかギャンブルとか。まったく無駄なことに時間と労力とお金を使う。お酒は少量なら体にもいいので呑んでも可、ですけど。そういう無駄なこだわりが消える。これが「戒禁取見」
これくらいなら、わたしでもわかりますね。わたしが「預流果」にいたっているのかどうかはしりませんが、ある程度学問して日々きちんと生きておればこれくらいは誰でも至れると思います。
そしてなるほど~と思われるのが、
仏教のいう「信」とは、256p
「正しい教え、道だ」と「納得」し「確信」すること。真理を信じるのではなく理解するのだそうな。
正しく精進し、観察修行(念)し、禅定をつくり、悟りの完全な智慧を開きます。教えを正しいと、見抜き、確信し、納得することで、
最後の悟りの智慧の一端が現れているのだ、と。これが仏教のいう「信」
なので、一般的な他の宗教のいう「信仰」は仏教にはない、言う。
「信仰」とは、259p
神様を拝んだり、その存在を信じたり、それにすがったりする。
その対象となる神が実在するかどうかを確認する科学的な作業ではなく、むしろ正反対に、
「非合理なるがゆえに信じる」という、心の非理知的なはたらきのことをいう。
仏教ではお釈迦様や涅槃に入られている方々に最大限の礼拝はしますが、それも「信仰して拝んでいる」のではなく、
偉大なる「先達に挨拶して」いるのだといいます。
禅も、仏を拝むのではない、仏も自分も本質は同じであると知るので拝む必要なない、といいますね。
ここまでご紹介いたしましたが、ほんの一部の一部。親鸞聖人が何を言ったのか、とかいうのは取り上げませんでしたので、気になる方は買って読みましょうw
こうしてみてみると、仏教というのを単純に宗教と捉えるよりは、修行道。ととらえた方がしっくりくるような気がしますね。
こうして生きておるとどうしても様々な問題や悩みにぶち当たりますが、そういうものから少しでも心を救うための修行。
不還果といいますが、確かに、学問して日々努力して生きておりますと、どうしたって以前の自分に戻れるはずがありません。
やっと少しは世の中がわかって、自分の生き方あり方がわかってきたのに、それまでの苦労をすべてほっぽって以前の阿呆な自分に戻るなど、考えるだけでも身の毛がよだちます。
以前にも書きましたが、因果応報を頭で知識として知っていたのと、現在、因果応報を腹で確信して日々生きておるのとでは根本的に人間が違ってきます。
自分のために、悪いことをしないのです。
今の世では、自分のために悪いことをする人がいますが、結局、その悪で己が身を滅ぼしていますね。
仏教に限らず、儒教でも、老荘でも、いや、西洋でもそうです。
「汝自身を知れ」と古代ギリシアの格言にもあります。
日々生きておるのは自分自身。
その自分をきちんと知れば、おのずと生き方も決まるというもの。
古人が、お釈迦様が明らかにしようとしたのは「間違いの少ない人生」だと思います。
最後に、
あとがき 356p
は、あえて、ここでは紹介しませんが、いまの仏教界というものがどういうものかわかりますので興味がおありのかたは一読されることをおすすめいたします。
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https://hasunoha.jp/questions/3070
https://hasunoha.jp/questions/3070
http://toyotomitooru.blog.fc2.com/blog-entry-61.html

