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2020-02-20 23:27:00

歯が。。😆

昨日の仮留めが早速取れましたが、取れて当たり前のポイントに詰めをしてもらったのと、今日は歯科医が休みなのでこのままで法話に行きました。

 

すると「なんと‼️」、、

この部分に歯がない方がしゃべりやすい。。Σ੧(❛□❛✿)

 

歯科医師に、浅く詰めてもらおうかなぁ。。

 

新たな発見です😆

2020-02-20 23:20:00

世界的に理解し合う関係‼️

なんだか「ある人からサゼスション受けて」最近ちょこっと調べています。

 

道綽と景教の関係と、道綽と善導の関係の中で「確立した」のが、中国浄土教だという「仮説」が成り立つのではないか?

 

浄土教=仏教とキリスト教は、全く別物と思いたいひとが多いから「避けられている研究分野」だと言われましたが、、

 

学問ってけっこう「需給関係」で成り立ってるから、「クールに客観的な損得関係ない研究」って意外と「どの分野」でも少ないようですが、、

 

こういうことが「壁を破って」共通し合う部分から「理解しあえる宗教の連携」が生まれて、世界的に「宗教が精神世界」をカバーできたら「人類にとって」幸いではないか?

 

と考えます。

 

http://jikoji-sapporo.jp/pdf/schoolH26-2.pdf

http://jikoji-sapporo.jp/pdf/schoolH26-2.pdf 

http://bauddha.dhii.jp/INBUDS/search.php?od=6&m=sch&uekey=観無量寿&ekey1=all&lim=20&offs=9

http://bauddha.dhii.jp/INBUDS/search.php?od=6&m=sch&uekey=観無量寿&ekey1=all&lim=20&offs=9

 

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L131.pdf

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L131.pdf

 

【観経道綽撰述説】って可能性もあり?

以下関連参考

ーーー

 

おわりに

以上,かなり煩雑な検討を行い,文章の入れ替えを行った。このような作業が正鵠 を射たものかどうかの判断はできない。しかし,一見矛盾なく読めそうな F観経』も,

経典という性格から離れて,もつばら文章構造という面から見れば,かなり文章的に 29) 第八緩及び第十三観の解釈については,注(1)米木3を参照。

 

 146 係;教大学総合研究所紀主主 第 7号

錯綜していることが明らかになったであろう。それは,この経典が本来異なる出典を 持つ話題を統合して,一つの経典になった結果だと考えられる。その話題とは,第ー に阿閤世伝説,第二に序分後半・定善十三観・流通分とが一つになった話題,そして 第三に散善三観となろう。ここで従来の考え方と異なるのは,定善十三観と流通分を 一つの話題と見なした点であろう。そして性格の異なる話題が,さまざまな接着剤に

よって,外見上は一つの話にまとまるように仕立てられた。それが『観経』である。 本稿では,以上のことを序分及び定善十三観を中心にして検討した。その結果,少 なくとも定善十三観は本来,その主体が阿難であることを指摘した。すなわちそこで

は,仏が意提希のみに対して語りかける場合は,それを語り終えた時に阿難に確認さ せ,そしてこの経典の主要部分になる箇所では,陣難のみに対して語りかけるのであ る。これは,この経典が本来は, ~可難にその内容を伝えるためのものだったことを物 語ろう。それでは,何故阿難に語りかけるのか。それは,未来世一切衆生のためだ、っ た。従って,主主提希にはそれが期待されていなかった。この経典は,章提希に極楽世 界に往生させることを呂的にしているように見えるが,実は,阿難にその内容を記憶 させ,それを未来世一切衆生に語り継がせる目的があったのである。このように考え ると,主主提希の役割も問い直す必要がある。本来,何難を中心として語られた定義十 三観に,巧みに意提希が組み込まれた可能性を否定できないように思われる。むしろ 掌提希を捨象した時,この経典の本質が見えてくるのかもしれない。

以上のように考える時,その前後に配置された阿罷世缶説や散善三観はどのような 位寵付けを与えられるのであろうか。これについては筆者の能力の範囲を越え,にわ かに答えは出ない。しかし散善三三観が後の浄土教思想に重要な意味を持ったとすれば, 少なくともこれなくしては r観経』が浄土教の主要経典の一つに数えられることは なかったとだけはいえよう。

〔付記〕

本稿は, jI弗教大学総合研究所「浄土教の総合的研究」班(主任・香川孝雄)における研究成

果の一部である。ただし本稿は,研究班終了後,筆者が独自で改めて F観経』を検討して得 られた結果が多く含まれており,研究班参加者の共通の認識となっていないことを確認して

おきたい。

2020-02-20 02:01:00

レトロなポンコツ❣️

この半年「歯」と戯れている。

 

詰めていたものが取れて「歯科医」に行ってから、

いままで「ブリッジ」をしていた部分があちこち連続して取れていく。。

 

全部で4ヶ所をやり直した。

 

そして少し前に「やっと終わった」と思ったら、昨日また別のところが痛くなって、今日歯科医に行った。

10年ぐらい前にブリッジしたところが「蝕まれていた」のである。

 

いまは、その時とは別の歯科医に行っている。

 

今日「神経をとって」仮詰めしてもらった。

 

一連の「治療」によって、「歯」を「0.数ミリ」削るだけで、

全く「感覚が違う」ことを発見した。

 

わたしは「お話し」をすることが多いので、

歯の具合によって、こんなに話しずらくなったり、話しやすくなるなんて。。

 

いっときは「酒飲んでるのか」と思うほど「ろれつが回りにくい」時もあったが、とりあえず「全部治療」したところ、思いのほか話しやすくなった。

 

と思ったら、10年ぐらい前のブリッジが。。

 

やはり「56」という年を過ぎて「ポンコツ」「レトロ」「クラシック」な身体になったと、「レトロやクラシック好き」な、わたしらしいと面白くなった❣️

 

とはいえ、わたしは、味のある「レトロな人格者」には、なれないから、

「ポンコツ」という表現がふさわしいようである😊

2020-02-18 17:42:00

真宗は難しくない❣️

真宗は難しくないのです。

 

誤解を恐れず単純化すると、「阿弥陀如来」を完全に受け入れれば、私の煩悩が見えるので、見えたら見えただけ、その反対方向へのベクトルに進めばいい。

 

だから煩悩があってこそさとりの方向がわかる。

 

それが「如来の願いを私の願いとする」ということ。

願いは方向と着地点ですから。

 

そして「如来の行ずることを行ずる」

行は、方向への行動と推進力ですから。

具体的には五念門行

礼拝(如来を受け入れ自分の煩悩に慚愧する)

讃嘆(如来の教えに生きる素晴らしさを伝える又は称名する)

作願(さとりへの願いを決定する)

観察(さとりを見るかのように現実の捉え方を変える)

回向発願(そしてそのように方向転換して進む)

なかでも、讃嘆が「利他」を促すので、中心となります。

 

そういう生活をすることを具体的には、自分の実践に基づいて伝える(讃嘆する)

布教というのはそういうことです。

 

石泉学派的にはですが。。。

 

十二縁起から。。

無明は「名字によって色(存在)」を定義する。

だから「名字を如来名字に変換して、色は空にして実相無相」の「智慧」を得る。

智慧即ち「仏慧」を与えんに「釈迦世にあらわれて《恵》に真実の利をもってせん。。」

これを以て「仏恵」とせん!

仏慧を恵に「名字」即ち「名号」となれり。

2020-02-18 16:46:00

なぜ自分を変えられないのか❓

【どうしたら自分を変えられるか?】

 

産まれたら「泣く」から、親などがきて「あやす」と、「笑う」❣️

その反応に赤ちゃんは、「泣くこと、笑うこと」は有効性があると認知する。

 

ネグレクトの親が育てると「泣くことにも笑うことにも意味がない」と脳が判断して「泣かない笑わない子になる」

 

ここで「行動心理学」がいう、「気持ち(こころ)より先に行動がある」という論が立つ。

 

行動心理学はいう。

「泣くから悲しくなってくる」「笑えば楽しくなる」

 

「どうしたら自分を変えられるか?」

 

「行動から先に作ること」である❗️

「なりたい自分を演じること」である‼️

 

「ボランティアに興味がない」「ボランティア精神がない」というのは、

やったことがなければ「当然」である。

 

「気持ちはどうでもいいからやってみたらわかる」

これは「なににでも言えること」である。

 

ここで「真宗には行がない」といってしまうと、「こころも育たない」といええる。

 

「聴聞だけではなにも変わらない」のである。

 

「法蔵菩薩を生きる」という「五念門行」が自己を変える。

 

とにかく「仏の願うところを願い、行じたもうところを行じる」ことが、「さとりへの精神を生む」のである。

 

他者依存をしている人は、その依存対象を真似て「偽(ニセモノ)になったらいい」と源左さんという「篤信者」も言っている。

 

ニセモノになったら、どんどん「気持ちもホンモノになる」ということである。

つまり「行動が心を作る」という「理」である。

 

「真宗には行があるから《行文類》がある」といえる。

「仏教が《行》を重んじる」のはこういう学があったからといえるだろう‼️