インフォメーション(日々更新中)
2020-08-20 02:37:00
布教「いまむかし」‼️
仏教の重要な論点である「無我」について。
昭和60年代ぐらいまで、「無我」を「霊魂のような魂はない」という意味で使われていましたが、これは間違いで「わたしたちすべてが〈我〉ではない」という解釈がサンスクリット語によって明確になり、「無我」よりも「非我(我にあらず)」のほうが明確だといわれましたが、今でも「無我」といっています。
しかしあくまでも「アートマンātman」の解釈が広いので、トータル的な研究での非我ですが、すべてが「我ではない」とするのが仏教での使い方です。
意外とそこは混同されています。
戦前や戦時中などは、布教を憲兵が聞いていて、天皇や国家批判などしようものなら逮捕されるなんていう時代が、そんなに昔ではないのです。
戦後70年以上経ったとはいえ、まともな研究の歴史は30から50年というところでしょう。
ですから、修正すべきは修正すればいいのです。
◯時代時代によって変化する教学
私の記憶ですが、昭和50年代までは「生苦は生きていく苦しみ」と布教使は話していました。
しかしサンスクリット原典や原始経典などの研究が発展し「生苦」は「生まれる苦(生まれること自体が苦)」であるということが明確にされました。
それから生苦については布教上語られることが少なくなり、老病死苦などの7苦ばかりが語られるようになっています。
人身受け難しと喜ぶことと、生まれる苦ということの矛盾がそこで明確化したわけです。
意外と本当の意味で教行証文類や歎異抄、原始経典などいろいろな聖典が公開された歴史が、戦後であり、かつ本格的な研究が始まったのは昭和40年代と新しいため、実は仏教の学問は歴史が古いようでじつは最近なのです。
つい最近といってもいいぐらい、昔は経典をごくごく一部の人が研究していたのです。
たとえば昭和60年代ぐらいまで、「無我」を「霊魂のような魂はない」という意味で使われていました。
しかしこれは間違いで「わたしたちすべてが〈我〉ではない」という解釈がサンスクリット語によって明確になり、「無我」よりも「非我(我にあらず)」のほうが明確だといわれましたが、今でも「無我」といっています。
この解釈でなければ「真如」とつながらないうえ、
中観の「空亦復空」ともつながりません。
もしそうだとすると「教行証文類」ともつながらないので、教行証文類がわからないとなってしまいます。
しかしあくまでも「アートマンātman」の解釈が広いので、トータル的な研究での非我ですが、「すべてが我ではない」とするのが仏教での使い方です。
今でも意外とそこは混同されています。
近年までのお西の布教使の学問は、先輩からの口伝の教育によるものでした。
そんな時代の布教使は学者ではないため、結構いい加減なお話も多かったのです。。
布教使ならずとも「龍谷大学の教科書」も、昭和3年生まれの父の大学時代の教科書は、やたら修飾語ばかりで、仏教の論がほぼありません。
「釈尊は偉大なる大医王であり、念仏はこれぞと法然上人が選びとられた広大無辺なる普遍的で非常にすぐれた釈尊出世本懐の唯一の衆生救済の手立てなること」なんていう文章は、なにを証明してきたのか。
お東さんは、学者だの布教使だのという分担ではなく、学者であれ住職であれ、学んだ人は布教をしていたと学びましたが。。。
まぁいずれにせよ、仏教の近代的学問の歴史は浅いと言わざるを得ません。
戦前や戦時中などは、布教や講義を「憲兵(軍事的警察)」が聞いていて、天皇や国家批判などしようものなら逮捕されるなんていう時代が、そんなにむかしではないのですから、それは当然なのです。
言論の自由になって70年もたつのに、いつまで「古典的な学問の仕方」を続け、むちゃくちゃな教学を振り回しているのでしょう。
今でも布教使が「迷信俗信批判」をしますが、現代人がうなずける「真宗」を説かずに、枝葉末端の話しばかりで迷信俗信がなくなると思っているのでしょうか?
迷信俗信にもそれなりの歴史があり、信じている人にとっては深い意味があることも多いのです。
また、仏壇のお供えの仕方や焼香は1回とか、ある意味「大きな問題ではないこと」を指摘するばかりで、なぜなのかをいわない。
昔「信は荘厳より生まれる」といっていたが、この場合の荘厳は「仏壇の荘厳」ではなく、「浄土の荘厳」を聞くことですが、なんせ真宗は「言語定義」しない話しが多すぎて、あいまいすぎる。
「文学ですから」では「さとり」が失われてしまうのです。
コロナから5Gに至る「冷戦」より怖い「見えない世界大戦」のなかで無意味な「対策に右往左往」するしかないようでは困ります。
行者の皆さま、ほんとうになにがより良い対策であり、行者の進む道かを追求して「世の中の不安に灯りを灯して」ください。
2020-08-20 02:10:00
お寺を病床に❣️
コロナで「病床が足りない」というのですから、
お寺のスペースをつかって貰えばいいと思います。
そこで仏法ひろまれとみなさんに灯りを灯してください。
2020-08-17 22:10:00
経営者コンサルタントによって会社が良くなるのでしょうか?
コンサルトに求められていることと、経営者がミスっていることがズレていたり、
経営者自身が変革するつもりがなく、社員の問題と考えていたり、
「現場も知らんコンサルになにがわかる」という社員がいたり、
そもそもコンサルが「5S」だとか、「ISO」だとか、「マナー」だとか、「マーケティング戦略」だとか、、
売りたい内容を売れば良いと思っていたり、
なかには「同業他社」を陥れて、顧問先に利益を誘導したり、、
ひとことでコンサルタントといっても、「税理士や中小企業診断士などの士業」から
「地方銀行の取締役を退職したひと」や果ては「メンター」を名乗るひとなど、、いろいろおられますが、、
肩書きに関係なく、ほとんどが医師のように「内科、外科、眼科、胃腸科、循環器科」などのような「部分はわかる」というコンサルが多いことや、
医師でも誤診してしまうことがあるように、どこまでコンサルが正確なのかということを数値化できるようでできないものです。
(コンサルが入って数字が上がったとしても、コンサルのなにがどうして、そういう結果になったかどうか、たまたまなのか、不明確です。)
つまり「コンサルタント」が明確に「良くしたかどうか」が証明しにくいのです。
コンサルタントには「全体を見て、改善すべき点をどうするか」という観点が重要だと言えます。
以前わたしがコンサルの顧問をしていた会社に、たまたま別ルートから入った「事情」があって、「経営改善されたところ」がありますが、
当時はそれを「自分の手柄」のように宣伝に利用したことがあります。
そういうようなことはいくらでもあります。
また、「この会社はダメコンサルに振り回されている」と思って「善意で忠告」しても「腐れ縁」でやめてもらえない、、
「ひょっとして辞められたらもっと悪くなるかも」という依存不安によって、どんどん悪化する会社もあります。
そういう意味では「コンサルタントを見抜くこと」ができない経営者がコンサルタントを入れても、
それがいいのかどうかさえもわかっていないので、結果うまくいかないという事例もあります。
縷々書きましたが、「コンサルタント自身が会社といういのちを助けることができるか」
「経営者がコンサルタントの良し悪しを見分けて、丸投げではなく、うまくコミュニケーションをとり、改善に努める姿勢を持つかどうか」
ということになるといえるでしょう。
2020-08-17 22:06:00
なぜ宗教が戦争をするのですか?
宗教がなければ「もっとひどい状況」になっていたとも言えますが、
この問いは、「よくあるけれど、みんな大雑把すぎ」て回答に困ります。
宗教にはそれぞれ個人的な受け取りや解釈が発生するので、
あくまでも、宗教が戦争をしているのではなく、「人間」が戦争をしているのであり、「理由を宗教においている」としても、
そのひとたちにもし「宗教」がなかったら「戦争」していないのか、というと「理由はなんでもいい」ということになるのではないかと思います。
人間の多くは「なぜお金にこだわって競争する」のでしょうか?
という問いとほぼ同じだと言えます。
「資本主義国」と「共産圏」がうまくいかず、発展途上国においてはどうなのか、研究者でなければわからないと言えます。
また、みなさんの「家庭や職場」などにおいても、「争い」は起こると思います。
そういう意味で「人間の愚かさを改めるなんらかの教え」がない方が怖いともいえるでしょう。
憲法にせよ、なんせよ、扱うひと次第ということです。
とにかく「宗教」じゃなくとも「争う材料はいくらでもある」ということです!
2020-08-14 03:06:00
仏道道場へようこそ❣️
「仏教を学ぶ」といったセミナーや講座はあるが、
「仏道を共に行じてみましょう」といった「本来」を門徒さんや一般の人に呼びかけている寺院が少ない。。
そこにも「浄土真宗」には「行がない」から、「仏願の生起本末」を聞いたらええねんということを言われる。
これは、真宗教学が江戸教学から進歩していないということが、原因のかなりな要素をしめているといえるだろう。。
やはり「学習と実践」をどのように現代に訴えていくかを「改めて」考えることが必要だと思う。。
現代に向けての「仏教の智慧と慈悲のメソッド」が必要であろう。
わたしは、最近試行錯誤しながら、仏道道場を開始した❣️

