インフォメーション(日々更新中)
2020-07-18 17:28:00
お茶の入れ方?
今日、ある仏教会の法要に参加したが、西本願寺以外の宗派には「僧都だの、僧正だの」といった「僧階」がある。
浄土宗にもあるが、同じ浄土宗同士でも、僧階の高い人は「プライド」も高く、自分より低い僧階の住職には「つっけんどん」な態度であった。
お茶を入れてくれた方々にも「お茶の置き方が悪い」といったことを平気で言っている。
もちろん「我々真宗」なんか「バカにしている」ので、会話さえしてこない。
浄土宗の住職は「なにも教義を知らない住職が意外に多い」けれど、行者ともいえず、「三宝」に帰依しているなら「和合」があって然りである。
お東さんにも「僧階」があるようであるが、本来仏教にそのようなものはない。
西本願寺はそういう意味のプライドはない。
改めて、「僧侶」とはなんなのか。。
考えさせられた‼️
2020-07-17 23:12:00
出門せよ‼️
世親菩薩(天親菩薩)の浄土論は「入門と出門」が説かれている。
真宗であろうが浄土宗であろうが、この「出門」を死後の「利他」の話に置いているように思える。
しかし、現実的に「死んでからの話」に意味はない。
「死んだら成仏して利他の菩薩として化身してみんなを救う者になるんだよ」といえば綺麗な微笑ましいお話ではあるけれど、、
いまのわたし自身の問題に意味をなさない。
ご先祖が「そうやってわたしを助けてくださっているのです」といっても「具体的になにがどうなっているか不明」であり、、
かつまた「先祖供養(讃嘆供養)」こそ重要だという教えになってしまう。
浄土論を読んでも、その注釈である「曇鸞」の「浄土論註」を読んでも、「出門」は「行者であるわたし」のあり方であり、、
「出門」である以上「セクトを超えて利他ること」といえる。
この数年さまざまな教えや思想などに触れることにより、宗派のセクトにこだわる意味や理由は「どの宗派」においてもない。
と思っている。。
2020-07-17 03:58:00
貼り紙禁止!
これを読んでいるみなさんは、この文章のなかで色々な思いを巡らされると思うけれど、中にはただ読み流してなにも残らないひともおられるハズだと思うのです。
それはその人の興味が「内容」なのか、わたしなのか、投稿そのものなのかどうかという「読み手のモチベーション」によるといえます。
この文章は「貼り紙禁止」と書いてある「貼り紙」は「貼り紙なのか?」という論理的な内容にも似たことを書いているのですが、、
「貼り紙禁止」と書かれた「貼り紙」は「論理上」貼り紙にはならないということを理解していただければわかることです。
「今日わたしはあることを通して、コロナの真実を知り、今後どうなるかというサゼスションを得ました。」
「とにかく23年までに大転換が起こります。」
あなたはこの文章からなにを読み取られるでしょう。
よくよくお考えいただければと思います。
「貼り紙禁止」は貼り紙ではないのですから。。
2020-07-14 03:13:00
ひとはなぜ擬人化したがるのでしょう?
私見です。
日本では「太陽」を「お天道様」といったりしますが、
たぶん、日本人は「すべて神」であり、そのトップが「天皇」という歴史があるのではないかと思います。
そういう意味で「お天道様と雲」はセットで「お天道様」が雨を降らせてくださった。。
という表現をしたりという意味では「お天道様」は「太陽以上に広い概念」なのかもしれません。
そういう意味でも、「石や樹木」にもなんらかの「神的な要素」をみているから、、
到底論理的には理解できない「石」を拝んでみたり、「御神木」だとかいってありがたがったり、
「御神体は鏡」だったりという、意味不明な信仰があります。
また、仏教でも「論理的な思想や哲学的側面」よりも、「阿弥陀さま」という「擬人化」した信仰が自然に溶け込むのでしょう。
阿弥陀如来は「字も読み書きできない、抽象概念のわからない時代の人」に「法 धर्म Dharma」を人格化して表したものと論じても、
やはり「阿弥陀さま」の方がしっくりくるという「寺生まれの若い僧侶」はいいます。
日本人には「論より情動」の方がいいのです。
つまり日本人は基本的に多神教の文化で、「論よりストーリー」という文化ですから、
そのうえに「戦後教育」で「考えない、論じない教育」を受けているので、
「太陽や気象論」よりも「お天道様」の方がいいのかもしれません。
とはいえ、その方が「もったいない」とか「物にも命を見る」という、
感謝の文化が基本になっていて、「米粒ひとつの恵」を大事にするという意味では、
世界に類を見ない文化といえるでしょう。
「虫でも、虫さん」といえる文化です。
しかし、最近はそういう文化も「どこへやら」となってきており、
無理くり「ありがとう」と言わされているだけで、
心から「うれしいね!」「ありがたいね!」ということが減っており、
形式だけになっているのは残念な気がします。
「擬人化すべきこと」と「論じるべきこと」が不明瞭にもなっているように思います。

