インフォメーション(日々更新中)
2020-07-11 00:00:00
入信したくなる新興宗教を教えてくださいという問いに。。
およそ、どの新興宗教にも熱心な信者さんがいるということは、その人たちのニーズに合ったということでしょう。
では、どういったニーズで「そこ」を選んだのでしょう。
実際には、入信する時に「自分からカタログで選ぶように」して入信するひとは少ないといえるでしょう。
そこには「介在するひと」がいるはずです。
あるいは「なにか悩んでいる時に、介入するひとが出てくる」ということもあります!
そういう点で、どの宗教がいいかとカタログを広げて考えるよりも、どういう新興宗教のひとがいて、
その中で魅力的なひとがいたら「そこ」にされたら良いと思います。
近隣に選択肢があれば「まずはいつでもいいからいくつか行ってみて」魅力的ひとがいるかどうか探るのもありでしょう。
選択肢が少なければ、とにかく近隣にあるところに行ってみることしかないといえるでしょう。
教会や寺院が遠いと続かないと思います!
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身近な既成寺院などに魅力があったらいいのにという提言かと思います。
2020-07-10 23:50:00
空ってどういうことですか?に回答する場合‼️
よく「死んだらどうなりますか?」などと聞かれることがありますが、
「表面の問いに内在する問い」がほぼ確実にあります。
興味本位以外に、ほんとうに死者を思っている。自分の死後がマジ怖い。
なにか不幸と思われることが続いている。哲学的探究をしている。。
などの「問いの中にある問い」を引き出すために、「なぜそこが気になるのか?」と問い返すことです。
「空」などの教えは「興味本位」で聞かれることが多いので、
「空について、どのような興味をお持ちですか?」と問い返すところから、
聞きたかったことが出て来て、じゃあこのぐらいの説明でいいか!
というケースやその人が「空」などの教えを知ってどうなろうとしているのか?
ということから、よりそのひとにとって的を得た回答を考えることができます。
2020-07-10 04:31:00
ほんとうのお金もちを見抜くには、どうしたらいいですか?という問いに。。
日本で「ほんとうのお金持ち」はほんのごく少数ですし、そういうひとは「お金もち」とすら思っていません。
思考の次元が違うんです。
よしんばお金があっても「口にしません」から、都市銀行が把握しているだけではなく、海外口座にもあるひとです。
そういう意味では、ほんとうのお金もちというのは「なにが起こってもお金に困らないひと」のことを言います。
貨幣価値が変わろうと、大災害で大きな犠牲が出ようと、究極戦争になっても困らないひとです。
ですから、お金もちだと口にするひとは「ホンモノを知らない」と思ってしまいます。
小金持ちレベルです。なにかあったら失うような次元です。
そもそもお金を持つ以上に重要なことは「あなたを助けてくれるひと」がどれだけ居るかということです。
お金もちはどこにいるかわからない。
小金持ちは助けてなんかくれない。
という意味では、詐欺師のようなひと以外の人間関係を大事にすることや「まずはなんでもいいので助けてあげること」です。
また、ひとを見る基準を「お金の有無」ではなく、「ひとを大事にするひとかどうか」ということです。
そのひとが「ど貧乏に見えていても、見えていることが事実ではない」からです。
人間世界を生きるうえで、この重要ポイントをミスることで、不安や悩みが増えることになります。
2020-07-10 04:12:00
煩悩はなくせる❣️
煩悩は、「自己や周囲を煩わせ悩ます心の動き」を指します。
そして「煩悩」について「むさぼり、怒り、愚かさ」の3つが3大煩悩と代表されるのか。
これらの背景には「人間種」という生命が「精神的成長を遂げていない」ため、
「本能や情動」に支配されているということがあります。
「なければ不安」「あってもなお欲しい」ということから「むさぼり」を生み。
「自己をないがしろにされた、傷ついた、取り越し不安」から「怒り」を生み。
「勝つために、儲けるために、待遇が悪い」というようなことから「愚かさ」を生む。
といえます。
これらは、およそ「自己防衛機制」といえますが、人間は他の動物と違って、
「種」としての生き残りを「頭脳に託しているため」に、煩悩という「未成熟な防衛機制」を生むのでしょう。
自己防衛について、思想や哲学や宗教などを通して成熟させることができると、煩悩は必要なくなると思っています。
実際、仏道を歩むと煩悩という「防衛機制」は必要がないという「智慧」を得ることができるので、
これらについて「意味がない」と思えるようになります。
そういうひとが増えることを願っています。
2020-07-10 03:54:00
めんどくさいかも(再び)❣️
「至心信楽の一心」を「プラサーダ」で「浄心」定義するなら、
「信楽の一心は浄心」になるというところからも、「往生は現生定義」でなければ、成り立ちません‼️
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すべては「情報の発信者と受信者」が「言語または画像で定義した世界」を生きていますから、
《人為》が入るのです。
しかも「情報の発信者と受信者」が「言語を同じ定義で生きているとは言えない」という《大問題》があります。
人間が「現在までのコンピューター」とは違い、「知、情、意」で思考している以上、
「まったく同じ」にはならないため、基本的には「アインシュタイン」を待つまでもなく、
「すべてが《同じ次元を生きている》とは言えない」のです。
だから、同じ宗教の「布教者」によって「聞き手」が同じ次元の内容を喜び、かつ同じ宗教の「別の布教者」が「同じ文言で、違う次元の話をする」と「わからない」ということになります。
外国語を「翻訳」するときに、ある翻訳者が「日ごとの《糧》」という翻訳をしたケースにおいて、
この外国語を「別の翻訳者」が「食べもの」と翻訳した時に「先の翻訳者」が《いのちを生かすことがら全てを指して翻訳した》としても、
文言通りに「食物」と「理解するもの」がいれば、
前者の「翻訳」の「糧(かて)」という意味が、事実上「狭く(せまく)」なってしまいます。
つまり「糧」を、後者の「翻訳」では、「食物限定」に狭められたことになり「次元」に変化が起こります。
そこで布教者Aが「食べもの」と書いているけれど、「じつは深い意味があって云々」とわざわざ説明しなければならないことになります。
しかし、布教者Bが「毎日食べものが与えられているのは神(または仏)のおかげです」といってしまうと、布教者Aと「次元が変化」します。
つまり「信心」は、「サンスクリット語ではプラサーダといって「浄心」をあらわします」
と、「学者らしくいってみても」「サンスクリット語」で「プラサーダ」と記述されている「意味不明な文言」が、「浄心」と翻訳された時点で、「なんとなく理解できる言語になり」ます。
しかしここに先ほどの《大問題》が生まれます。
それは、この「浄心」を説明する布教者によって「定義がほんの少しでもズレ」ると、《全く次元が変化》するということです。
現代の「中国語の共通語」で、日本語の「声」を中国語に翻訳すると、「声音」になり、「音」を翻訳しても「声音」(Shēngyīn)になります。
このケースでいえば、「前後の文脈やシーン」によって解釈が変わります。
このように、わたしたち人間は、日常的に「同じ言語で、違う次元を生きている」ので、
なにが「真実か」というテーマは、じつは人ごとに違うのです。
なにが「真実か?」というテーマは「多数派や論理的か、または権威」といった基準で「判断」されていますが、
これにしても「操作された多数派」ということもあり得ます。
「ダーウィン」を「多数派」として、「論理的」と考えている「ヒト」が多いと思われる日本においては、「あたりまえのように《進化論》を信じる」という状態になっています。

